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三章「堅国の花」
第十七話「花狩り ーはながりー」 (前編)②
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「お、落葉さん!? なんでここに?」
「鹿男がいるなら俺もいるでしょ」
「確かに……でも、一体どこから、どうやって、えっと……?」
自分の見たものが受け入れられず、言葉がしどろもどろになる。
物陰から出てきたとか、そんな話ではない。
何もないところから、いきなり何の前触れもなく、二人が現れた。さながら、瞬間移動でもしてきたかのように。
「鹿男の力だよ」
疑問を形にするより先に、落葉さんがあっさりと答えを口にした。
「一瞬のうちに離れた場所に移動できる。鹿男に触れているものも同様に移動できる。その力で、俺たちは逃げてきた」
空いた口が塞がらないとはこのことだろう。
そんな僕を見て、落葉さんは不可解なものを前にしたような顔をした。
「今さら驚くことじゃないでしょ」
「それは、そうですけど……」
本当に瞬間移動なのかと驚いたけど、人ならざる力や体質が存在するこの世界で、誰がどんな力を持っていても不思議ではない。ましてや社は『鬼』の根城だ。
だから、そこじゃない。
僕の口が塞がらなくなったのは。
「……いいんですか? その、本人に確認せず、力のことを話しちゃって」
「それなら大丈夫ですよ! 俺、社では力を隠していないので!」
当人である鹿男君が元気よく答えた。百点満点の晴れ晴れしい笑顔だ。
ただ、怖い顔の桜さんに物騒な針を突き付けられた状態だから、いろいろと痛々しいし、何より罪悪感で居たたまれない。
このままでは僕の脆弱な精神がもたないので、恐る恐る桜さんに声をかけた。
「あ、あの、桜さん。ひとまず、その針を下してあげてほしいかなって」
「……承知いたしました」
情けない僕の顔色を察してか、桜さんは瞬時に怖い顔と針を収めてくれた。
あと、他の人の前ということで従者モードになった。この切り替えの早さにはだいぶ慣れたけど、やっぱりちょっと寂しい。
桜さんが、落葉さんに視線を向けた。
「落葉様、僭越ながらお伺いします。一体、何から『逃げてきた』のですか?」
従者の顔だけど、その眼差しは鹿男君に向けたものと同様に鋭い。
一方、落葉さんの表情は微動だにしないし、口を開く様子もない。この怖い顔を向けられて何で平然としてられるの!?
「……お答えできないのであれば、あなた方を敵と見なすほかございませんが」
「見なすも何も、ここでは全員が敵だろ。むしろ、逃げてきた事実を教えてやっただけ、まだ優しい方だと思うけど」
「不確定要素で揺さぶることが、あなた様の御国では情けでございますか」
しかも、一触即発な空気になってきた。何この政治の駆け引きみたいな会話!?
「あ、あのー。敵って僕たち、猿の捕獲数を競ってるだけですよね?」
「葉月様」
駄目もとで突っ込んでみたら、案の定、従者モードの桜さんに一刀両断された。
「これが、なんでもありの『試合』です。相手を蹴落とすのも組むのも自由であれば、逆もまた然り。本気で優勝を目指すおつもりなら……ゆめゆめお忘れなく」
「あ、はい」
目が本気だった。本気と書いてマジだ。
完全に火のついた桜さんを前に、僕は成す術もなく引き下がった。傍から見たら、自分の従者に一蹴された駄目巫子である。
そんな駄目巫子を見かねたのか、鹿男君が「あの」と気まずそうに声を上げた。
「悪いんだけど、逃げてきた原因はどうしても言えないんだ。その……」
「言えば、私たちが動きやすくなるから?」
「なんで分かったの!?」
「何が危険か分かれば、どう動けばいいのか考えやすくなるでしょう?」
「確かに!!」
「……鹿男、ちょっと黙ってて。余計なことしか言わないから」
「申し訳ありません!!」
