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「震災の日常」フリーになって10年。
しおりを挟む仕事は「建築デザイナー」を名乗っている。
具体的には、オフィス、テナントの設計だ。・・・施工まで責任を持つ。
都内でも被害にあった顧客は多い。
東京中を走り回っていた・・・いや、東京だけじゃない。関東中を走り回っていた。
「フリー」になって10年が経つ。
ボクはごく普通のサラリーマンだった。可もなく不可もない・・・いや、不可の方が多い人間だろう。
人間関係が苦手だ。
高校を卒業して大手のゼネコンに就職した。・・・・不景気ではなかったので、大手に就職できただけだ。
ボクの仕事は「施工管理」だった。
・・・・いわゆる「現場監督」といったやつだ。
ゼネコンでは、大きな建物を設計、施工する。
設計は大学卒の一級建築士が担当する。
それの施工現場を管理するのが「高卒」であるボクたちの仕事だ。
いわゆる3K・・・・キツイ、キタナイ、キケンと呼ばれる現場がボクの職場だ。
工業高校の建築科を卒業した。2級建築士の資格は持っている。
もちろん「設計」の仕事をしたいという希望はあった。
しかし、ゼネコンでは、高卒では・・・1級建築士の資格がなければ設計部門には配属されなかった。
それで「現場監督」になった。
荒くれ男たちを、なだめ、すかし、酒を飲んで現場を円滑にして、納期を守って竣工させる。それがボクたちの仕事だ。
・・・・・ところが、意外と向いていた。
もともと人間関係は得意じゃない。
しかし、現場の職人たちの、腹を割ったストレートな人間関係・・・・腹芸を必要としない人間関係はボクには向いていたようだ。
・・・そして半人前の時に「阪神淡路大震災」が発生。現場責任者として被災地に送り込まれた。
復旧作業を終えた時には、いっぱしの「現場監督」になっていた。
・・・そんな時に、1級建築士の桐原先輩が独立。
一緒にやろうと誘われた。
会社には目に見えない壁があった。
「設計」と「現場」では、目に見えない壁があった。
もとより、それは
「大学卒」と「高校卒」の壁でもある。
社内で唯一、その垣根を超えて可愛がってくれたのが桐原先輩だった。
設計組3人。ボクを含めた現場組3人とで独立した。
仕事は建物の設計。・・・・設計事務所ということになる。
建物を設計。施工は外部の提携工務店などに発注・・・その施工管理がボクたち「現場組」の仕事だった。それまでのゼネコン時代と仕事内容は変わらない。
大手ゼネコンの仕事はビジネスライクだ。
大型のオフィスビル。橋。プラント建設・・・・建物はコンクリートの塊。プラントは鉄の塊。無機質でしかない。
「血の通った」コンクリート建物の仕事がしたい。
それが、桐原先輩の独立趣旨だった。
・・・・「血の通った」コンクリート建物・・・・
コンクリート建築でも、住宅には「血の通った」温かさが求められる・・・・「血の通った」設計が求められる。・・・マンションってことだ。
マンションには独自の難しさ、ノウハウがあり、だからマンションデベロッパーというひとつの確立したジャンルであって、多くの専門メーカー、多くの企業が存在する。
そこに新規参入するには莫大な資金が必要になってくる。多大なリスクを覚悟しなければならない。
・・・しかし、住宅ではなくとも「血の通った」建物はある。
公共施設の図書館や、学校関係、医療現場・・・・意外と「血の通った」・・・温かさの必要なコンクリート建築はある。
大きなビルはゼネコンがやる。
マンションは専門デベロッパーがやる。
地域の住宅は町の工務店がやる。
そのどこもが専業とはしない、できない「血の通った」温かさの必要なコンクリート建物・・・
見事なニッチマーケットだった。見事にハマった。
最初は、設計して、施工は地元の工務店などに発注していた。
しかし、社外に発注すれば、そこでコストが発生する。
発注先の利益が必要になるからだ。
・・・・社内に「工事部隊」を設立した。
設計のみならず、工事も「内製化」を図った。
内製化すれば、発注先とのミーティングとなっていたものが「社内会議」で済む。
コミュニケーションが深まり、より良い建物ができる。
そして、内製化によってコストダウンも実現できる。
6人で始めた会社は見事にまわった。
気がつけば従業員が100名規模の会社になっていた。
