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二章「動国の花」
第十三話「花曇り ーはなぐもりー」 (前編) ①
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花びらが揺らめき落ちて、水面に円を描く。
見渡す限りの桜が、僕を取り囲んでいた。眼前には、巨大な湖が広がっている。向こう岸には、桜の木々が地平線の如く並び立っていた。
(桜の花、久しぶりに見たな)
花はとっくに散ったはずなのに、不思議と違和感がなかった。咲いていることが当たり前のような気すらした。
――――ねぇ。
後ろから声がした。囁いているようなのに抑揚のある、なんとも不思議な声だ。
振り返り、息を呑んだ。
逆光のせいで顔がはっきりと見えないのに、なぜか美しい少女だと思った。
金色の彩りを纏う白い十二単が、亜麻色の髪と相まって儚げに見える。一方で、その儚げな見た目とは裏腹に、そこにいるだけで桜の木々を霞ませる存在感を放っていた。
そうだ。僕はこの少女を知っている。
なのに、どうして名前が出てこないんだろう。
――――お前は、どうしたいの?
亜麻色の長い髪が風になびき、生き物のようにうねり動いた。
見惚れて手を伸ばしたが最後、一口で頭から呑まれてしまう。綺麗な髪には、そんな不気味さが共存して――――
「葉月」
凛とした声が、少女の面影を晴らした。
目の前に、桜さんが座っている。全身に伝わってくる緩やかな振動で、馬車の中にいることを思い出した。
そうだ。今朝早く、動国の社を出発した。
今は、堅国の社に向かう道中だ。
「随分うなされてたけど、嫌な夢でも見た?」
「え?」
少し考えてみるが、何も思い出せない。
胸がざわつくような夢だった。辛うじて覚えているのはそれだけだ。
「……はっきりとは覚えてないけど、多分」
「顔色も優れないわね」
「そうですか? 熱はもう下がりましたけど」
「油断は禁物よ。二日前まで、高熱を出して寝込んでたんだから」
「はい。それはもちろん」
微笑みを返しつつ、数日前のことを思い返す。
動国で初のお披露目を終えた後のことだ。巫女のお務めを目にした興奮で眠れず、舞いながら気を見る鍛錬に励んでいた。
そして、初めて自主的に気を切った。僕もやってみたいと思ったのだ。
舞いながら気を切る、花鶯さんの姿。
刃を振るうごとに減っていく、赤い螺旋。
鮮やかな赤い桜が、桜色に戻っていく過程。
何もかもが幻想的で、息をするのも忘れてしまうほどに美しい光景だったから。
そうしたら突然、頭を貫かれたような痛みが走り、体が熱くなった。
その後の記憶は曖昧だけど、桜さんが来たら急に楽になったこと、名前を何度も呼んでくれたことは覚えている。聞いた話だと、僕はそのまま高熱を出した挙句、三日間も昏睡していたらしい。
目を覚ました後は、二日は絶対安静ということでゆっくり過ごさせてもらった。それはもう、持ってきた数少ない本を読み終えて暇になってしまうくらいに。
おかげで熱はすっかり下がったけど、倦怠感がまだあるので無茶はできない。
さらに二日は様子見ということで、その間は花鶯さんの授業も欠席することになった。最初は目まぐるしいと思った授業だけど、いざ離れるとなると少し寂しい。
「ねぇ、葉月」
「はい」
「もし何かあったら、遠慮なく言っていいのよ」
桜さんが身を乗り出した。馬車の中なので、それだけで顔が近くなる。少し手を伸ばせば、簡単に触れてしまえるほどに。
切れ長の大きな黒い瞳。その中に宿した焔。
本当に綺麗な瞳だ。冗談抜きで、この世の何よりも美しい。先日この目で見た、あの幻想的で壮大な国の気よりも……ずっと。
だけど今は、その瞳を向けられるのが怖い。
「……ありがとうございます」