桜さんに殺気を向けられた挙句に呆れられ、さらには落葉さんにまで睨まれて土下座する鹿男君だった。ドンマイ、鹿男君。
「俺たちはもう行くから。鹿男、立って」
「はい!」
鹿男君が言われた通りに立ち上がった。立ち上がるだけでも元気が溢れている。
落葉さんが、僕たちに背中を向けて歩き出す。
その背中を見て、ふと閃いた。
物書きとしての話を聞きたい。それを伝えるなら、今ではないか――と。
「お、落葉さん!」
衝動のままに、落葉さんに声をかけた。
無視されるだろうと思いきや、その足を止めて振り返ってくれた。
「えっと……」
どうしよう。勢いのままに声をかけたせいで、上手く言葉が出てこない。
落葉さんが怪訝そうに眉をひそめた。早くしろと思いきり顔に書いてある。無言の圧で、逆に言葉が詰まってしまう。
(場違いかな)
今は、試合の真っ最中だ。
だけど、彼とは普段、食事時以外に接点がない。前に二人きりになれた時は、僕の魂の話でそれどころではなかった。
(場違いかもしれないけど、絶好の機会だ)
大丈夫。気軽にお願いしてみるだけ。人付き合いというのは気軽でいいんだと、いつだったか、お父さんが言っていた。
気持ちを落ち着かせるべく、深呼吸を一つ。
思い切って、口を開いた。
「今度、落葉さんが書いているものの話とか、聞かせてもらっていいですか?」
あ、表情が変わった。
初めて見る顔だ。素で驚いている。
「…………なんで?」
「前から気になってるんです。僕もその、物語を書いていたことがあるから」
「嫌だ」
「えっ?」
まさかの即答だった。
それも清々しいほどにストレートかつ、鉄壁すぎる否定の二文字で。
「ちなみに、なんでか聞いても……?」
「話したくないから」
「え?」
「話したくないから」
「え、あの」
「話したくないから」
「あ、はい」
同じ言葉の繰り返しという謎のごり押しに、小心者の僕はあっさりと負けた。場の空気が変になってしまい、居たたまれなくなる。
「行くぞ、鹿男」
「あ、はい!」
落葉さんが再び背中を向け、早足で歩き出した。鹿男君は主人と僕たちを交互に見て、分かりやすくおろおろしている。
「えっと……お互い頑張りましょう!」
せめて場の空気を晴らそうと思ったのだろう。精一杯の笑顔と声援を僕たちに向けてから、主人の背中を急ぎ足で追っていった。
「…………」
「私たちも行くわよ」
凛とした声が、水紋のように鼓膜に広がった。
変な空気が、言葉にできない居たたまれなさが、瞬く間に浄化されていく。
「よし、行こう!」
「立ち直り早いわね」
「桜さんのおかげだよ」
「は? あ、そう……?」
桜さんが若干引いている気がするけど、実際にそうなのだから仕方ない。
今は、こんな些細なことで精神的ダメージを受けている場合じゃない。
全ては、桜さんの喜ぶ顔のために。脆弱な精神を奮い立たせ、再び歩き出した。
「さっき、逃げてきたって言ってたけど、まさか猿から……じゃないよね?」
「二人で対応しきれない数だから一時的に引いたという可能性もあるけど、疲弊した様子は見られなかったわね」
歩きながら、落葉組から得た情報を整理する。
分かっているのは、あの二人が『何か』から逃げてきたことと、落葉さんがその『何か』を僕たちに教えたくないことだけだ。
「うーん。せめて、二人が逃げてきた『何か』の場所が分かればなぁ……」
「場所は特定できないけど、落葉組と遭遇した場所から四里であることは確実よ」
「どういうこと?」
「鹿男の力で移動できる距離は、本人がいる場所から四里。つまり、あそこから四里以内に『何か』があるということよ」
「あ、なるほど」
元の世界で表すなら、約二キロメートル。
何不自由ない健康体で三十分ほど歩くと、確かそのくらいの距離だったと思う。
「人ならざる力って、改めて思うけどすごいね。四里先まで瞬間移動するなんて」
「本人の説明が下手くそ過ぎて、原理はまるで理解できないけどね」
「とりあえず、歩くしかないってことだね」
「えぇ。さっきの場所から四里離れるまでは、二人が言っていた『何か』を警戒しながらね。やりにくいったらありゃしないけど」
