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三章「堅国の花」
第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」⑤
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「葉月くんは馬鈴薯の味がする人だから、私も影響受けたのかなって」
「馬鈴薯の……味?」
そういえば、初対面の時にもそんなことを言われたような気がする。
ちなみに馬鈴薯というのはジャガイモのことだけど……うん。全く分からない。
「意味分かんないよね。えっと……」
蛍ちゃんが俯き、懸命に言葉を探し出す。
「昔から、音とか文字とか景色とか、見たり聞いたりしたものに味がするの。笛の音を聴いて『あんこの味だ』とか、本を読んでいて『梨の味だ』とか、今はすごく晴れてるけど『お米の味』がするから、後で雨が降るかもとか……」
「えっ、天気まで分かるの?」
人と違う感覚なんて話じゃない。それこそ、雨を予言する巫女そのものだ。
だけど、蛍ちゃんにとっては日常の一部でしかないのだろう。僕の反応に目を丸め、「大したことないよ」と苦笑した。
「なんとなくだから、毎回当たるわけじゃないんだよね。口に入れたら確実かもしれな……あ、もちろん本当に口に入れたりしないよ!?」
「うん、分かってる」
慌てる蛍ちゃんを前に、思わず笑みが零れた。
「でも、実際にはあんことかと同じ味じゃないの。だから葉月くんも、厳密には馬鈴薯みたいな『葉月くんの味』で……」
見たものや聞いたものに『味』を感じる。
知識としてそういう人がいるのは知っていたけど、理解するのは難しいし、ましてや共感なんてできないだろう。
それでも、たどたどしい言葉と声色からは、確かな生を感じた。
彼女が歩んできた、人生の重みを。
今の彼女に至るまでの、軌跡を。
「それでね、次第に味でどういう人か……なんとなく分かるようになったんだ」
顔を上げた蛍ちゃんと目が合う。
目を合わせるのが申し訳ないくらいに澄んでいて、煌めきに満ちた瞳だ。
「葉月くんは実直で、けして努力を怠らない人の味がするの。そして、実際にその通りの人だった。このままじゃ駄目だって、もっと頑張らないと、私なんてあっという間に置いてかれちゃうって、ずっと焦ってた」
「蛍ちゃんが?」
「うん。でも、それは葉月くんも同じなんだって知って……安心しちゃった」
蛍ちゃんの顔が、ふにゃりと緩んだ。
見ているこっちの心まで緩めてしまう笑顔で。
(……馬鹿だなぁ、僕は)
自分より確実に前にいる。そう思い込んでいたから、蛍ちゃんから『焦り』なんて言葉が出たことに驚きを隠せなかった。
だけど、考えてみれば当たり前だ。彼女だって巫女になったばかりなのだ。
僕と同じように不安だらけで、毎日を必死に足掻いて生きているんだ。
「――僕も」
まだ重たい口を、勢いに乗せて動かす。
この気持ちを、ちゃんと伝えたいから。
「蛍ちゃんが同じだって知って、安心した」
蛍ちゃんと改めて目が合う。
なんだかくすぐったくて、小さく笑い合った。
そんな不思議と心地良い時間が風化し始める頃合いで、蛍ちゃんが「そういえば」と急に表情を明るくした。
「『春の息吹と共に』っていう小説があるんだけど、葉月くんは知ってる?」
「うん。本屋で立ち読みしたことあるよ」
「そうなんだ!」
蛍ちゃんの顔が、いっそう明るくなった。
「昨日の夜に読み始めたばかりなんだけど、すごく面白いよね! 金平糖の甘さと酸っぱい梅の味が共存していて、世界観も凝ってて――」
例の如く頬を林檎のように赤らめているけど、そこに恥じらいは一切ない。
いつもの朗らかな蛍ちゃんはどこへやら、息を荒くして、好きなものに熱くなっている人特有の早口で語っている。小型犬の子犬みたいだ。