僕はとっさに、お得意の笑顔を取り繕った。
「でも、今は本当に大丈夫ですよ。僕のせいで大幅に予定が狂ったでしょうし、多少はみんなに合わせないと」
「心配いらないわ。元々、有事があった際に備えて予定を組んであるから」
「そうですか。それならよかった」
「…………」
桜さんがじっと見つめてきた。
さり気なく逸らそうにも、強い瞳はけして僕を離そうとしない。ほんの少し表情筋を動かしただけで、全てを見透かされてしまいそうだ。
疑っている時の目だ。作り笑いで隠しているものを探ろうとしている。
僕が、そうさせているんだ。
「あの夜の発作」
桜さんの口から出た言葉に、心臓が敏感に反応して脈を打った。
「表向きは体調不良にしているけど、いきなりあんな発作が起こるなんて普通はありえない。明らかに、体調不良で片付けられる問題じゃないわ」
「……やっぱり、そう思いますか?」
「実際に現場を見てるしね。だからこそ、あんたに責があるとは思わない」
「えっ?」
どうやら桜さんは、僕があの夜のことで責任を感じて、必要以上に気負っていると勘違いしているらしい。もちろん、責任は感じているけど。
少なくとも、笑顔の裏を見透かされたわけではなさそうだ。
よかったと安堵する一方で、そんな自分にじわりと嫌悪感を抱いた。
「おそらく、昼食の時にそのことについて話をすると思う。考えるのも後悔するのも、それからでも遅くないわ」
「……そうですね」
ほっとしたところで、さらに薄っぺらい笑顔を重ねていく。
僕が生きる上で必要なものだったと、桜さんが肯定してくれた笑顔。
その笑顔で隠しごとをする自分に、彼女を拒む自分に、また嫌気が差した。
程なくして、馬車の揺れがゆっくりと止んだ。
簾が上がり、桜さんが先に降りる。そして、僕に手を伸ばしてきた。
最近は裾を踏んでつまずくことはあまりないけど、桜さんはいつも、降りる時にはこうして僕に手を差し伸べてくれる。
二人きりの時にだけ見せてくれる、屈託のない笑顔と共に。
「病み上がりだから、いつも以上に気を付けて」
「はい」
桜さんの指先に、そっと手を添える。
冷えた指先なのに、触れた瞬間にじんわりと温かさが伝わってきた。
部屋に案内されると、昼食までそこで待機することになった。
体調不良という手前、むやみに出歩くわけにはいかない。昼食後の授業に備えて、東字の書き写しをしていた。
あまり口にしないけど、昔から勉強は好きだ。
問題を解く時、知識を得る時は、自分が病人であることを忘れていられた。社会の一員として溶け込めているような気がした。都合の良い錯覚でしかないと、分かっていても。
今は、巫女という形で社会と繋がっている。
勉強や読書が生活の一部であることに変わりはない。違うのは、得た知識を確実に役立てられるということだ。
頑張った分だけ、誰かの役に立てる。
ただ社会にすがっていた頃には、とても考えられなかった贅沢だ。
「葉月様、お茶をお持ち致しました」
唐突に、襖の向こうから侍女の声がした。どうやら、近づいてくる足音に気付かないほど集中していたらしい。
いったん筆を止め、振り返ってから「どうぞ」と声をかけた。
侍女が襖をそっと開いて、恭しく入ってきた。「失礼致します」という一言と共に、机にそっと茶が置かれる。
「ありがとうございます」
礼を言うと、侍女がにこりと微笑んだ。
その作り慣れた笑顔を携えたまま、無駄口を一切叩くことなく「失礼致しました」と部屋を出ていった。慎ましやかな足音が遠ざかっていく。
冷めてしまっては元も子もない。
ひとまず筆を置いて、湯呑みに手を伸ばした。
湯呑みの中で、梅昆布茶がゆらりと揺れる。梅の華やかな香りが、湯気と共に鼻腔をやんわりとくすぐってきた。
息を吹きかけ、少しだけ冷ましてから、湯呑みにそっと唇を寄せる。
「…………」
こくりと、喉を鳴らす。
