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一章「旅立ちの花」
第五話「花の宴 ーはなのえんー」 (後編) ④
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殺される瞬間、夜長姫は向けられたはずだ。
今しがた見せた、あの顔を。
あの顔を向けられたら、頭が真っ白になって、心が真っ黒になる。自分の中にある全てを焼き尽くされてしまって、何も考えられなくなる。
だけど夜長姫は、むしろ感動したという。
(…………狂ってる)
その光景を思い浮かべて、戦慄が走った。
悪鬼のような顔で滅多刺しにする桜さんにではなく、笑顔で刺される夜長姫に。
僅か十歳で鬼狩りを起こし、怨嗟も殺意も意に介さず、無邪気に笑える少女。
今なら、分かる。夜長姫が鬼だと言われるのは、夜長姫に似ている僕が鬼だと迫害されるのは、当然のことだ。
桜さんは、そんな人を恨み続けたのか。
恐怖に屈することなく、周囲を欺いて、殺意を研ぎ澄ませ続けてきたのか。
ずっと――独りで。
「姉さんは、いつも言っていたわ。命というのは尊いものだって。どんな人にだって、死んだら悲しむ人がいるって」
「それは……」
否定したかったけど、できなかった。
だって、知ってしまったから。
その鬼のような姫の死を、狂ってしまうほどに悲しむ人間の存在を。
「私は、自分を好きだと慕う人間を殺したのよ」
「いや、でも、それは」
「どんな事情があろうとも、私は最低の人殺しで、最低の鬼よ」
(……なんて、言えばいいんだろう)
桜さんは、責めてほしいのだろうか。だけど、僕にはとても責められない。かといって肯定するのも、違う気がする。
「ねぇ、葉月。従者にするということは、ずっと傍に置くことになるのよ。たとえそれが、どんな人間であったとしてもね」
「え?」
「私のことはまだ取り返しがつくわ。あんたが責められるようなことは何もない。本当なら、とっくにこの首は胴から離れているのだから」
「桜さん……?」
「私のことは、今からでも切り捨てられる」
あの時見たのと同じ笑顔で、桜さんは言った。
美しいのに、寂しさと切なさが入り混じった、泣きたくなるような笑顔で。
(あぁ、そうか)
今さらのように分かった。
最初から、この人は僕を、自分から引き離すつもりだったんだ。
ずっと、独りで生きていくつもりだったんだ。
誰にも頼らず、
誰にも寄り添わず、
自分の罪だけを背負い続けて。
「……僕は、桜さんじゃないです」
桜さんの目が点になった。
当然だろう。自分でも、何を言っているんだろうと呆れるレベルだ。
「だから、桜さんがどうするべきだったかは、僕には分からないです。もちろん殺人は罪ですけど、必ずしも間違いなのかというと……」
「間違いよ。受け入れられるべきじゃない」
「ですよね。だけど……」
やっぱり、桜さんは正しい。言葉一つ一つに迷いがなくて、説得力がある。そんな彼女だから、自分の罪を真っ直ぐに受け止めるのだろう。
それでも――いや、だからこそ。
僕の気持ちは、変わらなかった。
「僕は、桜さんの隣にいたい。何があっても」
桜さんが、目を見開いた。
目力のある桜さんだけど、その目は震えているようで、少しも怖くなかった。
「間違いとか、正しいとか、そういうの関係なしに傍にいたいんです。僕は、桜さんを独りにしたくないんです」
「……なんで、そこまで」
「桜さんの笑顔、時々寂しそうだから」
桜さんが、訝しげに目を細めた。
多分、本人には自覚がない。本当の気持ちには、案外気付かないものだから。
「僕、昔から人の表情に……笑顔に敏感なんです。その人が本当に心から笑っているのかどうか、分かるんです。何があっても、ちゃんと笑っていられるように……毎日、鏡の前で笑顔の練習をしてるから」
桜さんが目を丸めた。
どことなく驚いているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。
