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第165話 忘れていたのでしばらく整理したい

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「どうしてこうなった」

 咲夜がやって来たぞ!
 その衝撃が大きく、思考のほとんどが飲み込まれ、楓はここ数日注意力を欠いていた。
 それは、準備の時でも変わりなく、何をするのか把握することができていなかった。
 加えて、慣れによりいつ何をするのかに意識をしないで過ごしてしまっていた。

「これはおかしい。いや、何もおかしくないのだが、やっぱりおかしい」
「どしたの? また遅れるよ?」

 不思議そうに桜に言われ、楓は渋々必要なものを持った。
 体育の時間だというのに、楓はゆっくりとしていた。
 普段ならば一目散に着替えを終えて逃げ出すように集合場所へと移動していたが、今日は体育を忘れていた衝撃で固まり出遅れていた。
 そんな楓を、咲夜はうかがうように棒立ちで待っていた。

「兄者、そろそろ行こう。俺、わかんないから案内してほしいし」
「う、うん」

 楓は覚悟を決めて、教室を出た。



 もう慣れたと思っていたものの、楓は手に汗をべっとりとかき、呼吸のペースを乱していた。
 咲夜の変わり果てた姿。それを前にして冷静ではいられなくなっていた。
 堂々と着替えているせいで、服の上からもわかる大きな変化を改めて直に見せつけられた形となった。
 そのせいで楓は口を半開きにして、再び停止していた。
 自分のことよりも、弟の変化に気を取られ、じーっと観察するように見ていた。

「兄者。改めて見られると恥ずかしい」

 頬を染めた咲夜にぽつりと口にした。
 楓はハッと目を見開き、我に返った。

「ご、ごめん」

 そっと目をそらすと、楓も顔が熱くなることを感じていた。
 いつも以上に体に熱を感じ、思考が鈍くなっている。
 すぐに問題が積み上がり、目を回す。
 今ここで何をすればいいのだろう。楓はただその言葉を脳内で繰り返していた。
 辺りを見れば、皆、咲夜の肉体に釘付けになり、楓のことなど見ていないようだった。
 体格差や髪の色の違いに、たまたま苗字が同じだけということが蔓延している気がした。
 それならそれで構わない。そんなつもりで、楓は着替えに手を伸ばした。

「なあ、ずっと気になっていたのだが、二人はきょ、むぐ」

 楓は慌てて真里の口を押さえた。
 そして、片方の手で人差し指を口に当て、ゆっくりと押さえていた手を離した。

「……どうして二人の関係を素直に言わないのだ? 隠してるから面倒なのではないか?」

 真里は声量を落として言葉を発した。
 普段なら、何がなんでも一番になるために、着替えでも真っ先に移動している真里。
 にも関わらず、そんな疑問のせいか、ゆっくりな楓に合わせているらしかった。

「そりゃ、この世界ではそうなってないみたいだし」
「そうなのか?」
「そうだよ。だって、僕の今のお母さん。咲夜見ても反応してなかったからさ」
「そうか。兄者には新しい家族がいるんだよね……」

 咲夜はどこかうつむき加減で、再びぽつりと声を漏らした。

「でも咲夜だって、家族のように接してくれる向日葵たちがいるでしょ?」

 楓の言葉に、向日葵がピクリと背を震わせた。
 しかし、反応はそれだけで向日葵は楓に背中を向けたままだった。

「うん。茜さんも真里ちゃんも俺に優しくしてくれたよ。確かにそうだね。この世界での俺の家族は兄者だけじゃないね」

 楓の言葉を聞くと、一転、咲夜は顔を明るくした。
 だが、楓にはその顔がどこか晴れず、何かを隠しているように見えた。

「うん? ということは、咲夜は私たちと家族で、楓ときょうだいではないのか?」
「兄弟だけど、きょうだいじゃない。そんなところじゃない?」
「よくわからないのだ」
「僕もそうだよ。でも、それでいいし、それがいいんだよ」

 真里は腕を組んで首をかしげていた。
 楓もそんな真里を見ながら、よくわからない自信で笑みを浮かべていた。
 そう、言葉で定義できない。だからといって、楓にはそれが悪いこととは思えなかった。
 これもまた一つのあり方。そう思いながら、楓は咲夜に視線を戻した。

「それでいいよね」
「うん。でも、意外と時間に余裕があるんだね。俺、結構忙しいもんだと思ってたけど」

 ふっと視線をそらされ、楓は時計へと目を向けた。

「だー!」

 周りを見ると、楓たちを残して誰もいなくなっていた。

「まーた話してたら遅れるところだった。急がないと!」
「やっぱり?」

 急遽焦りつつ服を身につけ、楓たちは急いで更衣室を出た。



 またもギリギリになりながら、なんとか授業開始には間に合った楓たち。
 必要以上に疲れていると思いつつ、楓は膝に手をついて呼吸を整えていた。

「待ち時間に走っておくとはいい心がけだな」
「え、いや、あの。あ、ありがとうございます!」

 ただ遅刻しそうになっただけです。そう心に浮かべながら、楓は苦笑いで頭を下げた。
 間に合えば何も問題はないのだ。
 そんなつもりで準備を終えると、始まるのは持久走。
 着替えの時とはまた違った理由で、楓の心臓は大きく脈打っていた。
 楓は短距離よりも長距離を苦手としていた。
 長く走り続けることが辛いということもあったが、単に体力がなかった。
 この世界に来てから鍛えられたこともあり、以前よりは自信も出ていた。
 しかし、それでも持久走として取り組むことはほとんど初めてだった。

