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二章「動国の花」
第十三話「花曇り ーはなぐもりー」 (前編) ④
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「単刀直入に聞く。目を覚ました後、なんらかの異変に気付いたんじゃないか?」
「はい。その……」
ゆっくりと口を開いた。できる限り、動揺を表に出さないように。
「味が、分からなくなりました」
「味?」
虹さんが目を丸めた。
「味……あぁ、なるほどね」
困惑するのかと思いきや、やけにあっさりと納得した。もしかしたら、思い当たる節があるのかもしれない。
「他には?」
「他? いえ、特に何も」
「そうか」
実に簡潔な返事だった。あまりにも簡潔すぎて、逆に不安になってくる。
「あの、驚かないんですか?」
「あぁ。私自身がよく知っているからな」
「え?」
「あんたと同じ経験をした人間を知っていると言ったが、あれは私のことだ」
「え……っ!」
まさかの返答に、驚きを隠せなかった。
同時に合点がいった。食事の席での虹さんは、異様なまでに自信に満ちていた。自分の発言に、欠片も不安を抱いていなかった。
本人の経験があるからこそ、何を言われても揺るがなかったのだ。
「虹さんも、何か変化があったんですか?」
「あぁ。私は熱を出した後、髪が赤くなった」
「え――――」
味覚がなくなるどころの話じゃない。熱を出して髪の色が変化するなんて、明らかに人の領域を超えている。
思えば、赤い髪という時点でおかしかった。
この世界の人たちの大半は黒髪で、せいぜい茶色がかった人をたまに見るくらいだ。言ってしまえば日本人と変わらない。
そして、この世界に染髪の文化はないに等しい。せいぜい、白髪が目立たないように墨で黒く染める程度だ。
だから、本来なら赤い髪なんてありえない。
初対面の時がそれどころではなかったのと、ここが異世界ということもあって、あっさりと受け入れてしまっていたけど……。
(そういえば、夜長姫も亜麻色の髪だ)
しかも、飴色にも見える茶色の瞳。
虹さんのような彫りの深い顔ではないにしろ、この世界では明らかに異質だ。
そして、赤い髪にばかり目がいって気付かなかったけど、虹さんの瞳も茶色だ。夜長姫以上に明るく、夜に紛れた狼を思わせる。琥珀色の方が近いかもしれない。
(体の変化と、何か関係が――)
「ちなみに、変化はそれで終わりじゃない」
「え?」
「体の変化は言うに及ばず、記憶にも変化が生じる。自身や周囲のことを忘れたり、逆に知らないはずのことを知っていたり……覚えはないか?」
「…………いいえ」
平静を保ったつもりが、口から出た声は、自分でも驚くほどに震えていた。
あんな変化が、まだ続くのか?
しかも、記憶って…………。
「……あの」
重く冷たい唇を、無理やりこじ開けた。
昼食で聞いた内容を、どうにか手繰り寄せる。
「確か、気を見過ぎたせいで倒れたんですよね? だったら――」
「気を見るのを避けたところで、一時しのぎにしかならないよ」
「え?」
「気を見るのは、変化を促進する要因の一つでしかない。そしてあの発作は、いわば変化の前触れだ。さっきの対処法も、あくまで発作を抑えるためにすぎない」
「えっと……?」
「変化は止められないし、また発作も起こる」
微かな望みが、潰えた。
要するに、今後どう変化しようと、僕には何もできないということだ。
「……なんで、そんな」
「黒湖に選ばれたからだ」
「え?」
話が全く見えない。
黒湖様に選ばれたから、巫女としてここにいる。そんなことはもう百も承知だ。
「厳密に言えば、黒湖が選んだ巫女から、さらに選りすぐられたということだ」
「選りすぐり……?」
「基準は定かじゃないけどな。黒湖が『こいつはこの世界に必要だ』と判断した奴だと、私個人は思っている」
「でも、なんでそれで、体や記憶に変化が……」
「それは――――」
唐突に、虹さんが口を閉ざす。
そしてなぜか、不愉快そうに眉をひそめた。
「虹さん?」
視線を合わせていないので、僕への不快感ではないのは明らかだ。それでも、目の前で眉をひそめられると落ち着かない。
虹さんが溜め息を付き、再び口を開いた。
「悪いな。この話はここまでだ」
「えっ?」
「これ以上話すと、天罰が下るみたいだからな」
「でも……」
「案ずるな。本当なら、私がこの場でわざわざ話すまでもないことだ。変化が進めば、嫌でも理解することになる」
「…………」
話すまでもないというなら、なんでわざわざ話したのだろう。しかも、途中で中断せざるを得なくなるような話を。
(……黄林さんに、止められた?)