桜さんが思いっきり顔をしかめた。
あの二人に探りを入れていた時の冷静さとは打って変わって、不快感を隠そうともしない。この彼女本来のものであろう率直さも、僕は好きだ。
「それにしても、不自然すぎるわね」
「猿が出てこないことが?」
「えぇ。もう二刻も経っているのに、一匹も姿を現さないなんて」
「夜長姫の時は、そうじゃなかったの?」
「さすがにね。猿は臆病だけど、縄張り意識が強い生き物なの。縄張りに入った余所者を、いつまでも放置したりしないわ」
「なるほど……」
猿たちは夜長姫を警戒しているけど、戦いを避けているわけではない。そうなると、可能性はだいぶ絞られてくる。
「もしかして、猿たちは動けない状態とか?」
「あり得るわね。あるいは、夜長姫がやったように誘導されたか――」
桜さんが急に立ち止まった。僕も足を止める。
「桜さん?」
僕の声に応える様子はなく、顎に手を添え、ぶつぶつと何かを呟き出した。隣にいるのに、小声すぎて内容を聞き取れない。
「こっち」
唐突に、桜さんが僕の手を掴んだ。
そのまま方向転換して歩き出した。有無を言わさず引っ張られ、足がもつれる。
「え、え? 桜さん?」
「誘導されるのは、猿だけじゃないってこと」
「――あ」
単純な話だった。
この試合は、殺傷と催し自体の妨害以外なら何でもありだ。優勝のために何をしてもいい。徒党を組むのも、互いに潰し合うのも。
もちろん、相手を騙すことも。
「逃げてきたっていうのは……嘘?」
「おそらくね。猿が不自然なほどに見つからない理由はまだ分からないけど、あの二人が、私たちをどこかに誘導しようとしているのは確かよ」
桜さんが目を細めた。鋭い眼光が、歩く先をじっと見据えている。
「鹿男の力の範囲を知る私がいれば、あの場から進むしかないという結論に至るのは必然。加えて『逃げる』という言葉を使うことで、架空の敵を示して警戒させ、冷静さを鈍らせる。そんなところでしょうね」
「でも、なんでそこまでして僕らを……」
「他の組から見た、私たちの脅威は二つ」
前を見据えたまま、桜さんが話を続ける。
「一つは、猿が夜長姫と瓜二つのあんたを警戒して、迂闊に姿を現さないこと。私たちだけではなく、他の組にとってもやりにくいのよ」
「あ、なるほど」
「もう一つは、葉月の力が未知であること。巫女に選ばれた以上、なんらかの力があるのは明白だけど、それが何かは本人すら分からない。誰も分からない力ほど、脅威なものはないわ。月国の巫女ともなれば、なおさらね」
「……僕は猿だけじゃなく、他の組からも警戒されているってこと?」
「えぇ。私が敵だったら、猿の前に、まずはあんたの動きを封じるわね。例えば、夜長姫がやったように崖まで追い込むとか」
「が、崖っ?」
「私たちが向かっていた先には、その時に使われた崖があるのよ。待ち伏せして退路を防げば、確実に動きを封じられる」
「ひぇ……」
崖の際まで追い込まれる状況を想像して、ぞっとした。死なないと分かっていても、その状況がもう怖すぎる。
「最悪、土笛を奪われて強制的に棄権させられる可能性もあるわ」
「え!?」
「見た目は同じだけど、音が違うのよ。だから持ち主じゃないやつが吹いても、棄権したのは持ち主だと見なされるの」
「あの……それ、初耳なんですけど」
「あえて説明していないのよ。その方が面白いからって。初参加の者が土笛で強制退場させられるのは、試合の風物詩だとかなんとか」
「嫌な風物詩だね……」
(蛍ちゃんは、知ってるのかな)
土笛を吹かれて強制退場とか悲惨すぎる。従者である李々さんが、桜さんからそのことを聞いていて、教えてくれていることを祈るほかない。
「なんにしろ、油断はできないわよ。私たちの動きを封じることが目的なら、それほど遠くない場所に、別の罠を仕掛けてい――」
唐突に、桜さんの言葉が途切れた。
振り返って、言葉を失った。
隣にいるはずの桜さんが――いない。
