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第2話:『秋葉原ハウスシッター』
◆01:幾千の酷暑を越えて-1
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暑い。
視界の中を街路樹が急速に接近しては後方へと流れてゆく。じりじりと天に昇っていく太陽の下、遠近法のお手本のような風景を次々と突っ切りながら、おれは必死に自転車のペダルをこぎ続けた。
暑い。
八月に突入すると、東京に居を構えている己の迂闊さというモノを時々深刻に呪いたくもなってくる。毎日毎日丹念に、アスファルトとコンクリに塗りこめられていく赤外線の波動。それは毎夜の放熱量を徐々に上回り、次第にこの世界をもんわりとした湿気と、縦横に交叉する熱線で築かれた狂気の檻じみたものへと変えていくのである。特に今年は例年にない異常気象……なんか毎年そんな事を言っているような気もするが……とのことらしく、もはや沸き立つ熱気が視覚に捉えられるほどである。そうここはまさに牢獄。地獄巡りナンバー4、焦熱地獄。リングのロープも蛇の皮で出来ていようってもんである。
暑い。
……いかん。少し気を抜くと思考がどんどん横道に逸れていく。おれは自転車の籠に放り込んであるペットボトルを取り出し、少量口に含んだ。一応防熱カバーをかぶせてあるはずなのにすっかり温くなってしまっている。ただいまおれに携帯が許された水分はこのペットボトル250ml一本のみ。それももはや過半を使いきり残りはごくわずか。必死に自転車を漕ぐおれの背中に、近頃の環境汚染で色々とヤバイ種類の波長を含んでいそうな太陽光線がざすざすと突き刺さってゆく。Tシャツに覆われた胴にはひたすらに熱が篭り、覆われていない二の腕から先はむしろ塩を擦りこまれているがごとき痛みだった。
暑い。
街道沿いにいくつも見かけるコンビニが、涼んでいけよ、冷たい飲み物もここにあるぞ?と脳内のエセ天使どものごとき誘惑を投げかけてくるのを必死に振り払いペダルを踏み込んでゆく。一度コンビニに入ってしまったら再び気力を奮って自転車に跨れる自信はまったくなかった。それにどのみち、コンビニで飲み物を買えるほど財政に余裕があるなら、最初から私鉄に乗って悠々と冷房の効いた車内を満喫している。目下のおれの所持金は六十五円。あと十五円あれば小ぶりの紙パックのジュースが買えると言うのに、そんな思考すらも振り捨てて、必死に新宿は高田馬場を目指して自転車を進めてゆく。
暑い……。
体内物質の残量を把握することは、おれにとっては容易い。しかし忌々しいことに、把握できているからこそ、今体内に残された水分が深刻な状況に陥りつつある、という事態が極めてリアルに理解できてしまう。忌々しくも猶予は無い。そして何よりも、あの忌々しい事務所にたどり着けなければ生き延びることが出来ないという状況こそが最も忌々しい。そんな思考を神経に巡らせる脳内放電すら惜しみ、おれは疾走した。
――そもそもの事の起こりは八月の頭。ちょっとした個人的な事件に遭遇し、その際に(おれにとっては)大量の経費を支払ったのが発端である。そのうえ後遺症のひどい頭痛で寝込むはめになり、アパートの自室で食事もままならない状態に陥ったりしていた。横になっていれば体調も良くなるだろうとタカをくくっていたが、じりじりと上昇しつづける真夏の室温はおれの体力をむしろ奪っていった(ちなみにエアコン付きの部屋などというものは、おれの入居時の選択肢にそもそも存在していなかった)。
そうして三日後。事ここに至ってようやく、これは援軍が来ない篭城戦に過ぎないという事態を認識した。そして死力を振り絞ってどうにか起き上がってみれば、元々乏しかった財布の中身はエンプティ、冷蔵庫の中身はスティンキィ、おれの腹はハングリィ、と綺麗に韻を踏んだ状態だったのである。
とにもかくにも、生命活動を維持しなければならない。これでも死んでしまうと色々と彼方此方から文句を言われる身である(文句を言う奴ほどおれの生活を援助してくれないのだが)。そうしてふらつきながらようようアパートの扉を開き――周囲に広がっているこの焦熱地獄を改めて認識した、とまあこういうワケである。
このまま資金もなく外に出ては半日も立たずに物理的に死亡が確定するだろう。熱波という兵力にぐるりと包囲されての兵糧攻め。ついでにいうなら保険証は学友に借金のカタに貸し出し中のため病院も不可。進退窮まったおれに、まだ止められていなかった携帯電話からメールの受信音が鳴り響いたのだった。
『仕事。即日。前金。』
差出人は言うまでもないがウチの所長である。たった六文字三単語は、まるでこちらのシチュエーションを全て把握しているかのような三点バーストで的確におれを貫いた。おれは時計を見やる。電車に乗るカネもない。しかし残された僅かな余力をかき集めればなんとかここから高田馬場までの自転車通勤は可能だった。
