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二章「動国の花」
第十四話「花曇り ーはなぐもりー」 (後編) ②
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「…………嫉妬?」
「やっぱ、自覚なかったんですね」
小春さんがなぜか、溜め息交じりに呟いた。
「俺、桜と同郷なんですよ」
「え?」
「昔からの馴染みで年も近いから、気兼ねなく話せるというだけです」
「そう、ですか」
「さっきのも、ただの冗談ですよ」
何を、とは聞けなかった。
口にすればするほど、小春さんが桜さんを引き寄せた時の、表現し難い気持ち悪さを思い出してしまうから。
「俺は見ての通り、女の子が大好きな軽薄男です。一人の女に縛られるのは御免ですし、この気楽な関係を変えるつもりも一切ありません」
「本当ですかっ?」
「えぇ、もちろん」
思わず口をついた言葉に、自分で驚いた。
桜さん絡みで嫉妬の感情が沸くなんて、考えもしなかった。そもそも桜さんに相応しいのは、どう考えてもこの人なのだから。
(まぁ、軟派なところを除いてだけど……あ)
ふと、合点がいった。
この人が、なぜこんな状況を作り出したのか。
「まさか、それを言うために?」
「えぇ。巫子様に個人的な怨恨を抱かれるなど、死刑宣告を受けたも同然ですからね。一刻も早くその危機を脱したかったのですよ」
「な、なるほど……」
「もし嘘だとお思いなら、鬼だと暴露して社の外に放り出すなり、黒湖に沈めるなりしていただいて構いません」
「いや、そんなことしませんけど……」
ふと、体から力が抜けていくのを感じた。一体何を言われるのかと、無駄に身構えてしまったことが馬鹿みたいだ。
いや、別の意味で酷い話だ。
僕が勘違いして、桜さんとこの人が親密な関係だなんて妄想をしたせいで、速やかに訂正する必要があったのだから。
「……すみません」
「いえいえ、どうかお気になさらず」
小春さんは苦笑しつつ、ふと口角を下ろした。
真顔になっただけだが、恐ろしく整った顔立ちをしているからだろうか。虹さんとは別の意味で、圧を感じる。
「差し出がましいことを申し上げますが、気を付けた方がいいですよ」
「何をですか?」
「葉月様は他人の気持ちに敏感であられますが、失礼ながら、ご自分のお気持ちには恐ろしく鈍感であられますので」
「鈍感?」
「どこの馬の骨とも分からない男に、あんなあからさまな形で煽られて腹を立てない男なんて、普通いないでしょう?」
「…………」
いまいちピンと来ない。
今まで、そんなの考えたこともなかったから。
だけど確かに、指摘されるまで『嫉妬』していたことに気が付かなかった。
(鈍感、なのかな……?)
「……はい」
否定する根拠もないので、とりあえず頷いた。
納得したかどうかは分からないけど、小春さんは再び微笑を浮かべた。
「それと、もう一つ。桜に至っては、俺のことなんて欠片も意識してませんよ」
「え?」
「あいつは、俺に同情しているだけです。俺が『鬼』だと知ってますから」
そう言って、小春さんは笑った。
「…………」
なぜだろう。どこか既視感があった。
桜さんが見せた、あの時の切ない笑顔と。
(桜さんと同じ『鬼』だから……?)