「え、桜さ…………え?」
それだけじゃない。
なんの前触れもなく、僕の周囲を、大勢の猿たちが囲んでいた。
「鹿男がいるなら俺もいるでしょ」
「確かに……でも、一体どこから、どうやって、えっと……?」
自分の見たものが受け入れられず、言葉がしどろもどろになる。
物陰から出てきたとか、そんな話ではない。
何もないところから、いきなり何の前触れもなく、二人が現れた。さながら、瞬間移動でもしてきたかのように。
「鹿男の力だよ」
疑問を形にするより先に、落葉さんがあっさりと答えを口にした。
「一瞬のうちに離れた場所に移動できる。鹿男に触れているものも同様に移動できる。その力で、俺たちは逃げてきた」
空いた口が塞がらないとはこのことだろう。
そんな僕を見て、落葉さんは不可解なものを前にしたような顔をした。
「今さら驚くことじゃないでしょ」
「それは、そうですけど……」
本当に瞬間移動なのかと驚いたけど、人ならざる力や体質が存在するこの世界で、誰がどんな力を持っていても不思議ではない。ましてや社は『鬼』の根城だ。
だから、そこじゃない。
僕の口が塞がらなくなったのは。
「……いいんですか? その、本人に確認せず、力のことを話しちゃって」
「それなら大丈夫ですよ! 俺、社では力を隠していないので!」
当人である鹿男君が元気よく答えた。百点満点の晴れ晴れしい笑顔だ。
ただ、怖い顔の桜さんに物騒な針を突き付けられた状態だから、いろいろと痛々しいし、何より罪悪感で居たたまれない。
このままでは僕の脆弱な精神がもたないので、恐る恐る桜さんに声をかけた。
「あ、あの、桜さん。ひとまず、その針を下してあげてほしいかなって」
「……承知いたしました」
情けない僕の顔色を察してか、桜さんは瞬時に怖い顔と針を収めてくれた。
あと、他の人の前ということで従者モードになった。この切り替えの早さにはだいぶ慣れたけど、やっぱりちょっと寂しい。
桜さんが、落葉さんに視線を向けた。
「落葉様、僭越ながらお伺いします。一体、何から『逃げてきた』のですか?」
従者の顔だけど、その眼差しは鹿男君に向けたものと同様に鋭い。
一方、落葉さんの表情は微動だにしないし、口を開く様子もない。この怖い顔を向けられて何で平然としてられるの!?
「……お答えできないのであれば、あなた方を敵と見なすほかございませんが」
「見なすも何も、ここでは全員が敵だろ。むしろ、逃げてきた事実を教えてやっただけ、まだ優しい方だと思うけど」
「不確定要素で揺さぶることが、あなた様の御国では情けでございますか」
しかも、一触即発な空気になってきた。何この政治の駆け引きみたいな会話!?
「あ、あのー。敵って僕たち、猿の捕獲数を競ってるだけですよね?」
「葉月様」
駄目もとで突っ込んでみたら、案の定、従者モードの桜さんに一刀両断された。
「これが、なんでもありの『試合』です。相手を蹴落とすのも組むのも自由であれば、逆もまた然り。本気で優勝を目指すおつもりなら……ゆめゆめお忘れなく」
「あ、はい」
目が本気だった。本気と書いてマジだ。
完全に火のついた桜さんを前に、僕は成す術もなく引き下がった。傍から見たら、自分の従者に一蹴された駄目巫子である。
そんな駄目巫子を見かねたのか、鹿男君が「あの」と気まずそうに声を上げた。
「悪いんだけど、逃げてきた原因はどうしても言えないんだ。その……」
「言えば、私たちが動きやすくなるから?」
「なんで分かったの!?」
「何が危険か分かれば、どう動けばいいのか考えやすくなるでしょう?」
「確かに!!」
「……鹿男、ちょっと黙ってて。余計なことしか言わないから」
「申し訳ありません!!」
桜さんに殺気を向けられた挙句に呆れられ、さらには落葉さんにまで睨まれて土下座する鹿男君だった。ドンマイ、鹿男君。
「俺たちはもう行くから。鹿男、立って」
「はい!」
鹿男君が言われた通りに立ち上がった。立ち上がるだけでも元気が溢れている。
落葉さんが、僕たちに背中を向けて歩き出す。