やっぱり味がない。香りはするのに、ただのお湯を飲んでいるみたいだ。
(酸っぱいものも駄目か)
お汁粉で異変を感じてから、それとなくいろいろ試してみた。
匂いはする。だけど口に入れた途端、食べ物ではない何かになる。それでいて食感は健在だから、違和感が半端ない。
(食事の時には、顔に出さないように気を付けないとな……)
人前での食事は、僕の体感では二日ぶりだ。
病み上がりということで、ずっと自室で食事を摂っていたけど、この後の昼食から巫女たちとの会席に復帰することになる。
そういう事情もあって、味を感じないことは、まだ誰にも言っていない。
(馬車の中でも、言えなかったな)
僕の従者かつ薬学に精通している桜さんには、味覚のことを真っ先に伝えるべきなのだろう。しかも馬車での移動中は、彼女と二人きりになれる数少ない機会だ。
だけど、結局言えなかった。
僕の体調を気にかける彼女が、妹と重なって。
(普通はありえない、か……)
薬学に精通しているからこそ、確信をもって断言できるのだろう。
僕には薬学の知識なんてないけど、一つだけ心当たりがある。
おそらく、気を見ることによる負荷だ。
体にかかる負荷については花鶯さんに教えられたし、授業後の倦怠感や頭痛で実感済みだ。だからこそ、その負荷に体を慣らすべく日常的に気を見てきたのだ。
ある程度の体調不良は覚悟していたけど、まさか、それで味覚がなくなってしまうとは夢にも思わなかった。花鶯さんからも、そんな事例は一言も聞いていない。
つまり、巫女たちにとっても予想外の事態かもしれないのだ。
だったら、巫女たちには伝える必要がある。
(…………大丈夫)
あの人たちは、桜さんとは違う。あくまでも、同志として手を取り合っているだけだ。ずっと傍にいたいわけではない。
家族と重ねてしまうことも、ないはずだ。
ふと、窓の外へ目をやる。延々と広がる曇天しか見えない。
僕は筆を取り、再び東字の書き写しに専念することにした。
***
「葉月くん、もう大丈夫なの!?」
襖が開くと同時に、立ち上がる蛍ちゃんが目に入った。他の巫女たちの視線を、蛍ちゃんが一身に集めている。
彼女の隣に座る花鶯さんから、溜め息交じりの声が上がった。
「蛍」
「あ……っ」
蛍ちゃんの頬が赤く染まる。おそらく、勢いで立ち上がってしまったのだろう。
「……あ、あの……すみませんっ」
蛍ちゃんが、涙目の林檎顔のまま腰を下ろす。
今すぐ慰めにいきたいけど、他のみんなを待たせるわけにはいかない。どうにか堪えて、自分の席へと向かった。
(心配してくれてたんだ……)
巫女たちは同志でしかないけど、気にかけてくれたことは素直に嬉しい。林檎顔の蛍ちゃんを見ている内に、自然と頬が緩んできた。
その緩んだ顔のまま、蛍ちゃんと目が合う。
蛍ちゃんが林檎顔をさらに赤くして俯いてしまい、代わりに花鶯さんに睨まれた。すみません、不謹慎でした。
「葉月君、体調の方はどう?」
改めて声をかけてきたのは、黄林さんだった。
見渡す限りの桜が、僕を取り囲んでいた。眼前には、巨大な湖が広がっている。向こう岸には、桜の木々が地平線の如く並び立っていた。
(桜の花、久しぶりに見たな)
花はとっくに散ったはずなのに、不思議と違和感がなかった。咲いていることが当たり前のような気すらした。
――――ねぇ。
後ろから声がした。囁いているようなのに抑揚のある、なんとも不思議な声だ。
振り返り、息を呑んだ。
逆光のせいで顔がはっきりと見えないのに、なぜか美しい少女だと思った。
金色の彩りを纏う白い十二単が、亜麻色の髪と相まって儚げに見える。一方で、その儚げな見た目とは裏腹に、そこにいるだけで桜の木々を霞ませる存在感を放っていた。
そうだ。僕はこの少女を知っている。
なのに、どうして名前が出てこないんだろう。
――――お前は、どうしたいの?
