人災派遣のフレイムアップ

紫電改

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第4話:『不実在オークショナー』

◆10:一人では-1

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 深夜一時。

 都内とはいえ、住宅街、それも駅から離れているとなれば、あたりはすっかり闇に包まれる。二十四時間点灯しているマンションの廊下の蛍光灯、電柱の照明の光、そして月の光がそれに必死に抗い、ナガツマ倉庫の中はかろうじて人影を判別出来る程度の視界が確保されていた。

 今、その裏門が開け放たれ、一台のトラックが倉庫の中に入り、そのコンテナを開いている。開いたコンテナに、ビニール袋に詰められたプルトンのバックが次々と詰め込まれてゆく。作業を行っているのは、数人の『狂蛇』の構成員と、ここに『一時保管』されている不法入国者達だ。

「臭いが移りはせんかな」

 その様子を壁に背を預けながら見やり、『毒竜ファフニール』モルデカイ・ハイルブロンは興味なさげに言った。実際、興味が無い。モルデカイにしてみれば、このバッグが売れようが売れまいが彼の人生に一ミリグラムの影響も無い。

 彼の人生は極めてシンプルだ。自分がもっとも楽しい事をする。だからこそ、一度自分の欲望に火が点けば、たとえば娘一人を手に入れるために村一つを滅ぼす程度は平気でしてのけるし、己の興味が無い事であれば、例え目の前で子供が皮を剥がれ焼き殺されていようと、昼食時に流れているラジオ放送より印象に残りはしない。

 彼自身がもっとも長く人生を過ごした戦場でのトラウマか、と言えばそうでもない。彼は、もともとそういう人間だったのだ。派遣業界に移籍する以前から敵に恐れられた彼の二つ名、『毒竜』のうち、『竜』の字は、彼のその性格に起因する。

 傲慢で、貪欲で、それが当然の、竜。雇い主の海鋼馬でさえ、彼を制御する事など出来はしない。彼に枷をつけられるのはただ一人だけである。

「そう思うのであれば多少は彼等の衛生環境を考慮してあげたらいかがですか?」

 『定点観測者ヴァサーゴ』鯨井和磨の言葉にも、鼻を一つ鳴らしただけだ。彼にことさらに密入国者を虐待する意図があるわけではない。心底どうでもいいのだ。密入国者の境遇を作り出しているのは『狂蛇』である以上、連中が好きなようにすればいいだけだ。

「言ってみただけだ。くだらん。依頼とはいえ、毎日毎日こうも退屈な光景を見せつけられれば、気まぐれに感想の一つも述べるわ」

 紆余曲折を経て戦場を去り、海鋼馬のエージェントとなった今、彼は飢えていた。全存在をかけた死闘、あふれんばかりの金。極上の女。一方的な虐殺。何でもいい。彼の求めるものの基準は、彼自身にもよくわからない。美醜、金銭価値の有無に関わらず、その場の気まぐれで決まる。そして今は、何も興味のある対象が無かった。

「ならば吉報です。退屈せずには済みそうですよ」
「それは、この連中の中に混じっている小娘の匂いのことかな?」

 『毒竜』の太い顎がひかれ、獰猛な笑みがあらわになる。

「気づいていましたか」
「貴様、俺を馬鹿にしているのか」

 引かれた顎の奥、喉の中でごろごろと何かが唸る音が響く。

「……いえ。確かに素人の侵入でしたが」

 だが、そう悪いものでもなかった。とくに足音の遮蔽ぶりは完璧に近かった。並のエージェントでは気づかない可能性の方が高かっただろう。『定点観測者』鯨井のような探知系の能力者ならともかく、戦闘に特化した『毒竜』が気づくと言う事は、なかなかありえない。

 S級エージェント――文字通りのエースクラスを意味するA級の、さらにその上に位置する者の称号は、決して伊達ではないということか。

「業界随一の『フレイムアップ』の『殺捉者』です。警戒を」
「日本の零細組織か。それなりに粒が揃っているんだったか?」

 ふん、と鼻を鳴らす『毒竜』。

「ええ。他に伝え聞いているところでは、嘘か誠か、真の吸血鬼という『真紅の魔人』。破壊の女帝『暁の魔女』。誰も阻むことの出来ぬ『西風ウェストウィンド』。聖十字を背負った退魔師『守護聖者ゲートキーパー』。時間と因果の支配者『ラプラス』。そして幾柱もの最強最悪の魔神を従える『召喚師』」
「『西風』には覚えがあるな。ちょろちょろと逃げ回っている鬱陶しい奴だった」

 果たして言葉どおりの意味か。『毒竜』の表情は剣呑極まりなかった。

「退路は断ちました。これから追い込みますので、仕留めてください」
「おい」

 立ち去ろうとした鯨井を呼び止める。反射的に振り替えったその首を、『毒竜』の右手が掴んだ。

「俺に、命令を、するな」

 万力のような力で締め上げられ、鯨井の表情が苦悶に歪む。うめき声すら上げる事も出来ず、たちまち顔が紫色に変色していく。

「……フン」

 右腕一本で鯨井の身体を振りとばす。二メートル離れた壁に叩きつけられて床に崩れる鯨井に、怯えた視線を向ける作業者達。

「何を突っ立っている?」

 『毒竜』の言葉に、皆が鞭で打たれたように作業を開始した。暇つぶしと称して腕や足の一本を折るくらいは平気でやる男だと言う事を、誰もが良く知っていた。腕や足だけで済めば幸いという事も。

「立て。狩りの時間だ」

 咳込んでいる鯨井に声をかけ、彼は大きく口を開く。そして、周囲の大気を吸い込みだした。

 
 かあああぁぁぁぁぁぁぁぁ……。

 
 奇妙な事が起きた。呼吸によって肺腑が膨らむ。それはいい。だが、その度合いが尋常ではない。胸骨がべきべきと音を立て、まるで巨大な風船を飲み込んだかのように、鍛え上げられた『毒竜』の上半身が丸く膨らんだ。長く長く、吸気は続く。人体の構造上ギリギリまで上半身が膨らんだところで、ようやく吸気は止まった。

「ぐむっ」

 唸り声ともとれる気合を入れると、膨らみきった上半身の筋肉を一気に引き締めた。球体に近かった体型が、たちまちもとの筋肉質の逆三角形に戻ってゆく。

 だが、あれほど大量に吸い込んだはずの空気は、一ミリグラムたりとも吐き出されてはいない。体内に蓄えられた空気はどこへ消えたというのか。何事も無かったかのように『毒竜』は首をごきりと鳴らす。

「始めろ」

 まだ酸欠で黒ずんだ顔をしたままの鯨井だったが、その指示には従った。手元のリモコンのスイッチを入れる。倉庫の配電盤に割り込みさせた回路が作動し、作業用のライトが二つ、壁の隅を照らしだした。ダンボールの隅に潜む、小柄な人影を。
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