巫女である以上、僕も鬼のはずだけど、この世界で鬼と蔑まれてきたわけではないし、そもそも力を持っている自覚がない。
だけど、この人は違う。
同じ故郷で育ち、鬼だと蔑まれてきた者同士。
桜さんと過ごした日々は、この人の方がずっと長くて、ずっと重いはずだ。
小春さんは気楽な関係だと言ったけど、本当にそうだろうか。
少なくとも、この人にとっては――――。
「確かこの後、授業を受けられるのでしたね」
「あ!」
「部屋までお送りしますよ」
小春さんがゆらりと立ち上がる。
鬼の面影はどこへやら、何事もなかったかのように綺麗な笑みを浮かべていた。
葉月殿を部屋に送った後、俺は事務室と反対の方向へ歩き出した。
ちょっと一人になりたいだけであって、けして仕事から逃げているわけじゃない。また三郎さんに絞られるのは御免なんでね。
(……鎌をかけて正解だったな)
桜と話していた時、聞こえてくる『声』からあまりよろしくないものを感じた。柔和なあの巫子のものとは思えないほど、黒いものを。
もしやと思って桜に接触してみたら、案の定、黒いものが浮き彫りになった。
初対面でここまで嫌われたのは、数年前の李々との出会い以来だ。
しかもあの時は、なんとも間の悪いことに個室で桜と二人きりだった。
もちろん、あくまでも諸々の事情あってのことだが、言い訳呼ばわりはおろか、聞く耳すら持たれなかった。
魅惑的な甘い笑顔と、この世の憎悪を全て詰め込んだような怨嗟の声をもって、目と耳と心を一瞬で潰されたものだ。
とはいえ、表向きは愛らしい微笑みで窘められただけだ。抵抗はおろか逃亡もできず、まさに地獄のような責め苦だった。
よく女嫌いにならなかったものだと、あの時の自分を褒めてやりたい。あれと比べたら、少なくとも表面上の葉月殿は可愛いものだ。
(まぁ、自覚はないだろうけど)
無意識下の声とはいうが、あくまでも俺の耳が『声』として拾っているだけだ。実際には声どころか音ですらなく、本人でも認知できない。
無意識下の声は、嘘偽りのない本音だ。
そして大抵、他人と共存する上で本音は足枷となる。だから人は、生きるために本音を無意識下に追いやるのだ。
だから葉月殿は気付かなかった。
誰かに『嫉妬』することは、あの巫子にとっては足枷となるから。
(李々とはまるで正反対だな……)
嫉妬したのは李々も同じだが、彼女は自分の性格の悪さを自覚して開き直っている。嫉妬という感情を無意識下に追いやっていないのだ。
そう考えると、質が悪いのはむしろ葉月殿の方だろう。自覚のない負の感情ほど、向けられて厄介なものはない。
もっとも、そんなことは大した話ではない。
自分の気持ちに異様なほど鈍感なのは歪だけど、別に珍しくはない。歪ではない人間なんて、それこそ赤ん坊くらいだ。
俺が気になったのは、別のところにある。
「…………」
(やっぱ、気のせいじゃなかったな。あれ)
葉月殿を目にした瞬間、柄にもなく返す言葉を失ってしまった。
夜長姫に似ているからではない。
そんなことは、噂で耳に蛸ができるほど聞いた。もっとも、実際には瓜二つなんてものではなく驚いたのも確かだが。
それ以上に驚いたのは、声の聞こえ方だ。
あれは、異常というほかない。
一人の人間から、別の声が聞こえるなんて。
(おかげで聞き取りにくくて敵わなかった。葉月殿の心の叫びがいちいち愉快だから、それはそれで面白かったけど……)
桜の声も聞き取りにくくなっているけど、あいつは意図的にそうしている。
普段は、桜の葉を服用して『奇跡を拒絶する体質』を抑えている。だからこそ、巫女に仕えることを特別に許されているのだ。
だというのに、最近はどういうわけか薬の量を減らしている。
そのせいで、同じ『奇跡』である俺の力も中途半端にしか働かず、途切れ途切れにしか声を拾えなくなっているわけだ。