考えられる可能性としては、それしかない。共有の力をもってすれば、虹さんの心に繋げるなんて造作もないだろう。
それに彼女は、巫女たちのまとめ役のような立ち位置にいる。他の巫女が知らない情報を、虹さんと共有していてもおかしくない。
(でも、なんで……?)
「ひとまず、再び変化が生じたら私に言うといい。愚痴くらいなら聞いてやるし、質問だって受け付ける。もっとも、答えられる範囲でだが」
「…………」
今、ここで知るべきことを考える。
話を中断したことから察するに、核心に迫るような質問は無理だろう。それなら、今の僕にとって最も重要なことを聞くしかない。
「……早速、質問してもいいですか?」
「もちろんだ」
「体の変化も、口外してはいけませんか?」
「それは構わない。私の髪もそうだが、隠し通せるものではないからな」
もっともだと思った。味覚ならまだしも、髪の色が変わったら一目瞭然だ。それこそ、髪染めでもしない限り隠しようがない。
「ただし、現時点で口外してもいいのは、自分の従者と担当の医官のみだ。昼食時の様子を見るに、混乱を招く恐れがある奴もいるからな」
「……分かりました」
味覚のことを打ち明けるのには、やっぱり躊躇いがある。隠し通せるものなら、このまま何もなかったことにしたいくらいだ。
だけどこれは、一人で抱え込むには重すぎる。
程なくして、近づいてくる足音が耳に入った。襖の前で、足音が静かに止まる。
「桜です。襖を開けてもよろしいですか?」
凛とした声が、襖の向こうから上がった。声を聞いただけなのに、もやもやとした気持ちが晴れて心が浮き立つ。
「あぁ、構わない」
「失礼致します」
襖が開き、桜さんの姿が露わになる。
いつもと変わらない従者の顔で、虹さんに恭しく頭を下げた。
「あと半刻で授業が始まります。そろそろお話を切り上げていただくようにと、黄林様から仰せつかりました」
「半刻って、まだ時間あるだろ」
虹さんがあからさまに嫌そうな顔をした。帰りたくないとごねる子供みたいだ。真面目な時との落差が本当に激しい。
「葉月様はいつも、きちんと予習復習をされてから授業に臨まれます。その時間を考えたら妥当かと思います」
「どいつもこいつも真面目なこって。もう話は終わったけど……あ、そうだ」
虹さんが立ち上がり、棚から本を一冊抜く。
再び机の前に腰を下ろすと同時に、その本をなぜか僕の前に差し出してきた。
「勤勉な葉月のことだ。子供向けの入門編だけじゃ物足りないだろ」
「え?」
「そいつは私が個人で所有していたものだ。返す必要はない」
「あの、でも……」
本を掲げた虹さんの手は、一向に動く気配がない。いまいち意図が掴めないまま、おずおずと本を受け取る。
随分と古びた本だ。『二島之歴史』と綴られた文字は、所々が掠れている。
「前と似たような内容だが、全て東語で書かれている。西語の解説付きだから、東語の勉強にも役に立つと思うよ」
「あ……」
そういえば、二島の歴史の本を返すという口実でこの部屋に来たのだ。二島の知識に疎かったら不味いだろうと、気を遣ってくれたのだろう。
「いいんですか?」
「あぁ、好きに使うといい。もう何年も前に置き去りにしたものだ。棚の中で腐らせるくらいなら、あんたにあげた方が本も喜ぶだろう」
「……ありがとうございます」
「いいってことよ。勉強、頑張りな」
「はい」
普段の笑顔を意識して、虹さんに微笑みかける。さっきまでの内容の重さを、傍らにいる桜さんに悟られないように。
それ以上に、頭の中にこびりついて離れない靄に囚われないように。
葉月たちの足音が遠ざかり、耳が痛くなるような静寂が訪れた。
『あれはお前の意思か?』
声には出さず、勝手に繋がってきた相手に問いを投げかける。
『……止めた理由については聞かないの?』
『聞く必要なんかないだろ』