亜麻色の長い髪が風になびき、生き物のようにうねり動いた。
見惚れて手を伸ばしたが最後、一口で頭から呑まれてしまう。綺麗な髪には、そんな不気味さが共存して――――
「葉月」
凛とした声が、少女の面影を晴らした。
目の前に、桜さんが座っている。全身に伝わってくる緩やかな振動で、馬車の中にいることを思い出した。
そうだ。今朝早く、動国の社を出発した。
今は、堅国の社に向かう道中だ。
「随分うなされてたけど、嫌な夢でも見た?」
「え?」
少し考えてみるが、何も思い出せない。
胸がざわつくような夢だった。辛うじて覚えているのはそれだけだ。
「……はっきりとは覚えてないけど、多分」
「顔色も優れないわね」
「そうですか? 熱はもう下がりましたけど」
「油断は禁物よ。二日前まで、高熱を出して寝込んでたんだから」
「はい。それはもちろん」
微笑みを返しつつ、数日前のことを思い返す。
動国で初のお披露目を終えた後のことだ。巫女のお務めを目にした興奮で眠れず、舞いながら気を見る鍛錬に励んでいた。
そして、初めて自主的に気を切った。僕もやってみたいと思ったのだ。
舞いながら気を切る、花鶯さんの姿。
刃を振るうごとに減っていく、赤い螺旋。
鮮やかな赤い桜が、桜色に戻っていく過程。
何もかもが幻想的で、息をするのも忘れてしまうほどに美しい光景だったから。
そうしたら突然、頭を貫かれたような痛みが走り、体が熱くなった。
その後の記憶は曖昧だけど、桜さんが来たら急に楽になったこと、名前を何度も呼んでくれたことは覚えている。聞いた話だと、僕はそのまま高熱を出した挙句、三日間も昏睡していたらしい。
目を覚ました後は、二日は絶対安静ということでゆっくり過ごさせてもらった。それはもう、持ってきた数少ない本を読み終えて暇になってしまうくらいに。
おかげで熱はすっかり下がったけど、倦怠感がまだあるので無茶はできない。
さらに二日は様子見ということで、その間は花鶯さんの授業も欠席することになった。最初は目まぐるしいと思った授業だけど、いざ離れるとなると少し寂しい。
「ねぇ、葉月」
「はい」
「もし何かあったら、遠慮なく言っていいのよ」
桜さんが身を乗り出した。馬車の中なので、それだけで顔が近くなる。少し手を伸ばせば、簡単に触れてしまえるほどに。
切れ長の大きな黒い瞳。その中に宿した焔。
本当に綺麗な瞳だ。冗談抜きで、この世の何よりも美しい。先日この目で見た、あの幻想的で壮大な国の気よりも……ずっと。
だけど今は、その瞳を向けられるのが怖い。
「……ありがとうございます」
僕はとっさに、お得意の笑顔を取り繕った。
「でも、今は本当に大丈夫ですよ。僕のせいで大幅に予定が狂ったでしょうし、多少はみんなに合わせないと」
「心配いらないわ。元々、有事があった際に備えて予定を組んであるから」
「そうですか。それならよかった」
「…………」
桜さんがじっと見つめてきた。
さり気なく逸らそうにも、強い瞳はけして僕を離そうとしない。ほんの少し表情筋を動かしただけで、全てを見透かされてしまいそうだ。
疑っている時の目だ。作り笑いで隠しているものを探ろうとしている。
僕が、そうさせているんだ。
「あの夜の発作」
桜さんの口から出た言葉に、心臓が敏感に反応して脈を打った。
「表向きは体調不良にしているけど、いきなりあんな発作が起こるなんて普通はありえない。明らかに、体調不良で片付けられる問題じゃないわ」
「……やっぱり、そう思いますか?」
「実際に現場を見てるしね。だからこそ、あんたに責があるとは思わない」
「えっ?」
どうやら桜さんは、僕があの夜のことで責任を感じて、必要以上に気負っていると勘違いしているらしい。もちろん、責任は感じているけど。
少なくとも、笑顔の裏を見透かされたわけではなさそうだ。
よかったと安堵する一方で、そんな自分にじわりと嫌悪感を抱いた。
「おそらく、昼食の時にそのことについて話をすると思う。考えるのも後悔するのも、それからでも遅くないわ」
「……そうですね」
ほっとしたところで、さらに薄っぺらい笑顔を重ねていく。
僕が生きる上で必要なものだったと、桜さんが肯定してくれた笑顔。
その笑顔で隠しごとをする自分に、彼女を拒む自分に、また嫌気が差した。
程なくして、馬車の揺れがゆっくりと止んだ。
簾が上がり、桜さんが先に降りる。そして、僕に手を伸ばしてきた。
最近は裾を踏んでつまずくことはあまりないけど、桜さんはいつも、降りる時にはこうして僕に手を差し伸べてくれる。
二人きりの時にだけ見せてくれる、屈託のない笑顔と共に。
「病み上がりだから、いつも以上に気を付けて」
「はい」
桜さんの指先に、そっと手を添える。
冷えた指先なのに、触れた瞬間にじんわりと温かさが伝わってきた。