「位置について、よーい」

 笛の音が鳴り、生徒たちが一斉に走り出した。
 爆速で飛び抜けた真里を横目に、楓はマイペースで走り出す。
 しかし、真里の勢いを見て、ペース配分ができていないと口にする者がチラホラいた。
 真里のことを少しは知っているはずだが、まだまだわかっていないのだろう。
 真里からすれば、持久走でも短距離を走るのと変わらないはずだ。
 実際に、百メートル走の勢いでペースを落とさずに走り続けている。
 全力を出し続けた方が早いのだから、真里にとっては正解なのだろう。
 そして、すでに真里に何周か抜かされた楓はというと、向日葵と咲夜に挟まれ一定のペースを保っていた。

「二人も真里みたいに走っていいんだよ?」
「私は楓のペースメーカーになりたいから」
「それはありがたいけど」
「俺は正直、この間全力で走って満足だったから、今はほどほどいいかな」
「なるほど。あの時ね」

 うんうんと頷いてから、楓は苦笑いを浮かべた。
 いいこと言ってるようだが、手を抜きますって宣言してる。
 そのことを指摘することはなく、楓は走ることだけに意識を向けた。
 気づけばそれぞれのペースが作られ、ただ全力で走り続ける真里を除き、いくつかの塊ができ始めていた。
 楓はというと、負のオーラを放つ二人のせいか、三人で一塊になっていた。
 左右を見れば息苦しくなるため、できるだけ前だけを見て走っていた。
 だんだんと走ることにも体が慣れてきて、苦しさも取れてきた。
 しかし、別の理由で難しさは解消されていなかった。
 それは、今の持久走にゴールがないこと。
 ゴールがあるなら、そこを目指すこともできたが、ただ校庭を周回するだけ。
 そう、時間の限り走り続けるのだ。
 どれだけ走っても景色も変わらなければ、進んでいる実感も得られない。
 となれば、どうしていいかわからなくなってくるというものだった。

「なあ、向日葵たちはもっと速く走らないのか? さすがに張り合いがなく飽きてきたのだ」

 一週ごとに残像を残しながら、真里がそう話しかけてきた。
 ぶっちぎり一位を維持し続けている真里。
 走ることに関して、問題が起きるはずもない悪魔ならではの悩みだが、向日葵も咲夜も首を縦には振らなかった。

「私は楓と走るの。楓を一人にできないから」
「俺もそうだ。こんな奴と兄者を二人きりにできないからな」

 視線をぶつけ合わせ、間に火花を散らしながら、二人は真里に対して答えた。
 間で睨みを受けるのは楓だったが、二人は見えていないように厳しい視線をぶつけ合っていた。

「そうなのか? なら、私もこのペースに合わせるのだ」
「何故?」

 楓が聞くより早く、真里のノイズの入った姿が、しっかりとした実像に変わった。

「一位になるのが大事じゃないのだ。誰かと戦い、結果として一位を取ることが大事なのだ。勝てる試合をしても楽しくないのだ」
「今までほとんど負けてきた僕にはわからない感覚だ」

 楓の言葉を聞き、真里は満足そうに口角を上げた。

「まあ、楓の実力なら仕方ないな」
「ものすごく馬鹿にされてる気分なんだけど」
「そうだ! なら、私が連れて行ってやろうか? それは一つ面白そうなのだ」
「連れてくって、どうやって?」
「こうするのだ」

 ペースを合わせるはずだったが、楓が首をかしげたことに合わせて、真里は楓の手を引いた。
 一瞬だけ、驚くような顔の二人が視界に入ったかと思うと、急速に視界の情報量が上がった。
 一度に大量の情報が流れ、まともに脳で処理できない。
 早送り中の映像のように、あらゆるものが現れては消えていった。

「なにしてるの?」
「朝の二人の真似なのだ。一人では余裕でも、人を抱えてならそうとも限らないかもしれないしな」
「そうかもしれないけど、ハンデがあんまり意味をなしてないような」
「そんなことないのだ。後ろを見てみるのだ」
「後ろ?」

 高速移動自体には慣れているせいで、楓はゆったりした気分で真里の後ろを見た。
 するとそこには、先ほどまで楓のゆっくりとしたスピードに合わせ、同じようにゆっくりと走っていたはずの向日葵と咲夜が、鬼の形相で走っていた。
 なるほど、このためだったのだ。楓がそう思っていても、二人はなかなか追いついてこない。

「二人遅くない?」
「ふふふ。私だってタダで追いつかれるつもりはないのだ。それに、楓の楽しみを簡単に終わらせるのも忍びないのだ」
「いや、僕は望んでないけど?」

 楓の抗議に耳も貸さず、真里は二人に追いつかれるまで全速力を続けた。
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