桜吹雪の後に

片隅シズカ

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三章「堅国の花」

第十七話「花狩り ーはながりー」 (前編)⑤

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 心臓が、激しく脈打っている。

 体の不調で胸が痛い時とは違う。緊張で、体が興奮している時の状態だ。
 手首に指を当てる。脈は速いけど、このくらいなら大丈夫だ。前みたいに倒れる心配はない。健康な体のありがたさが身に染みる。

 体の状態を確認しつつ、周囲の猿を見回す。

 いきなり桜さんが消えた。そうとしか説明できない状況だ。その上、どこを探してもいなかったはずの猿たちが、なぜか僕を取り囲んでいる。

(…………もしかして、場所も変わってる?)

 現状を正しく理解しようとすればするほど、頭がこんがらがってくる。

 だから、目の前の現実だけに集中する。
 一刻も早く、この状況を切り抜けるために。

(十、二十……いや、もっといる……?)

 正直、悪夢のような光景だ。
 ただ、幸か不幸か、猿たちも依然として動く気配がない。僕を夜長姫だと思い込んで警戒しているのだろう。

 だけど、それもいつまで続くか分からない。

 別人だと気付かれた瞬間、数十匹の猿が一斉に襲いかかってくるだろう。その光景を想像して、背筋に寒気が走った。

 夜長姫は、猿相手に震えるような人ではない。
 だからこそ、恐怖を勘づかれたら終わりだ。

(……大丈夫。落ち着いて。冷静に)

 嫌な汗がこめかみからほおへ、首へと伝った。乱れる呼吸を整え、今にも震え上がりそうな体を必死に落ち着かせる。

(それに、これはチャンスだ)

 猿たちをえ、腰に手を添える。数多の視線が、警戒をより強くした。

 猿を捕獲できるのは巫女だけだ。
 だから今、僕がやるべきことは一つ。


 ここにいる猿たちを、この手で、一匹でも多く捕まえること!


 体の周りに円を描くイメージで、刀を抜いた。
 抜き身の刃から放たれた風が、僕を守るように吹き荒れる。僕から距離の近かった三匹は、その嵐に巻き込まれて消えた。

(――――よし!)

 難を逃れたその他大勢が、たちまち僕から距離を置き出した。
 先手を取られることだけは、絶対に避けなければならない。刀の扱いを教わる際に、花鶯さんに口酸っぱく言われたことだ。その教えがさっそく役に立った。

(先手を取ったら、主導権を渡すべからず)

 花鶯さんの教えをはんすうしながら刀を立て続けに振り、猿を捕らえていく。

 風からあぶれ、敵意を露わに襲いかかってくる猿たちは黒湖様の加護で吹き飛ばした。すかさず、再び風をお見舞いする。

 近づいてくる猿からはけして目を逸らさない。相手の攻撃を認識しないと加護は働かない。静国の一件で学んだことだ。

(考えるより先に、体を動かせ)

 刀を振って、猿たちを捕らえる。
 それだけを意識して、動き続ける。

 この状況に恐怖を感じたら、戦闘経験のない僕は一瞬で動けなくなる。余計なことは考えず、やるべきことだけに集中する。

(全て仕留めるまで、絶対に止まるな!)

 すくみそうになる脚をしっしながら、ひたすら猿と対峙し続ける。
 戦闘という特殊な状況下で興奮しているのか、体が熱い。このまま空を飛んでしまうのではないかと錯覚するほどに、全身が軽い。



 程なくして、実際に錯覚だったと思い知った。



(――――あ、れ?)

 自分の意志と関係なく、動きが止まった。
 驚いたのは、ほんの束の間。裂くようなのどの痛みと息苦しさ、上下する肩、鉛のように重くなった全身で分かってしまった。

 これまでに経験したことのない激しい運動で、体が先に音を上げたのだと。

(いき、が……)