部屋に案内されると、昼食までそこで待機することになった。
体調不良という手前、むやみに出歩くわけにはいかない。昼食後の授業に備えて、東字の書き写しをしていた。
あまり口にしないけど、昔から勉強は好きだ。
問題を解く時、知識を得る時は、自分が病人であることを忘れていられた。社会の一員として溶け込めているような気がした。都合の良い錯覚でしかないと、分かっていても。
今は、巫女という形で社会と繋がっている。
勉強や読書が生活の一部であることに変わりはない。違うのは、得た知識を確実に役立てられるということだ。
頑張った分だけ、誰かの役に立てる。
ただ社会にすがっていた頃には、とても考えられなかった贅沢だ。
「葉月様、お茶をお持ち致しました」
唐突に、襖の向こうから侍女の声がした。どうやら、近づいてくる足音に気付かないほど集中していたらしい。
いったん筆を止め、振り返ってから「どうぞ」と声をかけた。
侍女が襖をそっと開いて、恭しく入ってきた。「失礼致します」という一言と共に、机にそっと茶が置かれる。
「ありがとうございます」
礼を言うと、侍女がにこりと微笑んだ。
その作り慣れた笑顔を携えたまま、無駄口を一切叩くことなく「失礼致しました」と部屋を出ていった。慎ましやかな足音が遠ざかっていく。
冷めてしまっては元も子もない。
ひとまず筆を置いて、湯呑みに手を伸ばした。
湯呑みの中で、梅昆布茶がゆらりと揺れる。梅の華やかな香りが、湯気と共に鼻腔をやんわりとくすぐってきた。
息を吹きかけ、少しだけ冷ましてから、湯呑みにそっと唇を寄せる。
「…………」
こくりと、喉を鳴らす。
やっぱり味がない。香りはするのに、ただのお湯を飲んでいるみたいだ。
(酸っぱいものも駄目か)
お汁粉で異変を感じてから、それとなくいろいろ試してみた。
匂いはする。だけど口に入れた途端、食べ物ではない何かになる。それでいて食感は健在だから、違和感が半端ない。
(食事の時には、顔に出さないように気を付けないとな……)
人前での食事は、僕の体感では二日ぶりだ。
病み上がりということで、ずっと自室で食事を摂っていたけど、この後の昼食から巫女たちとの会席に復帰することになる。
そういう事情もあって、味を感じないことは、まだ誰にも言っていない。
(馬車の中でも、言えなかったな)
僕の従者かつ薬学に精通している桜さんには、味覚のことを真っ先に伝えるべきなのだろう。しかも馬車での移動中は、彼女と二人きりになれる数少ない機会だ。
だけど、結局言えなかった。
僕の体調を気にかける彼女が、妹と重なって。
(普通はありえない、か……)
薬学に精通しているからこそ、確信をもって断言できるのだろう。
僕には薬学の知識なんてないけど、一つだけ心当たりがある。
おそらく、気を見ることによる負荷だ。
体にかかる負荷については花鶯さんに教えられたし、授業後の倦怠感や頭痛で実感済みだ。だからこそ、その負荷に体を慣らすべく日常的に気を見てきたのだ。
ある程度の体調不良は覚悟していたけど、まさか、それで味覚がなくなってしまうとは夢にも思わなかった。花鶯さんからも、そんな事例は一言も聞いていない。
つまり、巫女たちにとっても予想外の事態かもしれないのだ。
だったら、巫女たちには伝える必要がある。
(…………大丈夫)
あの人たちは、桜さんとは違う。あくまでも、同志として手を取り合っているだけだ。ずっと傍にいたいわけではない。
家族と重ねてしまうことも、ないはずだ。
ふと、窓の外へ目をやる。延々と広がる曇天しか見えない。
僕は筆を取り、再び東字の書き写しに専念することにした。
***
「葉月くん、もう大丈夫なの!?」
襖が開くと同時に、立ち上がる蛍ちゃんが目に入った。他の巫女たちの視線を、蛍ちゃんが一身に集めている。
彼女の隣に座る花鶯さんから、溜め息交じりの声が上がった。
「蛍」
「あ……っ」
蛍ちゃんの頬が赤く染まる。おそらく、勢いで立ち上がってしまったのだろう。
「……あ、あの……すみませんっ」
蛍ちゃんが、涙目の林檎顔のまま腰を下ろす。
今すぐ慰めにいきたいけど、他のみんなを待たせるわけにはいかない。どうにか堪えて、自分の席へと向かった。
(心配してくれてたんだ……)
巫女たちは同志でしかないけど、気にかけてくれたことは素直に嬉しい。林檎顔の蛍ちゃんを見ている内に、自然と頬が緩んできた。
その緩んだ顔のまま、蛍ちゃんと目が合う。
蛍ちゃんが林檎顔をさらに赤くして俯いてしまい、代わりに花鶯さんに睨まれた。すみません、不謹慎でした。
「葉月君、体調の方はどう?」
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