「怖かったんです。家族の泣き顔とか、怒っている顔が。僕のせいで、空気が重くなったりするのとかも怖くて……だから、人の笑顔にも敏感になったのかな」
「……優しいのね」
「いえ、全然。だって、自分のためですから」
「え?」
「よくそう言われるけど、結局は自分のためなんです。傍にいたいのも、僕が桜さんに寂しい顔をしてほしくない。笑ってほしい……それだけなんです。だから、桜さんが気負いすることなんて何もないんですよ」
話を一通り終えたところで、僕は我に返った。
もしかして、話し過ぎてしまっただろうか。いきなり僕の特技の話をされたって、反応に困るだけではないだろうか。
恐る恐る、桜さんの顔色を窺う。
桜さんの顔は、穏やかだった。
先ほど悪鬼のような顔をしたことが、何もかも嘘だったかのように。
「……私の姉さんも、そうだったわ」
「え?」
「姉さんも、よく鏡の前で笑ってた。朝晩どころか、鏡さえあればいつでもね。私には意味が分からなくて、なんでそんなことをするのか聞いたら、今のあんたと似たようなことを言ってたわ。笑顔でいないと、怖いんだって」
思わず、息を飲んだ。
笑顔でいることは、自分を守る術だった。笑顔でいるためなら何でもした。常に笑顔でいないと、怖くて仕方なかった。
僕以外にもいたんだ。そんな人が。
「あんた、本当に姉さんとよく似てるわ。周りを気にして、しょっちゅう作り笑いをするところなんか……特にね」
(作り笑い、か)
出会った時、桜さんは僕の笑顔をあっさりと受け入れてくれた。ずっと嫌いで仕方なかった、作り笑いも含めて。
『笑顔を絶やさず、病気と闘って生き抜いたんでしょう? その人生を、自分で暗いと切り捨てるべきではないわ』
『あんたが生きていく上で、必要なものだったんでしょう?』
ただのお世辞だったとしても、深い意味のない言葉だったとしても、そう言ってもらえたこと自体が嬉しかった。
そして今、あれは心からの言葉だって分かって、ますます嬉しい。
「……正直、最初は警戒したわ。あまりにも、夜長姫とそっくりだったから」
夜長姫の名前が再び出てきて、反射的に体が少し強張った。
そういえば、初めて見た桜さんはちょっと怖い顔をしていた気がする。
「でも、あんたと話をして、確信したわ。あんたは夜長姫でもなんでもない。『山根葉月』という一人の人間だって」
(名前、覚えててくれたんだ……)
「その葉月が、他でもない葉月自身が望んでくれるというのなら……分かった」
「え?」
「傍にいるわ。従者として」
「本当ですかっ!?」
「もちろん」
桜さんが、手を差し出してきた。
「よろしくね、葉月」
「はい」
差し出された手を、そっと、握った。温かい。
(あ…………っ)
視界が、急に滲んだ。
「葉月?」
「すみません……」
気が付いた時にはもう、遅かった。
目から溢れる雫が、みっともなく落ちていく。寝台に、桜さんの手に。
(あぁ、そうか……)
一人にしたくないと思っていた。寂しい思いをさせたくないと思っていた。だけど違った。そんな綺麗な感情じゃなかった。
僕が、桜さんに傍にいてほしいんだ。
「……すみませ……手、汚し……う……」
慌てて離れようとしたけど、その手にしっかりと掴まれてしまった。みっともない涙が、桜さんの手に絶えず落ちていく。
強い瞳が、僕を捉える。
目を逸らすことすら許さず、真っ直ぐに。
「一つだけ、約束してくれる?」
鼻水が出そうになったので、頷くだけでもう精一杯だった。
「人の気持ちというのは、月日の流れで移り変わるもの。今のあんたの気持ちが変わる可能性も充分あるし、それはけして悪いことじゃないわ」
「…………はい」
「だから、もし私から離れたくなったら、躊躇わずに実行すればいい」
「はい……って、えっ?」
「約束して。何よりも、自分を優先すると」
桜さんの手が、僕の手を強く握りしめる。
「お願い」
「……分かり、ました」
「ありがとう」
(あ――――)
桜さんが、笑った。ずっと前から見たかった、心からの笑顔だ。
この世界で初めて見た桜吹雪なんか比じゃないほど美しくて、僕の顔をはっきりと映したあの川よりも澄んでいて、太陽のように温かい。