その背中を見て、ふと閃いた。
物書きとしての話を聞きたい。それを伝えるなら、今ではないか――と。
「お、落葉さん!」
衝動のままに、落葉さんに声をかけた。
無視されるだろうと思いきや、その足を止めて振り返ってくれた。
「えっと……」
どうしよう。勢いのままに声をかけたせいで、上手く言葉が出てこない。
落葉さんが怪訝そうに眉をひそめた。早くしろと思いきり顔に書いてある。無言の圧で、逆に言葉が詰まってしまう。
(場違いかな)
今は、試合の真っ最中だ。
だけど、彼とは普段、食事時以外に接点がない。前に二人きりになれた時は、僕の魂の話でそれどころではなかった。
(場違いかもしれないけど、絶好の機会だ)
大丈夫。気軽にお願いしてみるだけ。人付き合いというのは気軽でいいんだと、いつだったか、お父さんが言っていた。
気持ちを落ち着かせるべく、深呼吸を一つ。
思い切って、口を開いた。
「今度、落葉さんが書いているものの話とか、聞かせてもらっていいですか?」
あ、表情が変わった。
初めて見る顔だ。素で驚いている。
「…………なんで?」
「前から気になってるんです。僕もその、物語を書いていたことがあるから」
「嫌だ」
「えっ?」
まさかの即答だった。
それも清々しいほどにストレートかつ、鉄壁すぎる否定の二文字で。
「ちなみに、なんでか聞いても……?」
「話したくないから」
「え?」
「話したくないから」
「え、あの」
「話したくないから」
「あ、はい」
同じ言葉の繰り返しという謎のごり押しに、小心者の僕はあっさりと負けた。場の空気が変になってしまい、居たたまれなくなる。
「行くぞ、鹿男」
「あ、はい!」
落葉さんが再び背中を向け、早足で歩き出した。鹿男君は主人と僕たちを交互に見て、分かりやすくおろおろしている。
「えっと……お互い頑張りましょう!」
せめて場の空気を晴らそうと思ったのだろう。精一杯の笑顔と声援を僕たちに向けてから、主人の背中を急ぎ足で追っていった。
「…………」
「私たちも行くわよ」
凛とした声が、水紋のように鼓膜に広がった。
変な空気が、言葉にできない居たたまれなさが、瞬く間に浄化されていく。
「よし、行こう!」
「立ち直り早いわね」
「桜さんのおかげだよ」
「は? あ、そう……?」
桜さんが若干引いている気がするけど、実際にそうなのだから仕方ない。
今は、こんな些細なことで精神的ダメージを受けている場合じゃない。
全ては、桜さんの喜ぶ顔のために。脆弱な精神を奮い立たせ、再び歩き出した。
「さっき、逃げてきたって言ってたけど、まさか猿から……じゃないよね?」
「二人で対応しきれない数だから一時的に引いたという可能性もあるけど、疲弊した様子は見られなかったわね」
歩きながら、落葉組から得た情報を整理する。
分かっているのは、あの二人が『何か』から逃げてきたことと、落葉さんがその『何か』を僕たちに教えたくないことだけだ。
「うーん。せめて、二人が逃げてきた『何か』の場所が分かればなぁ……」
「場所は特定できないけど、落葉組と遭遇した場所から四里であることは確実よ」
「どういうこと?」
「鹿男の力で移動できる距離は、本人がいる場所から四里。つまり、あそこから四里以内に『何か』があるということよ」
「あ、なるほど」
元の世界で表すなら、約二キロメートル。
何不自由ない健康体で三十分ほど歩くと、確かそのくらいの距離だったと思う。
「人ならざる力って、改めて思うけどすごいね。四里先まで瞬間移動するなんて」
「本人の説明が下手くそ過ぎて、原理はまるで理解できないけどね」
「とりあえず、歩くしかないってことだね」
「えぇ。さっきの場所から四里離れるまでは、二人が言っていた『何か』を警戒しながらね。やりにくいったらありゃしないけど」
桜さんが思いっきり顔をしかめた。
あの二人に探りを入れていた時の冷静さとは打って変わって、不快感を隠そうともしない。この彼女本来のものであろう率直さも、僕は好きだ。