しかし、葉月殿は違う。
聞き取りにくいとかいう以前に、そもそも別の声が被さってきているのだ。
二つの声が同時に聞こえたり、逆に変なところで声が重なったりするから、もはや不協和音だ。作り笑いを保つのに少々苦労した。
(まぁ、複数の声を持つ奴も稀にいるけど)
そういう声は、決まって負の感情を抱いた時に聞こえてくる。確かにそいつのものなのに、当人とは思えないほどに揺らついた不安定な声が。
どういう仕組みかは知らないが、あれは間違いなく当人の声だ。自分の声だと気付いていないだけにすぎない。
だけど、葉月殿はそんな次元じゃない。聞こえるのは、明らかに別人の声だ。
彼には悪いが、はっきり言って気持ち悪い。よく正気でいられるものだ。もっとも、それも自覚がないからだろうが。
それに、あの声には聞き覚えがあった。
もう二度と聞きたくないのに、いざ聞こえると耳を塞げない、あの声――――
『初めてね。お前が怒りを露わにするなんて』
脳裏に、亜麻色の長い髪が乱れ広がった。
なんの手入れもされていない固い土に全身を押しつけられ、細い首に手をかけられているにも関わらず、少女は丸い頬を緩ませていた。まるで欲しかったものを手に入れた幼子のように頬を赤く染めて、飴色の瞳を爛々と輝かせて。
その花開いた笑顔で、瞬時に熱が引いた。
『…………』
『どうしたの?』
正気に戻って、怖気が走った。
無邪気な笑顔を前にして初めて、自分が何をしようとしたのかを理解したのだ。
自分は今、本気で、目の前の少女を怒りのままに殺そうとしていたのだと。
『怖いの? 人を殺すのが』
『…………』
『大丈夫よ。ここには誰もいないし、誰も見ていない。私たちしかいない。今、この場に私たちを縛るものは何もないのよ』
『…………』
『それとも、自分の手は汚したくない? だったら私を鬼だと突き出せばいいわ』
『…………は?』
さらりと小さな口から出た言葉に、俺は思わず間抜けな声を漏らした。
命乞いどころか、殺害を促す。どう考えても不自然なのに、眼下の少女はさも当然の選択肢であるかの如く口にしたのだ。
あまりにも奇怪で、あまりにも不気味だった。
『みんな考える頭を失っているし、私はまだ巫女の候補でしかないもの。『鬼』という一言で、簡単にあなたを信じるわ』
ふふ、と少女が小さな笑い声を立てる。
『そしたら私は、凄惨な拷問を受けた末に縛り首にされるの。私が指名した、あなたのご両親と同じようにね』
幼い少女が口から出す言葉ではなかった。
惨たらしい言葉の数々とは裏腹に、少女のつぶらな瞳は夢に満ちていて、今にも溢れんばかりの煌めきを秘めていた。
美しい瞳だった。
だからこそ、気色悪かった。
心の声が聞こえる俺だから、分かる。
この少女の言動には、偽りも打算もない。
村を襲った悪夢に、殺されようとしている自分の現状に、心から歓喜している。
『憎いんでしょう? ご両親を殺した私が』
『…………っ』
『大丈夫。なんにも怖くないわ。ただこの手にぐっと力を加えるだけで、私は叫ぶことすらできなくなるもの。だからほら、早く』
憎い。憎くてたまらない。
全部こいつのせいだ。こいつさえいなければ鬼狩りなんて起きなかったし、両親が鬼として殺されることもなかった。
こいつは少女の姿をした鬼だ。
姿形や力の有無など関係ない、正真正銘の。
だから、俺がこの少女を殺したいと思うのは当然だ。何一つおかしくない。
それなのに手が震えた。
首に沿える指に、まるで力が入らない。
もういっそのこと、少女を置いてこの場から逃げ出したかったが、震えは体にまで回ってきた。動くことすらできず、俺は少女の上でただ震えるばかりだった。
『――――はぁ』