大粒の涙が、また目から溢れ出した。
「えっ? ちょっと、葉月?」
「すみません」
ずっと笑顔を作ることに腐心してきたくせに、僕はこの瞬間まで知らなかった。
人の笑顔で、涙が止まらなくなるなんて。
***
扉を閉める音が、やけに空虚に響いた。
あの後、私は目を真っ赤にした葉月を部屋まで送った。終始、鼻をすすりながら謝ってばかりだったから、侍女が通りかかった時は少し恥ずかしかった。葉月はそれどころではなかったから、何も言わなかったけど。
(明日、起きたら目が腫れてるだろうな……)
医務室に居なくていいのかと心配されたが、治療なんてとっくに終わっている。虹姫と二人きりで話すのに、あそこに居残っていただけだ。
(本当に、静かだ)
静かすぎて、右も左も分からないような錯覚に陥りそうになる。
そう感じた自分に少し驚いた。静寂なんて、もう慣れきったはずなのに。
(……あぁ、そうか。最近は、ずっと葉月と一緒だったから)
じっと、己の手を見つめる。
どんなに洗い流しても、この手は血にまみれたままだ。これからも、ずっと。
だというのに、血で汚れたこの手を、葉月は躊躇なく握り返した。それがどんなに嬉しかったことか、おそらく彼は知らない。
『葉月について、教えておきたいことがある』
先ほど、虹姫と話していたことを思い返す。
『ただし、本人は現時点で知る由もないし、言っても分からないだろう。まぁ、その辺りはあんたの判断に任せるけど』
『もったいぶらないで早く教えて』
『せっかちなのは相変わらずだな。じゃあ、ちょっと耳貸して』
『は?』
『他の奴の耳に入るのは、不味いと思うよ?』
私は訝しく思いつつ、大人しく耳を貸した。
そして、全身が凍り付いた。
『……それは、確かなの?』
『私の経験からして、間違いないよ』
目の前が、暗くなっていく。座っているのに、足元が覚束ない。
私は強く唇を噛みしめた。自分を保つためだ。少し、血の味がした。
『なぜ、私に……?』
『もちろん、あんただからだよ。それとも、知りたくなかった?』
『……いいえ』
『それを聞いて安心した』
(白々しい)
言葉とは裏腹にのらりくらりとした虹姫に、若干の苛立ちを覚える。私と同類のこいつなら、言われなくても分かることだ。
『後は、あんた次第だよ。煮るなり焼くなり、好きにするといい』
『……あんたはそれでいいの?』
『何が?』
『あんたは仮にも一国の巫女よ。場合によっては、あんたも重罪人になるけど』
『私が、一国の巫女として教えたとでも?』
答えるまでもなかった。
それを分かっている虹姫も、返答を待つことなく言葉を続けた。
『私はただ、何も知らないよりは良いと思っただけだよ。残酷な事実だろうとね』
『……どうだか』
(あの後、葉月が聞き耳を立てていたと知って肝が冷えたけど……)
おそらく、虹姫との会話は聞いていない。そのことに少し安堵した。
虹姫は、何も知らないよりはましだと言った。私も同意見だ。
だけど、彼がそうだとは限らない。彼は苦しいほどに優しくて、温かくて、繊細だ。姉さんが、そうだったように。
少なくとも、今、彼に教えるべきではない。
いや、いっそ知らないままの方がいいだろう。
葉月が、夜長姫に侵されていることなど。
『もし、夜長が蘇るなんてことがあったら……あんたはどうする?』
血で汚れた手を、強く握りしめた。
迷いなく私の手をとった温かなぬくもりを、しっかりと噛みしめて。
(私には、責任がある)
葉月がそんなことになったのは、私が夜長姫を殺したからだ。
殺したこと自体に、後悔はない。
初めから覚悟していたからだ。自分はもちろん、他人にも犠牲を強いることを。
だからこそ、こんな形で、中途半端に終わらせるわけにはいかない。
今の私にあるのは、殺した責任と、終わらせる義務だけだ。
もし、あの女が蘇るなんてことがあったら、何が起こるか分からない。七年前の……いや、それ以上のことが起きるかもしれない。
(起こすわけにはいかない。姉さんのような犠牲は、もう……!)