「それにしても、不自然すぎるわね」
「猿が出てこないことが?」
「えぇ。もう二刻も経っているのに、一匹も姿を現さないなんて」
「夜長姫の時は、そうじゃなかったの?」
「さすがにね。猿は臆病だけど、縄張り意識が強い生き物なの。縄張りに入った余所者を、いつまでも放置したりしないわ」
「なるほど……」
猿たちは夜長姫を警戒しているけど、戦いを避けているわけではない。そうなると、可能性はだいぶ絞られてくる。
「もしかして、猿たちは動けない状態とか?」
「あり得るわね。あるいは、夜長姫がやったように誘導されたか――」
桜さんが急に立ち止まった。僕も足を止める。
「桜さん?」
僕の声に応える様子はなく、顎に手を添え、ぶつぶつと何かを呟き出した。隣にいるのに、小声すぎて内容を聞き取れない。
「こっち」
唐突に、桜さんが僕の手を掴んだ。
そのまま方向転換して歩き出した。有無を言わさず引っ張られ、足がもつれる。
「え、え? 桜さん?」
「誘導されるのは、猿だけじゃないってこと」
「――あ」
単純な話だった。
この試合は、殺傷と催し自体の妨害以外なら何でもありだ。優勝のために何をしてもいい。徒党を組むのも、互いに潰し合うのも。
もちろん、相手を騙すことも。
「逃げてきたっていうのは……嘘?」
「おそらくね。猿が不自然なほどに見つからない理由はまだ分からないけど、あの二人が、私たちをどこかに誘導しようとしているのは確かよ」
桜さんが目を細めた。鋭い眼光が、歩く先をじっと見据えている。
「鹿男の力の範囲を知る私がいれば、あの場から進むしかないという結論に至るのは必然。加えて『逃げる』という言葉を使うことで、架空の敵を示して警戒させ、冷静さを鈍らせる。そんなところでしょうね」
「でも、なんでそこまでして僕らを……」
「他の組から見た、私たちの脅威は二つ」
前を見据えたまま、桜さんが話を続ける。
「一つは、猿が夜長姫と瓜二つのあんたを警戒して、迂闊に姿を現さないこと。私たちだけではなく、他の組にとってもやりにくいのよ」
「あ、なるほど」
「もう一つは、葉月の力が未知であること。巫女に選ばれた以上、なんらかの力があるのは明白だけど、それが何かは本人すら分からない。誰も分からない力ほど、脅威なものはないわ。月国の巫女ともなれば、なおさらね」
「……僕は猿だけじゃなく、他の組からも警戒されているってこと?」
「えぇ。私が敵だったら、猿の前に、まずはあんたの動きを封じるわね。例えば、夜長姫がやったように崖まで追い込むとか」
「が、崖っ?」
「私たちが向かっていた先には、その時に使われた崖があるのよ。待ち伏せして退路を防げば、確実に動きを封じられる」
「ひぇ……」
崖の際まで追い込まれる状況を想像して、ぞっとした。死なないと分かっていても、その状況がもう怖すぎる。
「最悪、土笛を奪われて強制的に棄権させられる可能性もあるわ」
「え!?」
「見た目は同じだけど、音が違うのよ。だから持ち主じゃないやつが吹いても、棄権したのは持ち主だと見なされるの」
「あの……それ、初耳なんですけど」
「あえて説明していないのよ。その方が面白いからって。初参加の者が土笛で強制退場させられるのは、試合の風物詩だとかなんとか」
「嫌な風物詩だね……」
(蛍ちゃんは、知ってるのかな)
土笛を吹かれて強制退場とか悲惨すぎる。従者である李々さんが、桜さんからそのことを聞いていて、教えてくれていることを祈るほかない。
「なんにしろ、油断はできないわよ。私たちの動きを封じることが目的なら、それほど遠くない場所に、別の罠を仕掛けてい――」
唐突に、桜さんの言葉が途切れた。
振り返って、言葉を失った。
隣にいるはずの桜さんが――いない。
「え、桜さ…………え?」
それだけじゃない。
なんの前触れもなく、僕の周囲を、大勢の猿たちが囲んでいた。
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