理由なんて分かりきっている。黄林は必要に迫られるか、こちらから要求しない限り、心に繋げることはけしてしない。
そして今は前者だ。あいつなりに必要だと考え、独断で私の心に繋げてきた。
変化の理由を話すのを、阻止するために。
『どうして話そうとしたの? 誰が相手であろうと、天啓を受けるまで話してはならない。知ってるでしょう?』
『私が聞きたいのは、そんな決まりごとではない。あれはお前の意思なのか?』
再び問いかけるも、声はしない。
もちろん、だんまりを貫くような無作法をする女ではない。繋ぎを考えるまでもなく、黄林の声が返ってきた。
『私に意思なんてないわ』
目も当てられないほど、無感情な声だった。
『私にあるのは、巫女の意思だけよ』
『そうか』
やはりと、若干の落胆が芽生える。
同時に、仕方ないとも思った。
あの一族に生まれ落ちた時点で、黄林という人間の選択肢などないのだから。
『……ねぇ、虹さん。あなたは何を――――』
肉を焼き焦がしたような音が、耳をかすめた。
部屋の中が、再び静まり返る。
鼻をつくのは香ばしさなどではなく、髪を燃やしたような嫌な臭いだ。
分かっているとはいえ、眉をひそめずにはいられない。換気をしても意味がないので、ただ臭いが消えるのを待つしかない。
無駄に小気味いい音も、不愉快な臭いも、炭や落葉のような鋭敏な感覚をもって、やっと感じ取れるものなのだ。
焼き切った本人である、私を除いては。
「何をするつもり……だったな」
確認のために、あえて声に出してみる。
反応はない。繋がっていたものが切れたことは、これで明確になった。
「何もできないよ。今の私にはね」
呟きながら、窓の外へと目をやる。
すっかり緑に覆われた桜の上には、灰色の雲が延々と広がっている。
民衆が心躍らせる桜の姿からは、およそかけ離れたものだ。花を散らせた瞬間、桜の木であって桜の木ではなくなる。
それが本来の姿だ。花を散らすことを許されない桜など、あってはならない。
窓の外の桜に、遠い記憶となった桜の木を重ねる。あいつは花の季節が終わってもなお、その姿を変えずに咲き続けている。
得体の知れない湖の傍らで、今もずっと。
「私はただ、背中を押すだけだ」
あいつを、あそこから――――
ひときわ激しい風の音が轟き、髪を荒波のごとく乱した。思考を遮られた苛立ちを込めて、窓へと視線を投げる。
曇り空の下で、桜の木が大きく揺さぶられた。
***
湿っぽい風が吹き荒れ、髪が乱された。
反射的に髪を守るように押さえる。短くしたとはいえ、癖の強い髪なのに変わりはない。毎朝、苦労して髪を梳いているというのに。
(嵐でも来るのかな?)
庭を見ると、すっかり緑に覆われた桜の木が葉を一つ、また一つと落としていた。風が吹く度に、木の葉の擦れ合う音が木霊する。
「風が強くなってきましたので、閉めますね」
そう一言告げてから、桜さんが障子に手を掛けた。曇天の下で揺さぶられる桜の木が、障子に遮られて見えなくなる。
手伝いたい気持ちをグッと堪えて、廊下の障子を閉めていく桜さんを待つ。
二人きりとはいえ、いつ人目についてもおかしくない。だから、従者の仕事に手を出すわけにはいかないのだ。
桜さんが障子を全て閉め終えたところで、僕たちは再び歩き出した。
会話は特にない。巫女と従者という立場もあって、公の場ではいつもの調子で話せないので、二人とも必然的に口数が減る。
だけど、こうして静かに歩く時間も好きだ。
凛然と歩く彼女は綺麗で、いつまでも見ていたくなるから。
それでも、今日はこのまま見惚れているわけにはいかない。
桜さんに話しかけられる機会は、そうそう多くないのだから。
「さ――――」
「君、こうして近くで見ると可愛いじゃん」
耳の端に、場違いな言葉が入り込んだ。思わず立ち止まり、声がした方を見る。
(…………えっ!?)