 荒い呼吸と共に、口から聞いたこともないかすれた声のようなものが漏れる。

 猿たちが、再び僕を囲み出した。

 迷いのない足取りに、鋭い眼光。
 最初の怯えや警戒心はない。強い集団が、弱者を食らう構図そのものだ。

 しかも、木の上に隠れていたらしい別の猿たちまで下りてきた。振り出しに戻るどころか、こちらの体力が限界を迎えるという最悪の事態におちいってしまった。


 状況を確認するまでもない。

 夜長姫ではないと、気付かれた。


 誤魔化し続けた恐怖が、全身を一気に貫く。
 集団の中から、一匹が前に出た。鋭い眼光をさらに光らせ、じりじりと迫ってくる。確実に、僕という敵を潰すために。

(体が、動かない)

 絶対に止まってはいけないのに、疲労と酸欠と恐怖で、体が言うことを聞かない。後ずさりをしようにも、背後も猿で固められている。

 猿の動きが止まった。
 数歩で触れられる距離まで、縮められた。

 猿が獣の目を開いて、硬直した僕を射貫く。

 そのたくましい脚が動き出した瞬間、思わず目をつむり、刀を持つ腕で自分の顔を覆った。黒湖様の加護が発動して、牙をいた猿が吹き飛ぶ。

 安堵したのも束の間。
 背後で、木の揺れる音がした。

 反射的に振り返ると、もう猿の爪が目の前に――――来なかった。



 近づいてきた猿の顔に、人の足がめり込む。

 猿が、容赦なく地面に叩きつけられた。



「まったく、損な役割もいいところですよ」

 甘く冷ややかな声が一つ。
 軽やかな足取りで、その人は降り立った。

「李々、さん……!」

 名前を呼ぶや否や、溜め息をつかれた。
 面倒くさそうに振り返り、僕に向けた眼差しは……ごみを見る目だった。

えてやる気が削がれるので、そんなに見つめないでくださいませ」

 普段なら思わず突っ込むレベルの毒舌だけど、今はそれが気にならないほどに、背後の猿から助けてくれた感謝が大きい。

 まだ痛む喉で、どうにか「あの」と声を出す。

「ありがとう、ございます」
「ここの猿はわたしたちがもらい受けます。助けたお礼として当然ですよね?」

 さらりと感謝の言葉がスルーされた。
 お礼って強制されるものだっけと思いつつ、酸欠で声を上げる元気もないので無言で頷く。どっちにしろ、今の僕は何もできない。

「――だそうですよ。姫さま」

 李々さんが後ろに視線を向ける。
 木の陰から、蛍ちゃんがひょっこりと顔を出した。小動物のようなその動きに、一気に癒されると共に安堵感を覚える。

「でも、葉月くんに悪いんじゃ……」
「姫さま、この試合は何でもありです。弱みに付け込まれても獲物を奪われても、誰も文句は言えません。こうやって助けられる隙を見せる方が悪いんです。第一、この人しばらく動けませんよ」
「葉月くん……」

 蛍ちゃんが、戸惑いながら僕を見る。

「李々さんの、言う通りだよ。今の僕は、しゃべるので、やっとだから」

 呼吸を整えながら現状を伝えた。
 手柄を渡してしまうのは悔しいけど、今はこれが最善だ。こうするほかない。

(それに、渡す相手が蛍ちゃんなら……いい)

 共に訓練の日々を重ねる彼女になら、この状況で僕を気遣ってくれる優しい彼女になら、心置きなくこの場を託せる。

 蛍ちゃんが、無言で僕を見つめた。
 その瞳から、徐々に躊躇ためらいが消えていく。

「…………分かった」

 力強く頷き、前へと歩き出した。

 小さな指が腰の柄に触れる。
 刀を抜いて嵐を巻き起こすと、猿たちは僕の時より素早く距離を取った。

 惜しくも初手では、一匹も捕まらなかった――と思った瞬間だった。



 蛍ちゃんの姿が、消えた。



 猿たちが断末魔のような声を上げながら、次々と嵐に巻き込まれていく。嵐から距離を取ったにも関わらずに。

 程なくして、蛍ちゃんの姿を認識できた。蛍ちゃんが足を止めたからだ。

 蛍ちゃんが、何やら構えを取っていた。
 全てを切り裂くような、鋭い目付きで。

(蛍…………ちゃん?)

