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第53話 秘境

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 楓は、口を開けてあわあわしてしまいそうになるのを必死に抑え、努めて澄ました顔をしていた。
 今いるのは下着屋さん。正確にはランジェリーショップと言っただろうか。
 勝負と思ったはずが、選んだイヤリングを褒めそやされ、照れ照れしていたら誘い込まれていた。
 ニヤニヤ笑いが顔にこびりついて取れず、男のまま来ていたらただの変態だっただろうと楓は思った。
 何に付き合わされるのだろうという疑問と、男の居場所がない環境からくる最上級の居心地の悪さによって、体内で虫が蠢いているような不快感を抱え、楓はキョロキョロと店内を見ていた。
 ただでさえ、女性用の下着が売っている場所を通るだけで、早く通り過ぎたい気持ちがしていた楓にとって、訪れるなど言語道断だった。
「あの、何か足りないんですか?」
「ううん。か、楓のを見に来たのよ」
 おう、急に楓呼びか、という方向へ思考を引っ張られ、楓は再びニヤニヤしていた。
 なんだかすごく照れくさいなと思いながら、茜が言っていたことを反すうした。
 どうやらランジェリーショップには下着を選びに来たらしい。他に用はないだろう。
 誰のかというと楓のものらしい。
 これほど、装飾の多い下着の中から、一つを選ぶのだろうか。
 やっと何をしにきたのか理解して、楓は店内から視線を茜に移した。
「僕のですか!?」
 素っ頓狂な声を上げ、注目が集まったことを感じ、楓はうつむいた。
「そう言ったのだけど」
「なんで……?」
「小さいんでしょ?」
 小さいんでしょ。小さい。小さい。楓は再び反すうした。
 茜の視線の先には明らかに胸があった。
 胸が小さい。確かに上背が高い茜の方が大きいだろう。
 何か違う気がして、楓は再度単語を繰り返し、ハッとした。
 おそらく向日葵あたりから情報が流れたのだろう。
「いつか向日葵と来ようと思ってたんですけど」
 楓は申し訳なさそうに言った。
「それはやめてあげて」
 と茜は楓の肩に手をのせて言った。
 胸が小さいことを気にする神様のためにも、今日ここで選んだ方がいいらしい。
 しかし、楓は基準がわからなかった。
 そもそも、神様である向日葵は把握しているらしいが、楓は自分のスリーサイズがわからない。
 知ることにも抵抗があるが、このまま肉体によくない行動を続けるのも今の体に悪い気がした。
 思考から飛び出し、楓は顔を上げた。
「それではこちらへどうぞ」
「へ?」
「行ってらっしゃい」
「へ?」
 店員さんと茜にそれぞれ情けない声を向け、楓は首をかしげながら店員さんの後ろについて行った。
 どうやらコンサルタント的な人がいるらしい。
 素人の楓にとっては嬉しい限りだった。
 アクセサリー選びで剣を持ち出すような楓からすれば、下着ではぶっ飛んだものを選ぶことが避けられるのはありがたかった。
 なにやら試着室のようなの場所まで連れられ、楓は中へ入るように促された。
 笑顔の店員さんの手には巻尺。
 超高速で瞬きを繰り返す楓。
 一瞬の逡巡。
 そして、ひらめき。
 作業はあっという間に終わった。
 ぐすんぐすんと泣きたい気持ちはさておき、自らの肉体についての理解を深めた楓だった。
 そして、一人取り残されたところへ茜がやってきた。
「よかったわね」
「そうれはどういうことですか」
「どうも何もないわよ。きちんとした理解がないと体によくないでしょ」
 お説ごもっとも、と思い楓はそれ以上何も言えなかった。
 ちょっと待っててと言うなり、茜は楓からメモ紙をひったくると試着室を飛び出して行った。
 静かになったスキに、楓は手を胸に当て考えてみた。
 どうやら女の子になったらしい。