落胆の声が、微かな溜め息と共に吐き出された。小さい吐息だったけど、嫌に耳にこびりついて離れなかった。
途端に、頬から赤みが引いた。
寒気がするような、無機質な顔になった。
少女が、無言で動き出した。
起き上がる少女の動きに合わせて、俺はその場で尻餅をついた。突き飛ばされたわけでもないのに、体の均衡を保てなかった。
『いくじなし』
まだ幼い少女の口から出たとは思えないほどに、冷淡な声だった。
顔を上げようとしたけど、できなかった。
少女の声色から、蔑みを帯びた目で見下ろされていることは分かっていたから。
少女は、もう用無しだと言わんばかりにさっさと俺の横を通り過ぎた。
振り向く素振りすらなく、小さな足音はあっという間に遠ざかっていった。
『………………』
殺せなかった。
それが確定した瞬間、俺は真っ先に安堵した。
「やっぱ、自覚なかったんですね」
小春さんがなぜか、溜め息交じりに呟いた。
「俺、桜と同郷なんですよ」
「え?」
「昔からの馴染みで年も近いから、気兼ねなく話せるというだけです」
「そう、ですか」
「さっきのも、ただの冗談ですよ」
何を、とは聞けなかった。
口にすればするほど、小春さんが桜さんを引き寄せた時の、表現し難い気持ち悪さを思い出してしまうから。
「俺は見ての通り、女の子が大好きな軽薄男です。一人の女に縛られるのは御免ですし、この気楽な関係を変えるつもりも一切ありません」
「本当ですかっ?」
「えぇ、もちろん」
思わず口をついた言葉に、自分で驚いた。
桜さん絡みで嫉妬の感情が沸くなんて、考えもしなかった。そもそも桜さんに相応しいのは、どう考えてもこの人なのだから。
(まぁ、軟派なところを除いてだけど……あ)
ふと、合点がいった。
この人が、なぜこんな状況を作り出したのか。
「まさか、それを言うために?」
「えぇ。巫子様に個人的な怨恨を抱かれるなど、死刑宣告を受けたも同然ですからね。一刻も早くその危機を脱したかったのですよ」
「な、なるほど……」
「もし嘘だとお思いなら、鬼だと暴露して社の外に放り出すなり、黒湖に沈めるなりしていただいて構いません」
「いや、そんなことしませんけど……」
ふと、体から力が抜けていくのを感じた。一体何を言われるのかと、無駄に身構えてしまったことが馬鹿みたいだ。
いや、別の意味で酷い話だ。
僕が勘違いして、桜さんとこの人が親密な関係だなんて妄想をしたせいで、速やかに訂正する必要があったのだから。
「……すみません」
「いえいえ、どうかお気になさらず」
小春さんは苦笑しつつ、ふと口角を下ろした。
真顔になっただけだが、恐ろしく整った顔立ちをしているからだろうか。虹さんとは別の意味で、圧を感じる。
「差し出がましいことを申し上げますが、気を付けた方がいいですよ」
「何をですか?」
「葉月様は他人の気持ちに敏感であられますが、失礼ながら、ご自分のお気持ちには恐ろしく鈍感であられますので」
「鈍感?」
「どこの馬の骨とも分からない男に、あんなあからさまな形で煽られて腹を立てない男なんて、普通いないでしょう?」
「…………」
いまいちピンと来ない。
今まで、そんなの考えたこともなかったから。
だけど確かに、指摘されるまで『嫉妬』していたことに気が付かなかった。
(鈍感、なのかな……?)
「……はい」
否定する根拠もないので、とりあえず頷いた。
納得したかどうかは分からないけど、小春さんは再び微笑を浮かべた。
「それと、もう一つ。桜に至っては、俺のことなんて欠片も意識してませんよ」
「え?」
「あいつは、俺に同情しているだけです。俺が『鬼』だと知ってますから」
そう言って、小春さんは笑った。
「…………」
なぜだろう。どこか既視感があった。
桜さんが見せた、あの時の切ない笑顔と。
(桜さんと同じ『鬼』だから……?)