もちろんそれだけなら、全然問題ない。
問題なのは、その小説だった。
「……蛍ちゃんは、それをどこで?」
「李々さんがね、『淑女たるもの、このくらいは読んでおかないと時代遅れですよ』って、少女向けの本を何冊か集めてくれたの」
「そ、そうなんだ……」
蛍ちゃんのいう『春の息吹と共に』は、いわゆるボーイズラブ小説だ。この世界では『淑女小説』なんて呼ばれている。間違っても幼気な少女向けではない。
ちなみに僕も物語の雰囲気に惹かれて立ち読みしたものの、読み進める内に淑女系だと分かって、そっと本棚に戻した。
この世界の本には表紙がない。そして本屋の棚はジャンル分けが大雑把というか、あまりそういう概念がないので、時折こういう罠にはまってしまうのだ。いくら物語が面白くても、男の僕にはいろいろとキツイ。
(にしても李々さん、よりにもよって蛍ちゃんに勧めるとは……)
蛍ちゃんが大人の階段を上る姿を想像してみたけど、居たたまれない気持ちになるだけなので止めておいた。これ以上触れてはいけない領域だ。
話があらぬ方向へ展開しない内にどうにか終わらせようと、夢中で物語について語る蛍ちゃんに「あの」と声をかけた。
「蛍ちゃん。それは――」
叩きつけるような鋭い音が、耳に突き刺さる。
その音で蛍ちゃんの話も瞬時に止み、二人して襖の方を見た。
「…………」
花鶯さんが、両手で襖を開いた状態のまま静止していた。もの凄く怖い顔で。
気を見なくても分かる。これは、めちゃくちゃ怒ってる時の顔だ。
そしてこの顔を見るのは、先日、李々さんと一触即発になりかけた時以来だ。
(もう嫌な予感しかしない……!)
「…………蛍」
「は、はい!!」
地獄の底から蠢くような声を出す師匠を前に、蛍ちゃんが身をすくめる。
「その本」
「え?」
「『春の息吹と共に』。誰に渡されたの?」
「えっと、李々さんですけど」
「そう……」
花鶯さんは一言呟くと、僕たちに背を向けた。
「今から授業を再開する予定だったけど、もう少し休んでていいわよ」
「姫さ……花鶯さん、何かあったんですか?」
おどおどと尋ねる弟子に対し、花鶯さんが「まぁね」と手短に答える。
「主従を弁えない無礼者にお灸を据えるだけよ。すぐ終わるから待ってなさい」
それだけ言うと、花鶯さんは部屋にも入らず早足で立ち去っていった。
傍にいた侍女が、開いたままの襖を「失礼いたしました」と淑やかに閉める。
訓練の場には、変な空気だけが残された。
「花鶯さん、大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うよ……多分」
心から心配している蛍ちゃんを騙しているようで、申し訳ない気持ちになった。蛍ちゃんを安心させたかったけど、これはさすがに無理だ。
(怪我人が出ないといいけど……)
修羅場の再来としか思えない展開に、僕はただ無事と平穏を祈るばかりだった。
***
訓練が終わる頃には、外が見事なまでに鮮やかな茜色で彩られていた。
今日は黄林さんの授業がない分、第三の眼の訓練に一日を費やした。つまり数時間もの間、ずっと視覚と聴覚を封印していたのだ。
「め、目がぁ……」
そんな状態で無用心に空を見た結果、一瞬にして夕焼けに目を潰された。
「失礼いたします」
菜飯さんの声と共に、瞼の外に影が差し込む。
恐る恐る瞼を開くと、目の前に傘が広がっていた。どうやら、菜飯さんが横から傘を差し出してくれたらしい。
(あれ? でも今日、雨降ったっけ?)
「ありがとうございます。それ、いつも持ち歩いてるんですか?」
「いえ。今日の訓練は日中を通してと伺いましたので、念のためでございます」
「つまり、日除けのためにわざわざ……?」
「えぇ。お役に立てたようで何よりです」
(ザ・有能な大人だ……!)