 ずっと自覚していたが、しっかりと触れてみると、胸筋しかなかった場所に、柔らかいものがのっている。
 今もまだ巻尺の感覚が残っている気がした。
「持ってきたわよ」
 と言って、笑顔でいくつかの組み合わせを手に、茜はやってきた。
「さっさと決めて帰りますか」
「ダメよ。さっきから言ってるけど、合うものを選ばないと、せっかく測ってもらったんだから」
「ですよね……」
 そうして楓は茜から受け取った。
 茜が連れてきたのがわざわざランジェリーショップだったこともあり、装飾は多めだった。
 どれも必要な機能を満たしているのだろうし、柄や色が違うようだが、無知な楓にはどれも同じに見えた。
 男の時は気にしなかったようなことだが、肉体が変われば仕方がないことだ。
 今までも色々と不便をしてきたのだし、今さらだろう。
 わかることと言えば、これまでの楓が持っているものはどれもシンプルだった、ということくらいだ。
 外着に力を入れていたように楓には感じられた。
 どれがかわいいというか、ウケがいいというかそういうものなのだろうかと考えた。
 好きだった女の子がこれだけだったらと思うと、楓は赤くなって頭を振った。
 今は自分がつけようとしている場面だ。もう十分自分を変態だと罵った。今は向日葵に見られてもいいものを見分けるのだ。
「できたー?」
「もうちょっと待ってください」
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
 茜にせかされ、楓は上下とも身につけた。
 姿見を見た限り、以前より派手な気はしたが、問題はなさそうだった。
「大丈夫そうですよ」
「本当に?」
 シャッとカーテンを開けて茜が入ってきた。
「なんですか?」
「だってですますに戻ってるから」
「そうだった?」
「今戻したでしょ。わかってたからね?」
「それより、どう?」
「そんなに見せつけたかったの?」
「違うよ? 口調を誤魔化すためだよ」
 アクセサリー選びの悔しさから、当てつけでですますに戻したことがバレたか、と楓は苦笑いした。
「そう?」
 と言って茜は目を細くして、楓の姿を上から下まで眺めた。
「いいと思うわよ? 他のもつけてあげる」
「え?」
 まだ買っていない商品を乱暴に扱うことはできず、楓は大人しくつけてもらった。
 せっかく一つを選んだが、全て試してつけられるのなら最初からぱっぱとやればよかったと後悔した。
 茜の好みで持ってきたものもなのか、全体的にどこか大人っぽい印象ではあったが、なんだか楽しくもあった。
 なるほど、これが勝負下着とかなんとか世間様が言っているものか、と初めてわかる経験でもあった。
「他のも試す?」
「ううん。よさそうだから大丈夫」
「じゃあ買ってくるわね」
 そうして茜は下着を手に取り、カーテンを開けようとした。
 今の楓は下着姿。
 茜は先ほど高速で出入りしていたとはいえ、抵抗があった。
「ちょ、ちょっと待って」
 と言って、楓は服を着た。
「大丈夫よそれくらい。それこそ脱いでてもいいわよ」
「それはちょっと、心理的な抵抗があるから。それに、僕のだし、僕が払うよ」
「いいのよ。年上がおごるのは当たり前でしょ?」
「いや、でも悪いよ」
「私が払いたいのよ」
「すみません」
「謝られるより、感謝されるの方が嬉しいかな」
「あ、ありがとう」
 楓は首を傾げながらも口に出した。
 なんだか親戚のお姉さんみたいだなと楓は思った。
 バイトもしていなさそうだが、一体どこからお金が出てくるのか不思議だった。
 夏目家は金持ちなのだろうか。それとも、向日葵がどこからともなくお金を出しているのか、何やらビジネスでもやっているのか。
 答えは出ないが、楓は茜の言葉に甘えることにした。
「じゃあ、ここで待ってて」
「うん?」
 出入り口付近にいた方がよさそうなものだが、買ってもらうこともあり、楓は試着室で待つことにした。