ふと、頭を過った。
私の傍にいたいと言った時の、必死な顔が。
私の手を握って、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった顔が。
涙で濡れた、溢れんばかりに優しい笑顔が。
「……大丈夫」
彼には、約束してもらった。いざという時は、自分を最優先にすると。
だから、大丈夫。ちゃんと自分を守るはずだ。
私も、いざという時は躊躇わない。無駄に苦しめてしまうだけだから。
(大丈夫……夜長姫の時だって、私は上手くやったのだから)
昔の私とは違う。
私はもう『この体質』を飼い慣らしている。完璧に制御できる。
だからこそ、『黒湖様の加護』を打ち消して、巫女を殺せたのだから。
今しがた見せた、あの顔を。
あの顔を向けられたら、頭が真っ白になって、心が真っ黒になる。自分の中にある全てを焼き尽くされてしまって、何も考えられなくなる。
だけど夜長姫は、むしろ感動したという。
(…………狂ってる)
その光景を思い浮かべて、戦慄が走った。
悪鬼のような顔で滅多刺しにする桜さんにではなく、笑顔で刺される夜長姫に。
僅か十歳で鬼狩りを起こし、怨嗟も殺意も意に介さず、無邪気に笑える少女。
今なら、分かる。夜長姫が鬼だと言われるのは、夜長姫に似ている僕が鬼だと迫害されるのは、当然のことだ。
桜さんは、そんな人を恨み続けたのか。
恐怖に屈することなく、周囲を欺いて、殺意を研ぎ澄ませ続けてきたのか。
ずっと――独りで。
「姉さんは、いつも言っていたわ。命というのは尊いものだって。どんな人にだって、死んだら悲しむ人がいるって」
「それは……」
否定したかったけど、できなかった。
だって、知ってしまったから。
その鬼のような姫の死を、狂ってしまうほどに悲しむ人間の存在を。
「私は、自分を好きだと慕う人間を殺したのよ」
「いや、でも、それは」
「どんな事情があろうとも、私は最低の人殺しで、最低の鬼よ」
(……なんて、言えばいいんだろう)
桜さんは、責めてほしいのだろうか。だけど、僕にはとても責められない。かといって肯定するのも、違う気がする。
「ねぇ、葉月。従者にするということは、ずっと傍に置くことになるのよ。たとえそれが、どんな人間であったとしてもね」
「え?」
「私のことはまだ取り返しがつくわ。あんたが責められるようなことは何もない。本当なら、とっくにこの首は胴から離れているのだから」
「桜さん……?」
「私のことは、今からでも切り捨てられる」
あの時見たのと同じ笑顔で、桜さんは言った。
美しいのに、寂しさと切なさが入り混じった、泣きたくなるような笑顔で。
(あぁ、そうか)
今さらのように分かった。
最初から、この人は僕を、自分から引き離すつもりだったんだ。
ずっと、独りで生きていくつもりだったんだ。
誰にも頼らず、
誰にも寄り添わず、
自分の罪だけを背負い続けて。
「……僕は、桜さんじゃないです」
桜さんの目が点になった。
当然だろう。自分でも、何を言っているんだろうと呆れるレベルだ。
「だから、桜さんがどうするべきだったかは、僕には分からないです。もちろん殺人は罪ですけど、必ずしも間違いなのかというと……」
「間違いよ。受け入れられるべきじゃない」
「ですよね。だけど……」
やっぱり、桜さんは正しい。言葉一つ一つに迷いがなくて、説得力がある。そんな彼女だから、自分の罪を真っ直ぐに受け止めるのだろう。
それでも――いや、だからこそ。
僕の気持ちは、変わらなかった。
「僕は、桜さんの隣にいたい。何があっても」
桜さんが、目を見開いた。
目力のある桜さんだけど、その目は震えているようで、少しも怖くなかった。
「間違いとか、正しいとか、そういうの関係なしに傍にいたいんです。僕は、桜さんを独りにしたくないんです」
「……なんで、そこまで」
「桜さんの笑顔、時々寂しそうだから」
桜さんが、訝しげに目を細めた。
多分、本人には自覚がない。本当の気持ちには、案外気付かないものだから。
「僕、昔から人の表情に……笑顔に敏感なんです。その人が本当に心から笑っているのかどうか、分かるんです。何があっても、ちゃんと笑っていられるように……毎日、鏡の前で笑顔の練習をしてるから」
桜さんが目を丸めた。
どことなく驚いているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。