滑らか過ぎるエスコートに、何かと要領の悪い子供の僕はただただ感服した。桜さんが手放しで褒めるのも頷ける。
「ところで、体調の方はいかがですか?」
「え?」
「近頃の花鶯様は、しきりに葉月様の御体を気にしておられます。桜さんの代役としてはもちろん、あの方の従者としても、貴方様の状態を把握するべきかと思いまして。あくまで、私の独断でございますが」
「体調ですか。そうですね……」
独断で動いたのは、花鶯さんの心労を察してのことだろう。そしておそらく、花鶯さんの耳にもそれとなく入れるはずだ。
その可能性を踏まえて、花鶯さん本人に伝えるつもりで言葉を探す。
「……花鶯さんに注意されたんですけど、自主練をやり過ぎて疲れを引きずっていたみたいです。でも、体調自体は日に日に回復しています」
「それは何よりでございます」
菜飯さんは深く追及することなく、柔和な微笑みでただ耳を傾けていた。彼は彼で、花鶯さんの耳としての役割に徹しているのかもしれない。
主人の心情を察し、陰ながらそっと支える。真面目で使命感の強すぎる花鶯さんとは、主従として相性が良さそうだ。
だからこそ、代役とはいえ任されたのだろう。
何かと不安定な僕の身を案じ、見守る役目を。
「すみません。自分で思っている以上に、花鶯さんに迷惑かけていたのかも……」
「ご心配には及びません。単純に、花鶯様が世話焼きでいらっしゃるだけです。その上、御身を削られるほどに真面目でございますから」
「確かに」
蛍ちゃんの与太話で血相を変えた花鶯さんを思い出し、ふふと笑みが零れた。
「でも、花鶯さんのそういうところが好きです。あの人が教育係だから、ここまで頑張れるんだと思います。あ、異性としてではないですけど」
「えぇ、分かります。私も同じですから」
菜飯さんの笑みが、いっそう柔らかくなった。
「かつて行く当てがなかった私に、花鶯様は御手を差し伸べてくださりました。あのまま彷徨っていたら、私はとっくに野垂れ死にしていたことでしょう。今こうして生きていられるのは、他でもないあの御方のおかげです」
「そうですか……」
さぞかし過酷な過去だろうに、少しも悲痛な響きがない。ただただ、美しい思い出を紡いでいる人の微笑みだ。本当にかわいそ――――
違和感で、思考が固まった。
(…………可哀そう?)
何が起きたのか、全く分からない。
この状況であり得ない感情が、頭を過った。
(あ、れ……?)
菜飯さんの立ち姿が歪んだ。視界が、たちまち暗転していていく。
また眩暈かと思ったけど、何かが違う。
何が違うのかさえも分からず困惑している内に、視界が戻っていく。
(――――――え)
視界は、確かに戻った。
だけどそこに存在するのは、暗闇と女性だ。
(…………誰?)
薄汚れた着物をまとう女性が、鉄格子の向こう側に座り込んでいる。暗くてよく見えないけど、女性が腰を下ろしているのは座敷だ。
(……座敷牢?)
灯火か何かで照らされているのか、辛うじて女性の顔が見えた。
女性は、震えていた。
目を見開き、膝に爪を食い込ませる姿は、見ているだけで痛々し――――
(あれ?)
よく見ると、鉄格子の傍にもう一人いた。
間違いなく人だけど、場所のせいか、周囲の暗闇と同化しているように見える。
『――――て―――――――ら」
どこからか、音が聞こえる。
いや、声だろうか。ちゃんと聞こえているはずなのに、それが何なのか分からない。辛うじて『音』だと認識できているだけだ。
ふと、灯火のような光が、鉄格子の傍らにいた人を照ら――――
「葉月様!!」
「――――っ!」
視界が、一瞬で明るくなった。
目の前には、見慣れた廊下と夕焼けが広がっている。鉄格子の向こうに座る女性も、暗闇に溶け込んでいた人も、そこにはいない。
状況が呑み込めず、声がした方を見た。
「大丈夫ですか?」
「…………」
菜飯さんだ。柔和な物腰は変わらないけど、顔には動揺の色が見て取れる。
(……倒れては、いない?)