廊下の曲がり角に身を隠すように、二人の若い男女が密着していた。
「はい。その……」
ゆっくりと口を開いた。できる限り、動揺を表に出さないように。
「味が、分からなくなりました」
「味?」
虹さんが目を丸めた。
「味……あぁ、なるほどね」
困惑するのかと思いきや、やけにあっさりと納得した。もしかしたら、思い当たる節があるのかもしれない。
「他には?」
「他? いえ、特に何も」
「そうか」
実に簡潔な返事だった。あまりにも簡潔すぎて、逆に不安になってくる。
「あの、驚かないんですか?」
「あぁ。私自身がよく知っているからな」
「え?」
「あんたと同じ経験をした人間を知っていると言ったが、あれは私のことだ」
「え……っ!」
まさかの返答に、驚きを隠せなかった。
同時に合点がいった。食事の席での虹さんは、異様なまでに自信に満ちていた。自分の発言に、欠片も不安を抱いていなかった。
本人の経験があるからこそ、何を言われても揺るがなかったのだ。
「虹さんも、何か変化があったんですか?」
「あぁ。私は熱を出した後、髪が赤くなった」
「え――――」
味覚がなくなるどころの話じゃない。熱を出して髪の色が変化するなんて、明らかに人の領域を超えている。
思えば、赤い髪という時点でおかしかった。
この世界の人たちの大半は黒髪で、せいぜい茶色がかった人をたまに見るくらいだ。言ってしまえば日本人と変わらない。
そして、この世界に染髪の文化はないに等しい。せいぜい、白髪が目立たないように墨で黒く染める程度だ。
だから、本来なら赤い髪なんてありえない。
初対面の時がそれどころではなかったのと、ここが異世界ということもあって、あっさりと受け入れてしまっていたけど……。
(そういえば、夜長姫も亜麻色の髪だ)
しかも、飴色にも見える茶色の瞳。
虹さんのような彫りの深い顔ではないにしろ、この世界では明らかに異質だ。
そして、赤い髪にばかり目がいって気付かなかったけど、虹さんの瞳も茶色だ。夜長姫以上に明るく、夜に紛れた狼を思わせる。琥珀色の方が近いかもしれない。
(体の変化と、何か関係が――)
「ちなみに、変化はそれで終わりじゃない」
「え?」
「体の変化は言うに及ばず、記憶にも変化が生じる。自身や周囲のことを忘れたり、逆に知らないはずのことを知っていたり……覚えはないか?」
「…………いいえ」
平静を保ったつもりが、口から出た声は、自分でも驚くほどに震えていた。
あんな変化が、まだ続くのか?
しかも、記憶って…………。
「……あの」
重く冷たい唇を、無理やりこじ開けた。
昼食で聞いた内容を、どうにか手繰り寄せる。
「確か、気を見過ぎたせいで倒れたんですよね? だったら――」
「気を見るのを避けたところで、一時しのぎにしかならないよ」
「え?」
「気を見るのは、変化を促進する要因の一つでしかない。そしてあの発作は、いわば変化の前触れだ。さっきの対処法も、あくまで発作を抑えるためにすぎない」
「えっと……?」
「変化は止められないし、また発作も起こる」
微かな望みが、潰えた。
要するに、今後どう変化しようと、僕には何もできないということだ。
「……なんで、そんな」
「黒湖に選ばれたからだ」
「え?」
話が全く見えない。
黒湖様に選ばれたから、巫女としてここにいる。そんなことはもう百も承知だ。
「厳密に言えば、黒湖が選んだ巫女から、さらに選りすぐられたということだ」
「選りすぐり……?」
「基準は定かじゃないけどな。黒湖が『こいつはこの世界に必要だ』と判断した奴だと、私個人は思っている」
「でも、なんでそれで、体や記憶に変化が……」
「それは――――」
唐突に、虹さんが口を閉ざす。
そしてなぜか、不愉快そうに眉をひそめた。
「虹さん?」
視線を合わせていないので、僕への不快感ではないのは明らかだ。それでも、目の前で眉をひそめられると落ち着かない。
虹さんが溜め息を付き、再び口を開いた。
「悪いな。この話はここまでだ」
「えっ?」
「これ以上話すと、天罰が下るみたいだからな」
「でも……」
「案ずるな。本当なら、私がこの場でわざわざ話すまでもないことだ。変化が進めば、嫌でも理解することになる」
「…………」
話すまでもないというなら、なんでわざわざ話したのだろう。しかも、途中で中断せざるを得なくなるような話を。
(……黄林さんに、止められた?)