「怖かったんです。家族の泣き顔とか、怒っている顔が。僕のせいで、空気が重くなったりするのとかも怖くて……だから、人の笑顔にも敏感になったのかな」
「……優しいのね」
「いえ、全然。だって、自分のためですから」
「え?」
「よくそう言われるけど、結局は自分のためなんです。傍にいたいのも、僕が桜さんに寂しい顔をしてほしくない。笑ってほしい……それだけなんです。だから、桜さんが気負いすることなんて何もないんですよ」
話を一通り終えたところで、僕は我に返った。
もしかして、話し過ぎてしまっただろうか。いきなり僕の特技の話をされたって、反応に困るだけではないだろうか。
恐る恐る、桜さんの顔色を窺う。
桜さんの顔は、穏やかだった。
先ほど悪鬼のような顔をしたことが、何もかも嘘だったかのように。
「……私の姉さんも、そうだったわ」
「え?」
「姉さんも、よく鏡の前で笑ってた。朝晩どころか、鏡さえあればいつでもね。私には意味が分からなくて、なんでそんなことをするのか聞いたら、今のあんたと似たようなことを言ってたわ。笑顔でいないと、怖いんだって」
思わず、息を飲んだ。
笑顔でいることは、自分を守る術だった。笑顔でいるためなら何でもした。常に笑顔でいないと、怖くて仕方なかった。
僕以外にもいたんだ。そんな人が。
「あんた、本当に姉さんとよく似てるわ。周りを気にして、しょっちゅう作り笑いをするところなんか……特にね」
(作り笑い、か)
出会った時、桜さんは僕の笑顔をあっさりと受け入れてくれた。ずっと嫌いで仕方なかった、作り笑いも含めて。
『笑顔を絶やさず、病気と闘って生き抜いたんでしょう? その人生を、自分で暗いと切り捨てるべきではないわ』
『あんたが生きていく上で、必要なものだったんでしょう?』
ただのお世辞だったとしても、深い意味のない言葉だったとしても、そう言ってもらえたこと自体が嬉しかった。
そして今、あれは心からの言葉だって分かって、ますます嬉しい。
「……正直、最初は警戒したわ。あまりにも、夜長姫とそっくりだったから」
夜長姫の名前が再び出てきて、反射的に体が少し強張った。
そういえば、初めて見た桜さんはちょっと怖い顔をしていた気がする。
「でも、あんたと話をして、確信したわ。あんたは夜長姫でもなんでもない。『山根葉月』という一人の人間だって」
(名前、覚えててくれたんだ……)
「その葉月が、他でもない葉月自身が望んでくれるというのなら……分かった」
「え?」
「傍にいるわ。従者として」
「本当ですかっ!?」
「もちろん」
桜さんが、手を差し出してきた。
「よろしくね、葉月」
「はい」
差し出された手を、そっと、握った。温かい。
(あ…………っ)
視界が、急に滲んだ。
「葉月?」
「すみません……」
気が付いた時にはもう、遅かった。
目から溢れる雫が、みっともなく落ちていく。寝台に、桜さんの手に。
(あぁ、そうか……)
一人にしたくないと思っていた。寂しい思いをさせたくないと思っていた。だけど違った。そんな綺麗な感情じゃなかった。
僕が、桜さんに傍にいてほしいんだ。
「……すみませ……手、汚し……う……」
慌てて離れようとしたけど、その手にしっかりと掴まれてしまった。みっともない涙が、桜さんの手に絶えず落ちていく。
強い瞳が、僕を捉える。
目を逸らすことすら許さず、真っ直ぐに。
「一つだけ、約束してくれる?」
鼻水が出そうになったので、頷くだけでもう精一杯だった。
「人の気持ちというのは、月日の流れで移り変わるもの。今のあんたの気持ちが変わる可能性も充分あるし、それはけして悪いことじゃないわ」
「…………はい」
「だから、もし私から離れたくなったら、躊躇わずに実行すればいい」
「はい……って、えっ?」
「約束して。何よりも、自分を優先すると」
桜さんの手が、僕の手を強く握りしめる。
「お願い」
「……分かり、ました」
「ありがとう」
(あ――――)
桜さんが、笑った。ずっと前から見たかった、心からの笑顔だ。
この世界で初めて見た桜吹雪なんか比じゃないほど美しくて、僕の顔をはっきりと映したあの川よりも澄んでいて、太陽のように温かい。
大粒の涙が、また目から溢れ出した。
「えっ? ちょっと、葉月?」
「すみません」
ずっと笑顔を作ることに腐心してきたくせに、僕はこの瞬間まで知らなかった。
人の笑顔で、涙が止まらなくなるなんて。
***
扉を閉める音が、やけに空虚に響いた。