その事実が分かって、ひとまず安心した。
そして、肩に手が置かれていることに気付いた。菜飯さんじゃない。
細い指先を視線で追い、後ろを振り返る。
「気が付いた?」
落葉さんだ。僕の肩に手を置いたまま、静かにこちらを見つめている。
「今のが、例の発作?」
「……分からないです」
「そう」
何をどう納得したのか分からないけど、ようやく肩から落葉さんの手が離れた。
逆光で顔がよく見えないからだろうか。夕焼けを背に立つ彼は、いつもと違う、どこか背筋の凍るような雰囲気をまとっていた。
「あの……」
「菜飯の声がして、見に来たらあんたが突っ立ってた。呼びかけても心ここに在らずって感じだったから、あんたの魂に触れさせてもらった」
「えっ?」
「あんたが今習ってる、第三の眼を使っただけだよ。どうなるか分からなかったけど、とりあえず引き戻せたみたいだね」
魂を通して、身体の症状を和らげることができる。花鶯さんが言っていたことだ。それを、落葉さんがしてくれたのだろう。
「……すみません。ありがとうございます」
「別に。じゃあ、俺はもう行くから」
「はい」
落葉さんが、いつもと変わらない素っ気なさと共に僕の横を通り過ぎていく――と思いきや、足を止めて振り返った。
再び、僕を見据えてくる。
夕焼けに染まった、どこか不機嫌な顔で。
「……状況は全く分からないけど、早くなんとかした方がいいよ」
「何が、ですか?」
「あんたの魂」
吐き捨てるように言うと、落葉さんは何事もなかったかのように歩き出した。
「……たましい」
声に出してみても、全く分からない。
遠くなっていく背中を見つめながら、同じ言葉を頭の中で繰り返した。
「馬鈴薯の……味?」
そういえば、初対面の時にもそんなことを言われたような気がする。
ちなみに馬鈴薯というのはジャガイモのことだけど……うん。全く分からない。
「意味分かんないよね。えっと……」
蛍ちゃんが俯き、懸命に言葉を探し出す。
「昔から、音とか文字とか景色とか、見たり聞いたりしたものに味がするの。笛の音を聴いて『あんこの味だ』とか、本を読んでいて『梨の味だ』とか、今はすごく晴れてるけど『お米の味』がするから、後で雨が降るかもとか……」
「えっ、天気まで分かるの?」
人と違う感覚なんて話じゃない。それこそ、雨を予言する巫女そのものだ。
だけど、蛍ちゃんにとっては日常の一部でしかないのだろう。僕の反応に目を丸め、「大したことないよ」と苦笑した。
「なんとなくだから、毎回当たるわけじゃないんだよね。口に入れたら確実かもしれな……あ、もちろん本当に口に入れたりしないよ!?」
「うん、分かってる」
慌てる蛍ちゃんを前に、思わず笑みが零れた。
「でも、実際にはあんことかと同じ味じゃないの。だから葉月くんも、厳密には馬鈴薯みたいな『葉月くんの味』で……」
見たものや聞いたものに『味』を感じる。
知識としてそういう人がいるのは知っていたけど、理解するのは難しいし、ましてや共感なんてできないだろう。
それでも、たどたどしい言葉と声色からは、確かな生を感じた。
彼女が歩んできた、人生の重みを。
今の彼女に至るまでの、軌跡を。
「それでね、次第に味でどういう人か……なんとなく分かるようになったんだ」
顔を上げた蛍ちゃんと目が合う。
目を合わせるのが申し訳ないくらいに澄んでいて、煌めきに満ちた瞳だ。
