透明な世界でふたり

たけむら

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第1話

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朝は車通りも少なく、波の音と遠くの蝉の声がよく聞こえる。まだ肌が焦げつくほど日差しは強くなく、爽やかな夏の風が気持ちいい。夏休みの補習に行くためのこの道も、それほど億劫に感じない。


勉強は、もともと嫌いではなかった。けれど、高校生になって、進路について考えなければいけなくなり、急にわからなくなってしまった。周りの人は、好きなものをまず見つけたらいいだとか、自分の得意を伸ばしたらいいだとか、調べれば見つかるだとか、アドバイスをしてくるけれど、好きなものといえば、ゲームくらいしか思いつかない。ゲームが好きと言っても、プロの選手のように極限まで腕を磨き上げてきたわけでもない。オンライン対戦でも、自分よりも強い人なんてごまんといるし、どう頑張っても、追いつくことはできないだろう。小さな頃から何かスポーツに打ち込んでいたわけでもないし、音大に行けるほど楽器を美しく弾けるわけでもない。今から何かを一生懸命練習したとしても、小さな頃から続けてきた人には到底敵わないだろう。ただ流されるままに生きていたら、いつの間にか何もない人になっていた。何もない人は、一体何になれるのだろう。


下向きになる気持ちを振り払うように、夏の朝の空気を吸い込んで、駅から高校までの道を歩く。空は透き通るほど晴れていて、息を吸い込むと、朝の風が、空っぽの胸を満たした。少しだけ気分が良くなって、横断歩道を待つ。朝は人通りもまばらで、自分の他に歩いている人なんてほとんど見かけないのだが、今日は先客がいた。


太陽の光に当たって茶色く見える髪の毛をショートカットにして、まっすぐに流している。オーバーサイズの灰色のパーカーは、その細い体の線をかえって強調していた。


その人が不意に歩き出し、釣られるようにして歩き出す。ふと横を見ると、トラックが勢いを緩めずにこちらへと走ってきていた。トラックは、歩行者などいないかのようにスピードを緩めずに横断歩道へと突っ込んでくる。あまりの恐怖に体は強張り、喉に声が張り付いて出てこない。


言わなければ、伝えなければあの人は轢かれてしまう。気がついてしまったから、自分が伝えなければだめだ。眼の前で、自分のせいで、人が死ぬのを見るなんて夢見が悪すぎる。

「あのっ、車来てますっ」
「えっ?」

こちらを振り返ろうとする途中で、その人は迫ってくるトラックに気が付いたらしい。避けようとこちらに向かってくるその人の動きがやけにゆっくりに見える。寄せては引いていく波の音も、電車の音も、蝉の声も聞こえなくなったと思った次の瞬間、タイヤと道路が擦れる嫌な音が響き渡った。


トラックから降りてきた人は、倒れている男性と、尻餅をついている自分の姿とを見て、スマホでどこかへと電話をかけた。程なくしてやってきた救急車から降りてきた救急隊員が手際よく担架を取り出す。サイレンの音を鳴らしてやってきたパトカーから降りてきた警察官は、運転手と話し込んでいる。キビキビと動く人の中で、自分だけが何もできずに座り込んでいた。


訳もわからないまま、なぜか一緒に救急車に乗せられて、病院であれこれ検査をされた。自分は、びっくりして軽く尻餅をついたくらいだったから何ともなかったけれど、車と接触してしまった男性は、その場で緊急手術となった。

「ごめんね、付き添ってもらっちゃって。ありがとう」
「いえ。…手術、無事に終わって良かったですね」
「うん、先生には感謝しないと」

その男性は、白波瀬さんといった。同い年くらいかと思っていたら、なんと25才の社会人だった。ベッドの上で、上半身を起こして、ベッドサイドに座る俺に顔を向けている。困ったように笑うその顔と、病室の窓から見える高い太陽に照らされた海とが、よく似合っていた。


社会人なのに、そんなに長い間、会社を休んで大丈夫なものなのだろうか。それとも、どこでもできる仕事をしているのだろうか。聞きたいことは色々あったけれど、それを口にすることはためらわれた。初対面だから、というだけではない。白波瀬さんは一見穏やかで、話しかけやすい雰囲気なのだが、一線を引かれているような遠さを感じる。まるで透明なガラスに隔てられているようだった。

「光瑠さんは、高校生?」
「はい」
「夏休みは、まだなの?」
「いえ…俺成績悪くて、夏休みの補習に引っかかっちゃったんです」
「っふふ、じゃあ勉強頑張らなくちゃね」

穏やかな声で、ゆっくりと問いかけられる。笑った瞬間に、まつ毛が長いな、と思った。そして、横断歩道で見たときから思っていたけれど、この人はやっぱり線が細い。年下の俺のことを下の名前に「さん」付けで呼ぶところ、口に手を当てて笑うところ。ひとつひとつの動作が、あまり周囲にいなかったタイプで、つい、じっと見つめてしまう。

「じゃあ、明日も補習?」
「そうっすね」
「そっか。僕は明日何しようかなあ、何か本とか持ってきてればよかったんだけど」

独り言のように呟いた白波瀬さんは、少し伸びをすると、窓の方を見た。海を見て、やっぱりきれいだね、と呟く。確かに、この真っ白な病室は何もない。誰か他の人が部屋にいれば、まだ話し相手もできたのだろうけれど、4人部屋のこの部屋にいるのは、彼ひとりだけだ。自分と二人の今でも、会話が途切れるたびに、静寂が部屋の中に満ちる。廊下から聞こえてくるざわめきが、かえってこの部屋の静けさを際立たせていた。

「あのっ、また明日も、補習の帰りに来ても、いい、ですか」

黙って海を見つめる横顔があまりにも寂しそうで、気がつけば思わず声に出していた。

「本当? ありがとう」

こちらに顔を向け、一瞬瞳が大きく開かれた後、嬉しそうに細められる。少し首をすくめて、上目遣いでこちらを見てくる視線をまともに受けて、今更人見知りを発揮してしまう。不意に出た声は、裏返っていて、言葉になっていなかったな、と帰り道に反省した。
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