あの後、私は目を真っ赤にした葉月を部屋まで送った。終始、鼻をすすりながら謝ってばかりだったから、侍女が通りかかった時は少し恥ずかしかった。葉月はそれどころではなかったから、何も言わなかったけど。
(明日、起きたら目が腫れてるだろうな……)
医務室に居なくていいのかと心配されたが、治療なんてとっくに終わっている。虹姫と二人きりで話すのに、あそこに居残っていただけだ。
(本当に、静かだ)
静かすぎて、右も左も分からないような錯覚に陥りそうになる。
そう感じた自分に少し驚いた。静寂なんて、もう慣れきったはずなのに。
(……あぁ、そうか。最近は、ずっと葉月と一緒だったから)
じっと、己の手を見つめる。
どんなに洗い流しても、この手は血にまみれたままだ。これからも、ずっと。
だというのに、血で汚れたこの手を、葉月は躊躇なく握り返した。それがどんなに嬉しかったことか、おそらく彼は知らない。
『葉月について、教えておきたいことがある』
先ほど、虹姫と話していたことを思い返す。
『ただし、本人は現時点で知る由もないし、言っても分からないだろう。まぁ、その辺りはあんたの判断に任せるけど』
『もったいぶらないで早く教えて』
『せっかちなのは相変わらずだな。じゃあ、ちょっと耳貸して』
『は?』
『他の奴の耳に入るのは、不味いと思うよ?』
私は訝しく思いつつ、大人しく耳を貸した。
そして、全身が凍り付いた。
『……それは、確かなの?』
『私の経験からして、間違いないよ』
目の前が、暗くなっていく。座っているのに、足元が覚束ない。
私は強く唇を噛みしめた。自分を保つためだ。少し、血の味がした。
『なぜ、私に……?』
『もちろん、あんただからだよ。それとも、知りたくなかった?』
『……いいえ』
『それを聞いて安心した』
(白々しい)
言葉とは裏腹にのらりくらりとした虹姫に、若干の苛立ちを覚える。私と同類のこいつなら、言われなくても分かることだ。
『後は、あんた次第だよ。煮るなり焼くなり、好きにするといい』
『……あんたはそれでいいの?』
『何が?』
『あんたは仮にも一国の巫女よ。場合によっては、あんたも重罪人になるけど』
『私が、一国の巫女として教えたとでも?』
答えるまでもなかった。
それを分かっている虹姫も、返答を待つことなく言葉を続けた。
『私はただ、何も知らないよりは良いと思っただけだよ。残酷な事実だろうとね』
『……どうだか』
(あの後、葉月が聞き耳を立てていたと知って肝が冷えたけど……)
おそらく、虹姫との会話は聞いていない。そのことに少し安堵した。
虹姫は、何も知らないよりはましだと言った。私も同意見だ。
だけど、彼がそうだとは限らない。彼は苦しいほどに優しくて、温かくて、繊細だ。姉さんが、そうだったように。
少なくとも、今、彼に教えるべきではない。
いや、いっそ知らないままの方がいいだろう。
葉月が、夜長姫に侵されていることなど。
『もし、夜長が蘇るなんてことがあったら……あんたはどうする?』
血で汚れた手を、強く握りしめた。
迷いなく私の手をとった温かなぬくもりを、しっかりと噛みしめて。
(私には、責任がある)
葉月がそんなことになったのは、私が夜長姫を殺したからだ。
殺したこと自体に、後悔はない。
初めから覚悟していたからだ。自分はもちろん、他人にも犠牲を強いることを。
だからこそ、こんな形で、中途半端に終わらせるわけにはいかない。
今の私にあるのは、殺した責任と、終わらせる義務だけだ。
もし、あの女が蘇るなんてことがあったら、何が起こるか分からない。七年前の……いや、それ以上のことが起きるかもしれない。
(起こすわけにはいかない。姉さんのような犠牲は、もう……!)
ふと、頭を過った。
私の傍にいたいと言った時の、必死な顔が。
私の手を握って、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった顔が。
涙で濡れた、溢れんばかりに優しい笑顔が。
「……大丈夫」
彼には、約束してもらった。いざという時は、自分を最優先にすると。
だから、大丈夫。ちゃんと自分を守るはずだ。
私も、いざという時は躊躇わない。無駄に苦しめてしまうだけだから。
(大丈夫……夜長姫の時だって、私は上手くやったのだから)
昔の私とは違う。
私はもう『この体質』を飼い慣らしている。完璧に制御できる。
だからこそ、『黒湖様の加護』を打ち消して、巫女を殺せたのだから。
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