 周囲の嵐から、猿の悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。絹糸のような柔らかい髪が嵐で激しく揺さぶられても、微動だにしない。普段の小動物のような彼女からは想像できない、武術の達人みたいな雰囲気だ。

「狐につままれたみたいな変な顔をされてますけど、姫さまはただ、猿どもをぶん殴って嵐の中に放り込んだだけですよ」
「え、でも、何も見え――」
「見えないのは、あなた様の目が節穴というだけでございます」

 とどめの毒舌を食らったところで、嵐が止んだ。蛍ちゃんの立ち姿は変わらないまま、激しく揺さぶられた髪がふわりと下りていく。

 猿の姿は、一匹残らず消え去っていた。
 蛍ちゃんが、ゆっくりと息を吐き出している。

(蛍ちゃん……だよね?)

 なんだろう。見覚えというか、既視感がある。八極拳のような――――

(――――思い出した!! 花鶯さんだ!)

 間違いない。この構え、表情、ゆっくりと息を吐く感じ。李々さんと一触即発になりかけた時の、物騒すぎる空気そのものだ。



「――――ふぅ」



 空気が、やっと緩んだ。
 振り返ったそのくぼには、小動物のような愛嬌がある。いつもの蛍ちゃんだ。

「ごめんね。見苦しいところを見せちゃって」

 なぜか、苦笑いで謝られた。
 さすがに聞き間違いだろうと思ったので、もう一度聞き返した。

「見苦しいって……?」
「遅いし、無駄な動きが多いし」
「いやいやいや!! 見苦しいどころか見事としか言いようがないよ!?」
「……ありがとう。葉月くん、本当に優しいね」

 本当のことしか言っていないのに、今度は感謝されてしまった。


 いや、違う。

 この子、分かってないんだ。自分がめちゃめちゃ強いってことを。


「葉月くん、大丈夫? なんか顔色悪いけど」
「あ、う、うん。大丈夫」

 とんでもない強さと自己肯定感の低さを前に、しどろもどろな返答になってしまった。これ以上変な心配をかける前に、なんとか平静を取り戻すよう努める。

「二人ともありがとう。本当に助かったよ」
「礼なら桜ちゃんにおっしゃってください。わたしはただ、万が一の時は葉月さまを守ってほしいと頼まれたから来ただけです」

(さすが桜さん!)

 どうやら、事前に根回しをしてくれていたらしい。僕としてはちょっと情けないけど、頼りないのは事実だし、実際にそのおかげで助かった。

「そういえば、桜さんは? 一緒じゃないの?」

 蛍ちゃんが辺りを見回す。李々さんはずっとテンションが低い上に不機嫌なので、最初から桜さんがいないことに気付いていたのだろう。

「それが、はぐれちゃって」
「じゃあ、見つかるまで私たちと一緒にいよう! 一人じゃ危ないし」
「嫌です」

 李々さんが速攻で主人の提案を却下した。苦虫をみ潰したような顔だ。どんだけこの人に嫌われてるんだろう、僕。

 蛍ちゃんが、悲しげに眉尻を下げる。お菓子を取り上げられた子供みたいだ。


 その顔を見た瞬間、李々さんが真顔になった。


「……というのは冗談です。桜ちゃんが見つかるまで、ですよ」

 徹底した拒絶から一転して、溜め息交じりにしぶしぶといった様子で了承した。蛍ちゃんの表情が明るく花開く。

 一方、僕は驚愕で開いた口が塞がらなかった。

(李々さんが、一瞬で従った……!!)

 お世辞にも人が良いとは言えない李々さんを、悲しげな表情一つで黙らせたのだ。温和で優しい、あの蛍ちゃんが。

 彼女の純真さの成せる技か。
 それとも…………

「葉月くん、行こう」

 まぶしい笑顔が、僕へと注がれる。
 訓練の度に癒しをくれる笑顔を前に、ない混ぜの思考が瞬く間にさんした。

(……止めておこう)

 蛍ちゃんの強さとか、主従関係とか、僕があれこれ考えても仕方がない。



 どれだけ強くても、蛍ちゃんは蛍ちゃんだ。

 この子の笑顔は、信頼できる。



「――うん」

 歩き出した二人に、僕もついていく。
 一刻も早く、桜さんの傍に戻るために。

 二人で一緒に、優勝するために。
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