そんなワケで、おれに選択権は無かったのである。……いや、まあ。いっつも無いんだけどね。
視界の中を街路樹が急速に接近しては後方へと流れてゆく。じりじりと天に昇っていく太陽の下、遠近法のお手本のような風景を次々と突っ切りながら、おれは必死に自転車のペダルをこぎ続けた。
暑い。
八月に突入すると、東京に居を構えている己の迂闊さというモノを時々深刻に呪いたくもなってくる。毎日毎日丹念に、アスファルトとコンクリに塗りこめられていく赤外線の波動。それは毎夜の放熱量を徐々に上回り、次第にこの世界をもんわりとした湿気と、縦横に交叉する熱線で築かれた狂気の檻じみたものへと変えていくのである。特に今年は例年にない異常気象……なんか毎年そんな事を言っているような気もするが……とのことらしく、もはや沸き立つ熱気が視覚に捉えられるほどである。そうここはまさに牢獄。地獄巡りナンバー4、焦熱地獄。リングのロープも蛇の皮で出来ていようってもんである。
暑い。
……いかん。少し気を抜くと思考がどんどん横道に逸れていく。おれは自転車の籠に放り込んであるペットボトルを取り出し、少量口に含んだ。一応防熱カバーをかぶせてあるはずなのにすっかり温くなってしまっている。ただいまおれに携帯が許された水分はこのペットボトル250ml一本のみ。それももはや過半を使いきり残りはごくわずか。必死に自転車を漕ぐおれの背中に、近頃の環境汚染で色々とヤバイ種類の波長を含んでいそうな太陽光線がざすざすと突き刺さってゆく。Tシャツに覆われた胴にはひたすらに熱が篭り、覆われていない二の腕から先はむしろ塩を擦りこまれているがごとき痛みだった。
暑い。
街道沿いにいくつも見かけるコンビニが、涼んでいけよ、冷たい飲み物もここにあるぞ?と脳内のエセ天使どものごとき誘惑を投げかけてくるのを必死に振り払いペダルを踏み込んでゆく。一度コンビニに入ってしまったら再び気力を奮って自転車に跨れる自信はまったくなかった。それにどのみち、コンビニで飲み物を買えるほど財政に余裕があるなら、最初から私鉄に乗って悠々と冷房の効いた車内を満喫している。目下のおれの所持金は六十五円。あと十五円あれば小ぶりの紙パックのジュースが買えると言うのに、そんな思考すらも振り捨てて、必死に新宿は高田馬場を目指して自転車を進めてゆく。
暑い……。
体内物質の残量を把握することは、おれにとっては容易い。しかし忌々しいことに、把握できているからこそ、今体内に残された水分が深刻な状況に陥りつつある、という事態が極めてリアルに理解できてしまう。忌々しくも猶予は無い。そして何よりも、あの忌々しい事務所にたどり着けなければ生き延びることが出来ないという状況こそが最も忌々しい。そんな思考を神経に巡らせる脳内放電すら惜しみ、おれは疾走した。
――そもそもの事の起こりは八月の頭。ちょっとした個人的な事件に遭遇し、その際に(おれにとっては)大量の経費を支払ったのが発端である。そのうえ後遺症のひどい頭痛で寝込むはめになり、アパートの自室で食事もままならない状態に陥ったりしていた。横になっていれば体調も良くなるだろうとタカをくくっていたが、じりじりと上昇しつづける真夏の室温はおれの体力をむしろ奪っていった(ちなみにエアコン付きの部屋などというものは、おれの入居時の選択肢にそもそも存在していなかった)。
そうして三日後。事ここに至ってようやく、これは援軍が来ない篭城戦に過ぎないという事態を認識した。そして死力を振り絞ってどうにか起き上がってみれば、元々乏しかった財布の中身はエンプティ、冷蔵庫の中身はスティンキィ、おれの腹はハングリィ、と綺麗に韻を踏んだ状態だったのである。
とにもかくにも、生命活動を維持しなければならない。これでも死んでしまうと色々と彼方此方から文句を言われる身である(文句を言う奴ほどおれの生活を援助してくれないのだが)。そうしてふらつきながらようようアパートの扉を開き――周囲に広がっているこの焦熱地獄を改めて認識した、とまあこういうワケである。
このまま資金もなく外に出ては半日も立たずに物理的に死亡が確定するだろう。熱波という兵力にぐるりと包囲されての兵糧攻め。ついでにいうなら保険証は学友に借金のカタに貸し出し中のため病院も不可。進退窮まったおれに、まだ止められていなかった携帯電話からメールの受信音が鳴り響いたのだった。
『仕事。即日。前金。』
差出人は言うまでもないがウチの所長である。たった六文字三単語は、まるでこちらのシチュエーションを全て把握しているかのような三点バーストで的確におれを貫いた。おれは時計を見やる。電車に乗るカネもない。しかし残された僅かな余力をかき集めればなんとかここから高田馬場までの自転車通勤は可能だった。
そんなワケで、おれに選択権は無かったのである。……いや、まあ。いっつも無いんだけどね。
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