考えられる可能性としては、それしかない。共有の力をもってすれば、虹さんの心に繋げるなんて造作もないだろう。
それに彼女は、巫女たちのまとめ役のような立ち位置にいる。他の巫女が知らない情報を、虹さんと共有していてもおかしくない。
(でも、なんで……?)
「ひとまず、再び変化が生じたら私に言うといい。愚痴くらいなら聞いてやるし、質問だって受け付ける。もっとも、答えられる範囲でだが」
「…………」
今、ここで知るべきことを考える。
話を中断したことから察するに、核心に迫るような質問は無理だろう。それなら、今の僕にとって最も重要なことを聞くしかない。
「……早速、質問してもいいですか?」
「もちろんだ」
「体の変化も、口外してはいけませんか?」
「それは構わない。私の髪もそうだが、隠し通せるものではないからな」
もっともだと思った。味覚ならまだしも、髪の色が変わったら一目瞭然だ。それこそ、髪染めでもしない限り隠しようがない。
「ただし、現時点で口外してもいいのは、自分の従者と担当の医官のみだ。昼食時の様子を見るに、混乱を招く恐れがある奴もいるからな」
「……分かりました」
味覚のことを打ち明けるのには、やっぱり躊躇いがある。隠し通せるものなら、このまま何もなかったことにしたいくらいだ。
だけどこれは、一人で抱え込むには重すぎる。
程なくして、近づいてくる足音が耳に入った。襖の前で、足音が静かに止まる。
「桜です。襖を開けてもよろしいですか?」
凛とした声が、襖の向こうから上がった。声を聞いただけなのに、もやもやとした気持ちが晴れて心が浮き立つ。
「あぁ、構わない」
「失礼致します」
襖が開き、桜さんの姿が露わになる。
いつもと変わらない従者の顔で、虹さんに恭しく頭を下げた。
「あと半刻で授業が始まります。そろそろお話を切り上げていただくようにと、黄林様から仰せつかりました」
「半刻って、まだ時間あるだろ」
虹さんがあからさまに嫌そうな顔をした。帰りたくないとごねる子供みたいだ。真面目な時との落差が本当に激しい。
「葉月様はいつも、きちんと予習復習をされてから授業に臨まれます。その時間を考えたら妥当かと思います」
「どいつもこいつも真面目なこって。もう話は終わったけど……あ、そうだ」
虹さんが立ち上がり、棚から本を一冊抜く。
再び机の前に腰を下ろすと同時に、その本をなぜか僕の前に差し出してきた。
「勤勉な葉月のことだ。子供向けの入門編だけじゃ物足りないだろ」
「え?」
「そいつは私が個人で所有していたものだ。返す必要はない」
「あの、でも……」
本を掲げた虹さんの手は、一向に動く気配がない。いまいち意図が掴めないまま、おずおずと本を受け取る。
随分と古びた本だ。『二島之歴史』と綴られた文字は、所々が掠れている。
「前と似たような内容だが、全て東語で書かれている。西語の解説付きだから、東語の勉強にも役に立つと思うよ」
「あ……」
そういえば、二島の歴史の本を返すという口実でこの部屋に来たのだ。二島の知識に疎かったら不味いだろうと、気を遣ってくれたのだろう。
「いいんですか?」
「あぁ、好きに使うといい。もう何年も前に置き去りにしたものだ。棚の中で腐らせるくらいなら、あんたにあげた方が本も喜ぶだろう」
「……ありがとうございます」
「いいってことよ。勉強、頑張りな」
「はい」
普段の笑顔を意識して、虹さんに微笑みかける。さっきまでの内容の重さを、傍らにいる桜さんに悟られないように。
それ以上に、頭の中にこびりついて離れない靄に囚われないように。
葉月たちの足音が遠ざかり、耳が痛くなるような静寂が訪れた。
『あれはお前の意思か?』
声には出さず、勝手に繋がってきた相手に問いを投げかける。
『……止めた理由については聞かないの?』
『聞く必要なんかないだろ』