「葉月くんは実直で、けして努力を怠らない人の味がするの。そして、実際にその通りの人だった。このままじゃ駄目だって、もっと頑張らないと、私なんてあっという間に置いてかれちゃうって、ずっと焦ってた」
「蛍ちゃんが?」
「うん。でも、それは葉月くんも同じなんだって知って……安心しちゃった」
蛍ちゃんの顔が、ふにゃりと緩んだ。
見ているこっちの心まで緩めてしまう笑顔で。
(……馬鹿だなぁ、僕は)
自分より確実に前にいる。そう思い込んでいたから、蛍ちゃんから『焦り』なんて言葉が出たことに驚きを隠せなかった。
だけど、考えてみれば当たり前だ。彼女だって巫女になったばかりなのだ。
僕と同じように不安だらけで、毎日を必死に足掻いて生きているんだ。
「――僕も」
まだ重たい口を、勢いに乗せて動かす。
この気持ちを、ちゃんと伝えたいから。
「蛍ちゃんが同じだって知って、安心した」
蛍ちゃんと改めて目が合う。
なんだかくすぐったくて、小さく笑い合った。
そんな不思議と心地良い時間が風化し始める頃合いで、蛍ちゃんが「そういえば」と急に表情を明るくした。
「『春の息吹と共に』っていう小説があるんだけど、葉月くんは知ってる?」
「うん。本屋で立ち読みしたことあるよ」
「そうなんだ!」
蛍ちゃんの顔が、いっそう明るくなった。
「昨日の夜に読み始めたばかりなんだけど、すごく面白いよね! 金平糖の甘さと酸っぱい梅の味が共存していて、世界観も凝ってて――」
例の如く頬を林檎のように赤らめているけど、そこに恥じらいは一切ない。
いつもの朗らかな蛍ちゃんはどこへやら、息を荒くして、好きなものに熱くなっている人特有の早口で語っている。小型犬の子犬みたいだ。
もちろんそれだけなら、全然問題ない。
問題なのは、その小説だった。
「……蛍ちゃんは、それをどこで?」
「李々さんがね、『淑女たるもの、このくらいは読んでおかないと時代遅れですよ』って、少女向けの本を何冊か集めてくれたの」
「そ、そうなんだ……」
蛍ちゃんのいう『春の息吹と共に』は、いわゆるボーイズラブ小説だ。この世界では『淑女小説』なんて呼ばれている。間違っても幼気な少女向けではない。
ちなみに僕も物語の雰囲気に惹かれて立ち読みしたものの、読み進める内に淑女系だと分かって、そっと本棚に戻した。
この世界の本には表紙がない。そして本屋の棚はジャンル分けが大雑把というか、あまりそういう概念がないので、時折こういう罠にはまってしまうのだ。いくら物語が面白くても、男の僕にはいろいろとキツイ。
(にしても李々さん、よりにもよって蛍ちゃんに勧めるとは……)
蛍ちゃんが大人の階段を上る姿を想像してみたけど、居たたまれない気持ちになるだけなので止めておいた。これ以上触れてはいけない領域だ。
話があらぬ方向へ展開しない内にどうにか終わらせようと、夢中で物語について語る蛍ちゃんに「あの」と声をかけた。
「蛍ちゃん。それは――」
叩きつけるような鋭い音が、耳に突き刺さる。
その音で蛍ちゃんの話も瞬時に止み、二人して襖の方を見た。
「…………」
花鶯さんが、両手で襖を開いた状態のまま静止していた。もの凄く怖い顔で。
気を見なくても分かる。これは、めちゃくちゃ怒ってる時の顔だ。
そしてこの顔を見るのは、先日、李々さんと一触即発になりかけた時以来だ。
(もう嫌な予感しかしない……!)