巫女である以上、僕も鬼のはずだけど、この世界で鬼と蔑まれてきたわけではないし、そもそも力を持っている自覚がない。
だけど、この人は違う。
同じ故郷で育ち、鬼だと蔑まれてきた者同士。
桜さんと過ごした日々は、この人の方がずっと長くて、ずっと重いはずだ。
小春さんは気楽な関係だと言ったけど、本当にそうだろうか。
少なくとも、この人にとっては――――。
「確かこの後、授業を受けられるのでしたね」
「あ!」
「部屋までお送りしますよ」
小春さんがゆらりと立ち上がる。
鬼の面影はどこへやら、何事もなかったかのように綺麗な笑みを浮かべていた。
葉月殿を部屋に送った後、俺は事務室と反対の方向へ歩き出した。
ちょっと一人になりたいだけであって、けして仕事から逃げているわけじゃない。また三郎さんに絞られるのは御免なんでね。
(……鎌をかけて正解だったな)
桜と話していた時、聞こえてくる『声』からあまりよろしくないものを感じた。柔和なあの巫子のものとは思えないほど、黒いものを。
もしやと思って桜に接触してみたら、案の定、黒いものが浮き彫りになった。
初対面でここまで嫌われたのは、数年前の李々との出会い以来だ。
しかもあの時は、なんとも間の悪いことに個室で桜と二人きりだった。
もちろん、あくまでも諸々の事情あってのことだが、言い訳呼ばわりはおろか、聞く耳すら持たれなかった。
魅惑的な甘い笑顔と、この世の憎悪を全て詰め込んだような怨嗟の声をもって、目と耳と心を一瞬で潰されたものだ。
とはいえ、表向きは愛らしい微笑みで窘められただけだ。抵抗はおろか逃亡もできず、まさに地獄のような責め苦だった。
よく女嫌いにならなかったものだと、あの時の自分を褒めてやりたい。あれと比べたら、少なくとも表面上の葉月殿は可愛いものだ。
(まぁ、自覚はないだろうけど)
無意識下の声とはいうが、あくまでも俺の耳が『声』として拾っているだけだ。実際には声どころか音ですらなく、本人でも認知できない。
無意識下の声は、嘘偽りのない本音だ。
そして大抵、他人と共存する上で本音は足枷となる。だから人は、生きるために本音を無意識下に追いやるのだ。
だから葉月殿は気付かなかった。
誰かに『嫉妬』することは、あの巫子にとっては足枷となるから。
(李々とはまるで正反対だな……)
嫉妬したのは李々も同じだが、彼女は自分の性格の悪さを自覚して開き直っている。嫉妬という感情を無意識下に追いやっていないのだ。
そう考えると、質が悪いのはむしろ葉月殿の方だろう。自覚のない負の感情ほど、向けられて厄介なものはない。
もっとも、そんなことは大した話ではない。
自分の気持ちに異様なほど鈍感なのは歪だけど、別に珍しくはない。歪ではない人間なんて、それこそ赤ん坊くらいだ。
俺が気になったのは、別のところにある。
「…………」
(やっぱ、気のせいじゃなかったな。あれ)
葉月殿を目にした瞬間、柄にもなく返す言葉を失ってしまった。
夜長姫に似ているからではない。
そんなことは、噂で耳に蛸ができるほど聞いた。もっとも、実際には瓜二つなんてものではなく驚いたのも確かだが。
それ以上に驚いたのは、声の聞こえ方だ。
あれは、異常というほかない。
一人の人間から、別の声が聞こえるなんて。
(おかげで聞き取りにくくて敵わなかった。葉月殿の心の叫びがいちいち愉快だから、それはそれで面白かったけど……)
桜の声も聞き取りにくくなっているけど、あいつは意図的にそうしている。
普段は、桜の葉を服用して『奇跡を拒絶する体質』を抑えている。だからこそ、巫女に仕えることを特別に許されているのだ。
だというのに、最近はどういうわけか薬の量を減らしている。
そのせいで、同じ『奇跡』である俺の力も中途半端にしか働かず、途切れ途切れにしか声を拾えなくなっているわけだ。
しかし、葉月殿は違う。
聞き取りにくいとかいう以前に、そもそも別の声が被さってきているのだ。
二つの声が同時に聞こえたり、逆に変なところで声が重なったりするから、もはや不協和音だ。作り笑いを保つのに少々苦労した。
(まぁ、複数の声を持つ奴も稀にいるけど)
そういう声は、決まって負の感情を抱いた時に聞こえてくる。確かにそいつのものなのに、当人とは思えないほどに揺らついた不安定な声が。
