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第四章 ‐ 裏切者は誰だ ‐

035話「包囲網を抜けて」

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第35話「包囲網を抜けて」


 レモンスカッシュ色の軽自動車が都内の住宅地を走る。それは逃走にしてはノロノロとした運転で、まるで免許の取りたて若葉マークか、高齢者の運転する車なのかと言いたくなるような退屈な運転だ。後ろに車が居たなら煽られたかもしれない。

 組織のビルの警備を担当する超法規的警備会社――――日比谷警備保障の、運転の得意な社員にドライブに連れて行って貰い、風を切ってハイウェイを駆け抜けたあの高揚にはあまりに遠い。

 だが、この運転の方が様々な意味で安全である事は、れっきとした事実だった。車のシートにもたれかかっていても、遠くのパトカーのサイレン音が微かに聴こえて来る。時速100キロを越える速度で風と一つになるよりも、注意を引かず、面倒を避けて安全圏まで帰還する事が大事だった。

「先生、これどうぞ」
 隣に座る望見座モミザが差しだしたのは、飲み屋や美容院で渡されるような使い捨てのおしぼりである。

「ああ」
「そんな顔してると、おまわりさんに呼び止められちゃいますよ。拭いてください」
 モミザがいたずらっぽく言った。
「ありがとう、そうするよ」

 受け取ったおしぼりで顔を拭くと、壮絶極まる閻魔大王の如き形相の下に隠れた精悍な顔つきが徐々に現れた。顔や手など、目立つ箇所の血を拭うと純白の布はあっという間に赤く穢れて、用を為した後は後部シートの足元に捨て置かれる。

「まだ汚れてますよ」
 未だ首や襟筋に生々しい返り血が際立っているのを見つけたモミザが追加のおしぼりの封を切って、無間の身体を拭き始める。

「自分でやるよ」
「恥ずかしがっちゃダメですよ。こういうのは見えないところが汚れたままになるんですから……ほら」
 モミザの甘い吐息が冥府の主の耳をくすぐった。無間は返事をせず、代わりに唸る様にして喉を軽く鳴らす。

 そうこうしていると、近づいてくるサイレン音が三人の耳に届く。運転手に座る雲母キララは、道路の向こうから警視庁のパトカーが一台向かって来ている事を確認した。

 大通りと違って住宅街の道幅は車が二台行き違えるのがやっとの広さで、雲母の運転するプレオ・プラスは徐行し、その場に一時停止する。

 ――――すると、何を思ったかモミザが突如、無間の胸へと飛びこんだ。無間はというと、顔色を一つさえ変えず彼女の頭を抱き寄せる。若い女性の色香を無間の獣のような嗅覚が捉える。モミザの明るいブラウンの頭髪からは香水によるレモンやオレンジ香料の香りがした。

 狭い住宅路をパトカーが低速通行し、プレオ・プラスとすれ違う。途中、助手席に座った警察官が険しい目でこちらを一瞥したが、後部座席で男女が抱き合う姿を目にすると片眉を吊り上げて、わざとらしく肩をすくめて正面へと向き直った。それを目にした雲母はまるで、警官のため息が車ガラス越しにも聴こえて来るような錯覚を覚えた。

「行ったな」
 無間が小さく呟くのと、雲母が無言でアクセルを入れなおすのは同時の事だった。レモンスカッシュ色の軽自動車は通り過ぎたパトカーを背にして大通りを再び目指す。

 無間は抱き付いたモミザを自分の体から引きはがす、モミザはどこか不満げな表情を見せたが、冥府の主はそれを関せずといった様子だ。

「先生、こういう時も全く動じないんですね」
「優秀な警察官ほど、自分の仕事をいたずらに増やさないものだ」
「そうじゃなくて……せっかく抱き付いてあげたのに、心拍数まるで変わらなかったじゃないですか……わたし損しちゃいましたよ」
「感情抑制の修業を受けた」
 無間があまり涼しい表情で答えるので、モミザは思わずその頬を空気で膨らませる。

「はいはいそーですかー。……というかそんなの本当にあったんですか? 私受けた事ないですよ?」
「今は安全に簡素化された。昔はあった。だが人格を矯正する修行は、倫理道徳以上の問題が余りに多く封印された」
「ふうん、その修行受けると、皆先生みたいにセクシークールなマッチョになっちゃうんですか?」

 モミザが冗談を口にすると無間は一度失笑し、それから真顔で言った。
「そんな面白い物じゃなかったらしいぞ。過酷な修業に耐えきれず精神が崩壊し自殺した者。ある派閥は物理的な手法ロボトミーで解決しようとした結果、弟子が廃人になり、師範は弟子の一人に斬り殺され、その道場は宗家そうけの逆鱗に触れ閉鎖に――――。

 修行自体は成功したが私生活に悪影響を与え、家庭崩壊した者。感情抑制が上手く行かず倫理道徳のみの情が欠如し、欠如した感情を他の感情……特に暴力的な欲求で補うようになった者も…………キリがないな」

「まーた先生はそうやって生徒を脅かしてえ……」
 序の口を聞いただけ身震いしそうな内容に、無間先生はまたそうやって極端な事例の話をして、後輩生徒をわざと怖がらせているのだと決めつける。

「全て聞いた話だがな、ただ実際にあったらしい。巌山ガンザン先生が出所出来たら、酒の席で聞いてみるといい。僕よりあの人がこの事に詳しい」
巌山ひろせ先生、そういう系の話はどうせ教えてくれないでしょ」
「後ろめたい事は、隠したがるタイプの方だからな」
 無間が腕組みして言った。その一言には様々な意味が込められていた事を、二人の若い女性戦闘員は知る由もない。


 安全運転を続ける雲母が住宅地を抜けて大通りの車線に乗ると、サイレンをけたたましく鳴らす救急車の姿を三人が見かける。
 近隣病院はこれから大忙しだ、数日程は昼と夜の区別のない過酷な環境を強いられるだろう。そのせいで、この一件とは無関係の急患が病院に受け入れてもらえずに、命を落とす事もあるかもしれない。戦いのツケを払う羽目になるのが、常に当事者だけであるとは限らないのだった。


 軽自動車のサイドガラスは、霧のような雨ですっかり濡れている。モミザがスマートフォンで天気予報を開き「雨、続きそうですね」と口にした。


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