「…………蛍」
「は、はい!!」
地獄の底から蠢くような声を出す師匠を前に、蛍ちゃんが身をすくめる。
「その本」
「え?」
「『春の息吹と共に』。誰に渡されたの?」
「えっと、李々さんですけど」
「そう……」
花鶯さんは一言呟くと、僕たちに背を向けた。
「今から授業を再開する予定だったけど、もう少し休んでていいわよ」
「姫さ……花鶯さん、何かあったんですか?」
おどおどと尋ねる弟子に対し、花鶯さんが「まぁね」と手短に答える。
「主従を弁えない無礼者にお灸を据えるだけよ。すぐ終わるから待ってなさい」
それだけ言うと、花鶯さんは部屋にも入らず早足で立ち去っていった。
傍にいた侍女が、開いたままの襖を「失礼いたしました」と淑やかに閉める。
訓練の場には、変な空気だけが残された。
「花鶯さん、大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うよ……多分」
心から心配している蛍ちゃんを騙しているようで、申し訳ない気持ちになった。蛍ちゃんを安心させたかったけど、これはさすがに無理だ。
(怪我人が出ないといいけど……)
修羅場の再来としか思えない展開に、僕はただ無事と平穏を祈るばかりだった。
***
訓練が終わる頃には、外が見事なまでに鮮やかな茜色で彩られていた。
今日は黄林さんの授業がない分、第三の眼の訓練に一日を費やした。つまり数時間もの間、ずっと視覚と聴覚を封印していたのだ。
「め、目がぁ……」
そんな状態で無用心に空を見た結果、一瞬にして夕焼けに目を潰された。
「失礼いたします」
菜飯さんの声と共に、瞼の外に影が差し込む。
恐る恐る瞼を開くと、目の前に傘が広がっていた。どうやら、菜飯さんが横から傘を差し出してくれたらしい。
(あれ? でも今日、雨降ったっけ?)
「ありがとうございます。それ、いつも持ち歩いてるんですか?」
「いえ。今日の訓練は日中を通してと伺いましたので、念のためでございます」
「つまり、日除けのためにわざわざ……?」
「えぇ。お役に立てたようで何よりです」
(ザ・有能な大人だ……!)
滑らか過ぎるエスコートに、何かと要領の悪い子供の僕はただただ感服した。桜さんが手放しで褒めるのも頷ける。
「ところで、体調の方はいかがですか?」
「え?」
「近頃の花鶯様は、しきりに葉月様の御体を気にしておられます。桜さんの代役としてはもちろん、あの方の従者としても、貴方様の状態を把握するべきかと思いまして。あくまで、私の独断でございますが」
「体調ですか。そうですね……」
独断で動いたのは、花鶯さんの心労を察してのことだろう。そしておそらく、花鶯さんの耳にもそれとなく入れるはずだ。
その可能性を踏まえて、花鶯さん本人に伝えるつもりで言葉を探す。
「……花鶯さんに注意されたんですけど、自主練をやり過ぎて疲れを引きずっていたみたいです。でも、体調自体は日に日に回復しています」
「それは何よりでございます」
菜飯さんは深く追及することなく、柔和な微笑みでただ耳を傾けていた。彼は彼で、花鶯さんの耳としての役割に徹しているのかもしれない。
主人の心情を察し、陰ながらそっと支える。真面目で使命感の強すぎる花鶯さんとは、主従として相性が良さそうだ。
だからこそ、代役とはいえ任されたのだろう。
何かと不安定な僕の身を案じ、見守る役目を。
「すみません。自分で思っている以上に、花鶯さんに迷惑かけていたのかも……」
「ご心配には及びません。単純に、花鶯様が世話焼きでいらっしゃるだけです。その上、御身を削られるほどに真面目でございますから」
「確かに」
蛍ちゃんの与太話で血相を変えた花鶯さんを思い出し、ふふと笑みが零れた。
「でも、花鶯さんのそういうところが好きです。あの人が教育係だから、ここまで頑張れるんだと思います。あ、異性としてではないですけど」
「えぇ、分かります。私も同じですから」
菜飯さんの笑みが、いっそう柔らかくなった。
「かつて行く当てがなかった私に、花鶯様は御手を差し伸べてくださりました。あのまま彷徨っていたら、私はとっくに野垂れ死にしていたことでしょう。今こうして生きていられるのは、他でもないあの御方のおかげです」
「そうですか……」
さぞかし過酷な過去だろうに、少しも悲痛な響きがない。ただただ、美しい思い出を紡いでいる人の微笑みだ。本当にかわいそ――――
違和感で、思考が固まった。
(…………可哀そう?)