理由なんて分かりきっている。黄林は必要に迫られるか、こちらから要求しない限り、心に繋げることはけしてしない。
そして今は前者だ。あいつなりに必要だと考え、独断で私の心に繋げてきた。
変化の理由を話すのを、阻止するために。
『どうして話そうとしたの? 誰が相手であろうと、天啓を受けるまで話してはならない。知ってるでしょう?』
『私が聞きたいのは、そんな決まりごとではない。あれはお前の意思なのか?』
再び問いかけるも、声はしない。
もちろん、だんまりを貫くような無作法をする女ではない。繋ぎを考えるまでもなく、黄林の声が返ってきた。
『私に意思なんてないわ』
目も当てられないほど、無感情な声だった。
『私にあるのは、巫女の意思だけよ』
『そうか』
やはりと、若干の落胆が芽生える。
同時に、仕方ないとも思った。
あの一族に生まれ落ちた時点で、黄林という人間の選択肢などないのだから。
『……ねぇ、虹さん。あなたは何を――――』
肉を焼き焦がしたような音が、耳をかすめた。
部屋の中が、再び静まり返る。
鼻をつくのは香ばしさなどではなく、髪を燃やしたような嫌な臭いだ。
分かっているとはいえ、眉をひそめずにはいられない。換気をしても意味がないので、ただ臭いが消えるのを待つしかない。
無駄に小気味いい音も、不愉快な臭いも、炭や落葉のような鋭敏な感覚をもって、やっと感じ取れるものなのだ。
焼き切った本人である、私を除いては。
「何をするつもり……だったな」
確認のために、あえて声に出してみる。
反応はない。繋がっていたものが切れたことは、これで明確になった。
「何もできないよ。今の私にはね」
呟きながら、窓の外へと目をやる。
すっかり緑に覆われた桜の上には、灰色の雲が延々と広がっている。
民衆が心躍らせる桜の姿からは、およそかけ離れたものだ。花を散らせた瞬間、桜の木であって桜の木ではなくなる。
それが本来の姿だ。花を散らすことを許されない桜など、あってはならない。
窓の外の桜に、遠い記憶となった桜の木を重ねる。あいつは花の季節が終わってもなお、その姿を変えずに咲き続けている。
得体の知れない湖の傍らで、今もずっと。
「私はただ、背中を押すだけだ」
あいつを、あそこから――――
ひときわ激しい風の音が轟き、髪を荒波のごとく乱した。思考を遮られた苛立ちを込めて、窓へと視線を投げる。
曇り空の下で、桜の木が大きく揺さぶられた。
***
湿っぽい風が吹き荒れ、髪が乱された。
反射的に髪を守るように押さえる。短くしたとはいえ、癖の強い髪なのに変わりはない。毎朝、苦労して髪を梳いているというのに。
(嵐でも来るのかな?)
庭を見ると、すっかり緑に覆われた桜の木が葉を一つ、また一つと落としていた。風が吹く度に、木の葉の擦れ合う音が木霊する。
「風が強くなってきましたので、閉めますね」
そう一言告げてから、桜さんが障子に手を掛けた。曇天の下で揺さぶられる桜の木が、障子に遮られて見えなくなる。
手伝いたい気持ちをグッと堪えて、廊下の障子を閉めていく桜さんを待つ。
二人きりとはいえ、いつ人目についてもおかしくない。だから、従者の仕事に手を出すわけにはいかないのだ。
桜さんが障子を全て閉め終えたところで、僕たちは再び歩き出した。
会話は特にない。巫女と従者という立場もあって、公の場ではいつもの調子で話せないので、二人とも必然的に口数が減る。
だけど、こうして静かに歩く時間も好きだ。
凛然と歩く彼女は綺麗で、いつまでも見ていたくなるから。
それでも、今日はこのまま見惚れているわけにはいかない。
桜さんに話しかけられる機会は、そうそう多くないのだから。
「さ――――」
「君、こうして近くで見ると可愛いじゃん」
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