人災派遣のフレイムアップ

紫電改

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第5話:『六本木ストックホルダー』

◆※※:任務達成(裏)

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 『ニョカ』が訪れた数日前と変わらず、成田空港の出発ロビーは混み合っていた。電車の駅と異なり、空港は深夜であっても人の動きは活発だ。一段と乾燥を増すこの空気は、もはや彼女には耐え難いものとなっていた。

 あらかたの出国手続きを終えた彼女は、待ち時間を利用して、空港のロビーで買い求めたミネラルウォーターを口にしていた。日本の経済新聞に目を通し、自身の成果を確認する。

 あの若者達が自身の使命を達成したか否かは彼女にはあまり関係がない。彼女はプロであり、そしてプロとして彼女は十分すぎるほどに目的を果たしていた。

 ふと、まだ一件済ませておくべき用件があった事を思い出す。携帯電話からウェブブラウザを起動して、指定のサーバへと繋ぐ。パスコードを入力して応答を待ち、ブラウザに表示された絵文字を紙にメモする。

 ブラウザを落とすと、今度は電話機能を起動させ、メモした数字を入力し始めた。万一、この携帯電話が誰かに奪われ履歴が解析されたとしても、二度と同じパスコード、電話番号は使用されない。電話の相手は、それほどにプライベートに許可しない他者が立ち入ることを嫌う人物だった。

 数秒の沈黙の後、甲高いトーンが鳴り響き、接続したことを知らせる。相手はすぐに出た。

『やあおはよう。いや、東京ではこんばんわだったね』

 流暢極まりない日本語だった。

「こんばんわ、マスター・サイモン。しかし、私は、日本語が、それほど得意ではない」

 生硬な発音の日本語で返すと、マスターと呼ばれた相手、サイモン・ブラックストンは電話口で笑ったようだった。マスターという言葉が指す意味は何なのか。主か、師か、あるいは原本か。その口調からは読み取れなかった。

『失敬失敬。国際電話をかける時はローカルの時間帯と言語に合わせるのが、私なりのビジネスマナーでね。うっかりしていた』

 今度は同じく流暢な、流暢すぎる彼女の母国語がスピーカーから流れ出す。

 そう、彼女のマスターは必ず会話をする相手のもっとも得意な言語に合わせる。それが日本語であろうとドイツ語であろうとアラビア語であろうと、だ。確かめたことはないが、恐らくウルドゥー語やラオ語のネイティブ相手にも同じ事をするのだろう。

『任務は成功です。迎撃役のヨウジ・ワタリとナオキ・カサギリ、及び水池の護衛スタッフと交戦の後、脅迫を撤回して引き上げました。詳細はレポートにしてメールを送ってあります』
『相変わらず手堅いプロの仕事だ。この分ならベスト5にランクインするのもそう遠いところではないのかな』

 彼女が英語で返答すると、あちらも英語で返答した。

『それではプロとして言わせてもらいますが、マスター。いかに貴方の依頼とはいえ、土壇場で『脅迫』から『実力測定』へと任務目標を変更するのはいただけない。このような支離滅裂な命令ではいかなプロであろうと勝利を得るのは難しい』

 相手は受話器の向こうで苦笑したようだった。

『すまないすまない、許してくれ。だが君を守るためでもあったのだ。ワタリ、そしてカサギリ。まさか君が彼らとかち合うなどとは思ってもみなかったのだからね。正直君がこうして生きて私に電話をしてきてくれて安心しているよ』
『理解に苦しみますね。ヨウジ・ワタリ。ナオキ・カサギリ。そこまで警戒せねばならない相手とは思えませんが』

 強がりではなく、プロとしての判断である。おそらくは上位の吸血鬼、そしてもう一人の方も、彼女の呪術と似て非なる力を持っているようだった。なるほど大した能力だろう、まっとうな戦いならば。だが、彼女の能力であれば如何様にも戦い方がある。留意はしても、恐れる必要はないと思えた。

『……それが君の感想と言うことか』

 サイモンは言葉を切り、四秒ほど沈黙した。珍しいことだった。

『よろしければ多少なりとも事情を教えて欲しいところです。プロとしてではなく、ごく個人として』

 つまりは、言いたくなければ別にかまわないというレベルの問いだった。だから回答があったことに驚いた。

故兵聞拙速ゆえにへいはせっそくをきくも未睹功久也いまだこうきゅうをみざるなり。――私の信条はね。万事に保留事項を作らないと言うことだ。保留は何も生み出さない。時間を腐らせ、事態を悪化するだけだ。古今、やるべき事を先延ばしにする愚図に勝利の女神が微笑んだ試しはない。全ての物事はやるか、やらぬか、やらせるか、まだ待つか。待つならいつまでか。それ以外の選択肢はないのだよ』
『はあ』

 明敏な『蛇』も言葉に困る。別に彼女は相手のビジネス哲学を聞きたいわけではないのだが。

『私と彼らは、いずれ確実に対立することになる。私は利を求め、彼らはそれを防ぐ。ならばなおのこと、保留事項にするわけにはいかない。そんな折り、君と彼らが交戦に入ったと聞いた。なれば情報を集める機会を逃す事はない。それを思えば、ヨルムンガンドへの貸し付け程度は何の問題にもならない』

 自分が態の良い斥候に扱われたことも、彼女が彼らと接触した偶然も、『蛇』は気にしなかった。マスターに連なるものは数多くいる。その中でたまたまもっとも早くワタリやカサギリに接触したのが彼女だったというだけのことであろう。

『君を生かして帰したということは、ふふ、王と魔人の力も随分減耗したようだな。国であれば格付けをしなおさなければいけないところだ。やはりここは拙速でも打って出るべきだろう、とまあ、このような事情だよ。わかってくれたかね?』
『全くわかりません。聞いた私が間抜けでしたね』

 気のない調子で彼女は応えた。どうやら裏事情は、彼女が到底与り知らぬレベルの話らしい。個人としての興味が消えると、後には仕事を終えたプロの理論が残った。もはや自分の検知するところではない。彼女は主に向かい一応の挨拶を述べた。

『それでは今日もお仕事頑張ってください。私はこれより休暇に入ります』
『里帰りを楽しんできたまえ、『ニョカ』。私はさっそく、彼らにアプローチをかけるとしよう』

 サイモンは彼女を二つ名で呼んだ。である以上、彼女も二つ名で返事をすべきであろう。もっとも、有名な通り名ではない。サイモンが『こちら側』の人間であり、また、およそ彼女程度では及びもつかない化け物であることを知る人間など、両手の指の数もないだろう。

 弱者は強者になってゆくうちに、その名を知らしめてゆく。しかし最初から圧倒的に強い者は、その名を他者に語る必要はないのだ。

『お気の済むように、『組み合わせる者サー・オクタコード』』

 主に別れを告げ、電話を切る。搭乗を促すアナウンスが流れた。『蛇』は優美な身のこなしで、おそらく二度と訪れることはないであろう極東の島国を去るべく歩み出した。
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