何が起きたのか、全く分からない。
この状況であり得ない感情が、頭を過った。
(あ、れ……?)
菜飯さんの立ち姿が歪んだ。視界が、たちまち暗転していていく。
また眩暈かと思ったけど、何かが違う。
何が違うのかさえも分からず困惑している内に、視界が戻っていく。
(――――――え)
視界は、確かに戻った。
だけどそこに存在するのは、暗闇と女性だ。
(…………誰?)
薄汚れた着物をまとう女性が、鉄格子の向こう側に座り込んでいる。暗くてよく見えないけど、女性が腰を下ろしているのは座敷だ。
(……座敷牢?)
灯火か何かで照らされているのか、辛うじて女性の顔が見えた。
女性は、震えていた。
目を見開き、膝に爪を食い込ませる姿は、見ているだけで痛々し――――
(あれ?)
よく見ると、鉄格子の傍にもう一人いた。
間違いなく人だけど、場所のせいか、周囲の暗闇と同化しているように見える。
『――――て―――――――ら」
どこからか、音が聞こえる。
いや、声だろうか。ちゃんと聞こえているはずなのに、それが何なのか分からない。辛うじて『音』だと認識できているだけだ。
ふと、灯火のような光が、鉄格子の傍らにいた人を照ら――――
「葉月様!!」
「――――っ!」
視界が、一瞬で明るくなった。
目の前には、見慣れた廊下と夕焼けが広がっている。鉄格子の向こうに座る女性も、暗闇に溶け込んでいた人も、そこにはいない。
状況が呑み込めず、声がした方を見た。
「大丈夫ですか?」
「…………」
菜飯さんだ。柔和な物腰は変わらないけど、顔には動揺の色が見て取れる。
(……倒れては、いない?)
その事実が分かって、ひとまず安心した。
そして、肩に手が置かれていることに気付いた。菜飯さんじゃない。
細い指先を視線で追い、後ろを振り返る。
「気が付いた?」
落葉さんだ。僕の肩に手を置いたまま、静かにこちらを見つめている。
「今のが、例の発作?」
「……分からないです」
「そう」
何をどう納得したのか分からないけど、ようやく肩から落葉さんの手が離れた。
逆光で顔がよく見えないからだろうか。夕焼けを背に立つ彼は、いつもと違う、どこか背筋の凍るような雰囲気をまとっていた。
「あの……」
「菜飯の声がして、見に来たらあんたが突っ立ってた。呼びかけても心ここに在らずって感じだったから、あんたの魂に触れさせてもらった」
「えっ?」
「あんたが今習ってる、第三の眼を使っただけだよ。どうなるか分からなかったけど、とりあえず引き戻せたみたいだね」
魂を通して、身体の症状を和らげることができる。花鶯さんが言っていたことだ。それを、落葉さんがしてくれたのだろう。
「……すみません。ありがとうございます」
「別に。じゃあ、俺はもう行くから」
「はい」
落葉さんが、いつもと変わらない素っ気なさと共に僕の横を通り過ぎていく――と思いきや、足を止めて振り返った。
再び、僕を見据えてくる。
夕焼けに染まった、どこか不機嫌な顔で。
「……状況は全く分からないけど、早くなんとかした方がいいよ」
「何が、ですか?」
「あんたの魂」
吐き捨てるように言うと、落葉さんは何事もなかったかのように歩き出した。
「……たましい」
声に出してみても、全く分からない。
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