 しかし、何故試着室で待つのかはわからなかった。
 ちょっとした頼みくらいは聞いても問題ないだろう。
 いくら女性が多い店内とはいえ、ここまで隔離されてしまえば楓でも安心することができた。
 この感情にも慣れないとな、と思いながらも、やはりなかなか慣れないのだった。
 興奮しそうな状況だが、それよりも恥ずかしさが勝るような感覚だった。
「お待たせ」
 と言って、茜は再び試着室に入ってきた。
「別の何か?」
「ううん。着て帰ってもらおうと思って」
 楓は、はてと思った。
「着て帰るの?」
「そうよ」
「何を?」
「これ」
 と言って、今しがた買ってきたものを指し示す茜。
 楓は茜と袋を見比べた。
 そして、再び目をしばたかせた。
「これを?」
「そうよ。別に同性だし、さっきも見てたんだから、今さら一緒にいても恥ずかしくないでしょ」
 そうは言うがと思いながら楓は高速で首を横に振った。
 さっきも恥ずかしかったのだ。恥ずかしいに決まっている。
「向日葵ちゃんとなら恥ずかしくないんでしょ?」
 ぎくりとして楓は振っていた首を止めた。
 確かに何度かそんなことがあった。いつぞやは見知らぬ女性も居た。居たが。
 楓はゆっくりと茜の顔を見上げた。
 そこには、いつか見た少女の笑顔ではなく、計り知れない何かが見せる笑顔が張りついていた。
 冷や汗とともに、楓は息をのんだ。
 袋から一組を抜き取ると、服を脱ぎ、震える手で自らの下着を外し、新しいものをつけ、服を着た。
 ブラやらショーツやらにも慣れたものだった。
 まだいささかぎこちないが、それでもできる限り早くつけた。
「い、行きましょ。茜ちゃん」
 震える声を出し、真っ赤になりながら、楓はカーテンを開け、靴をはいた。
 新品の感覚に胸躍らせるなどという余裕はなく、また、周りを考慮する余裕もなかった。
 恐怖の笑顔から打って変わって、満足そうに笑顔を浮かべる茜を背にして、楓は靴でトントンとした。その時、パキンと嫌な音を聞いた。
 骨が折れたのではなく、何かを踏んだような感触があった。
 恐る恐る足をどけてみると、せっかく買ってもらった剣のネックレスの刀身部分が折れていた。
 オーノーと思いながら楓は慌てて拾いあげた。そんなに簡単に折れる素材だったのか。
 くっつけてみるが、ボンドもないため、当たり前だがすぐに取れる。
「どうしたの?」
「あの、その、これ、なんですけど……」
「あら、折れちゃったの?」
 ふふふと楽しそうに笑う茜。
「怒らないんですか?」
「少し悲しいけど、それはもう楓のものだからね。じゃ、代わりに……」
 と言って、茜は手を出すと、楓の頭に向けて伸ばした。
 突然のことに楓は首を引っ込めたが、何かがくっついたことしかわからなかった。
 すぐに振り返り姿見で確認すると、頭にはリボンがのっていた。
「これって、さっき茜ちゃんが買ってたやつじゃ……」
「いいのよ。また買えばいいんだし、これも巡り合わせよ」
 気前のいい茜に頭を下げて、楓ははにかんだ。
 リボンをつけた気恥ずかしさもあったが、少し気分は持ち返していた。
 なんだか心機一転したような感覚で、楓は外していたイヤリングを探した。
「あれ」
 ない。
 ポケットにもカバンにもない。
「あれれ」
「どうしたの?」
「片方失くしたみたい」
「楓って意外とそそっかしいのね」
「そ、そんなはずは」
「いいわよ。そんなに気を落とさなくても。慣れないことなら仕方ないわ」
 ここでも茜は笑って済ましてくれたのだった。
 申し訳なさからとりあえず片耳だけでも身につけ、楓は再度探してみた。それでも、イヤリングは見つからなかった。
 楓はそうして、してもらってばかりだと思いながら、茜とともに店を後にしたのだった。
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