どういう仕組みかは知らないが、あれは間違いなく当人の声だ。自分の声だと気付いていないだけにすぎない。
だけど、葉月殿はそんな次元じゃない。聞こえるのは、明らかに別人の声だ。
彼には悪いが、はっきり言って気持ち悪い。よく正気でいられるものだ。もっとも、それも自覚がないからだろうが。
それに、あの声には聞き覚えがあった。
もう二度と聞きたくないのに、いざ聞こえると耳を塞げない、あの声――――
『初めてね。お前が怒りを露わにするなんて』
脳裏に、亜麻色の長い髪が乱れ広がった。
なんの手入れもされていない固い土に全身を押しつけられ、細い首に手をかけられているにも関わらず、少女は丸い頬を緩ませていた。まるで欲しかったものを手に入れた幼子のように頬を赤く染めて、飴色の瞳を爛々と輝かせて。
その花開いた笑顔で、瞬時に熱が引いた。
『…………』
『どうしたの?』
正気に戻って、怖気が走った。
無邪気な笑顔を前にして初めて、自分が何をしようとしたのかを理解したのだ。
自分は今、本気で、目の前の少女を怒りのままに殺そうとしていたのだと。
『怖いの? 人を殺すのが』
『…………』
『大丈夫よ。ここには誰もいないし、誰も見ていない。私たちしかいない。今、この場に私たちを縛るものは何もないのよ』
『…………』
『それとも、自分の手は汚したくない? だったら私を鬼だと突き出せばいいわ』
『…………は?』
さらりと小さな口から出た言葉に、俺は思わず間抜けな声を漏らした。
命乞いどころか、殺害を促す。どう考えても不自然なのに、眼下の少女はさも当然の選択肢であるかの如く口にしたのだ。
あまりにも奇怪で、あまりにも不気味だった。
『みんな考える頭を失っているし、私はまだ巫女の候補でしかないもの。『鬼』という一言で、簡単にあなたを信じるわ』
ふふ、と少女が小さな笑い声を立てる。
『そしたら私は、凄惨な拷問を受けた末に縛り首にされるの。私が指名した、あなたのご両親と同じようにね』
幼い少女が口から出す言葉ではなかった。
惨たらしい言葉の数々とは裏腹に、少女のつぶらな瞳は夢に満ちていて、今にも溢れんばかりの煌めきを秘めていた。
美しい瞳だった。
だからこそ、気色悪かった。
心の声が聞こえる俺だから、分かる。
この少女の言動には、偽りも打算もない。
村を襲った悪夢に、殺されようとしている自分の現状に、心から歓喜している。
『憎いんでしょう? ご両親を殺した私が』
『…………っ』
『大丈夫。なんにも怖くないわ。ただこの手にぐっと力を加えるだけで、私は叫ぶことすらできなくなるもの。だからほら、早く』
憎い。憎くてたまらない。
全部こいつのせいだ。こいつさえいなければ鬼狩りなんて起きなかったし、両親が鬼として殺されることもなかった。
こいつは少女の姿をした鬼だ。
姿形や力の有無など関係ない、正真正銘の。
だから、俺がこの少女を殺したいと思うのは当然だ。何一つおかしくない。
それなのに手が震えた。
首に沿える指に、まるで力が入らない。
もういっそのこと、少女を置いてこの場から逃げ出したかったが、震えは体にまで回ってきた。動くことすらできず、俺は少女の上でただ震えるばかりだった。
『――――はぁ』
落胆の声が、微かな溜め息と共に吐き出された。小さい吐息だったけど、嫌に耳にこびりついて離れなかった。
途端に、頬から赤みが引いた。
寒気がするような、無機質な顔になった。
少女が、無言で動き出した。
起き上がる少女の動きに合わせて、俺はその場で尻餅をついた。突き飛ばされたわけでもないのに、体の均衡を保てなかった。
『いくじなし』
まだ幼い少女の口から出たとは思えないほどに、冷淡な声だった。
顔を上げようとしたけど、できなかった。
少女の声色から、蔑みを帯びた目で見下ろされていることは分かっていたから。
少女は、もう用無しだと言わんばかりにさっさと俺の横を通り過ぎた。
振り向く素振りすらなく、小さな足音はあっという間に遠ざかっていった。
『………………』
殺せなかった。
それが確定した瞬間、俺は真っ先に安堵した。
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