施工を内製化したことで、職人の人数が膨大なものになったからだ。
設計事務所から総合建築業へと変貌していった。
ボクは「取締役・工事本部長」の肩書きをもっていた。
・・・・・・・全てが、上手くまわっていた。
プリウスを駐車場に停め、エレベータ―で上がって行く。
玄関を開け、部屋に入った。
・・・・・真暗な部屋。
そっと寝室を開けた。
お嫁さんは眠っている・・・・
・・・・余震は続いている。
地面は常に揺れていた。
身体が「船酔い」のような感覚に襲われていた。
福島原発が日々の不安を増長していた。
「スピッツ」が活動中止を発表した。
他にも多くのアーティストが活動中止を発表した。
来日アーティストは次々と公演を中止・・・・
お嫁さんの体調も悪化の一途をたどっていた。
少し前なら、ボクが帰ってくれば気づいて起きてきた。
・・・今では、それもなくなっていた。
・・・・だからといってボクにできることはなかった。
医師に言われた。
「ただ、優しく話を聞いてあげてください」
・・・・それに徹していた。
お嫁さんの話を相槌を打ちながら聞いていた。
時に肯定し、時に驚き、ちゃんと聞いているよと反応を示しながら聞いていた。
・・・・でも、ボクの話は誰が聞いてくれるんだろう・・・・
毎日の中で起こる、日々の何気ないことを聞いて欲しいという思いはあった。・・・・それが夫婦の会話、家族の会話というものだろう。
お嫁さんの病気が発覚してから、夫婦の会話は、ボクが聞くだけの一方通行になってしまった。・・・・しかも、否定は当然として、意見も言ってはいけない。
ただ、サンドバッグのように逃げも隠れも、防御すらせず言葉を受け止めるだけだ。
1日、2日・・・1ヶ月なら耐えられる、凌げることも、半年、1年と経っていけば苦しくなってくるのは事実だ。
手の出せない、受け止めるだけのサンドバッグは辛い。
・・・・どうしてボクだけ・・・
そんな思いにとらわれるのも事実だ。
・・・・しかし、それをぶつけることはできない。ぶつける場所はない。
ボクとて生身の人間であって、日々の生活の中で、理不尽なことにもブチ当たる。悲しい事にも出会う。・・・・もちろん喜びもある。
・・・・しかし、それを吐露・・・話合える相手、場所がなかった。
喜びは、お嫁さんに話してもいいんじゃないのか?
・・・・そうでもないらしい。
他人の喜びは、自分の無力さの再確認になってしまう。
だから、なるべくなら言わない方がいい。
言うのであれば、細心の言葉選びが必要だ。
お嫁さんの陥っている病は、自らの自信のなさ、無力感、自己肯定感の欠如だ。
たとえ配偶者とはいえ、その喜びは、成功は、病の増長を生んでしまうものらしい。
・・・・だから、ただ「優しく話を聞く」・・・それしかなかった。
・・・そのボクの話の吐き出し場所、聞いてくれて、時に肯定し、褒めてくれ、時に意見を言ってくれる・・・・それが ゆい だったのではないか。
なんでもない、日々の会話のピンポンを、見事にラリーを続けてくれたのが ゆい だったんだと思う。
・・・・おそらくは、それはお互いだったんだろう。
ゆい も、何気ない会話のピンポンが旦那さんとできなかったんじゃないか・・・義理家族の問題とかであればなおさらだ・・・
「優しさのツボ」が同じだった。
だから、会話に嫌な部分がなかった。興味のポイントも同じ。
相手の言いたいことを理解することも簡単だった。
・・・・だから、あっという間に、お互いに火が点いたように求めてしまったんだろう。
・・・このままでは危険だと感じるほど、お互いにのめり込んでしまったんだろう。
仕事部屋に入る。
ピグの部屋に入った。
ゆい からの手紙はない。
ゆい がピグに入った形跡もない。
毎日毎日、何回も何回も手紙を書いた。
心配している・・・
大好きなんだ・・・
気持ちを伝えなかったことを本気で後悔してる・・・
今度会えたら「大好き」だって伝える・・・
会いたいなんて大それたことは考えてないよ。
ただ気持ちを伝えたいんだ。
気持ちを知って欲しいんだ。
一生会えなくていい。
この地球上に、貴女の事が大好きだったボクという人間がいる。
それを知って欲しいだけなんだ。
貴女の心の片隅に、貴女のことを好きだと言ったボクを、ほんの少しでもいさせてほしい。
貴女に気持ちを伝えたい。
・・・だから無事でいて・・・
貴女の無事だけを祈ってる。
世界で一番大好きだからね。
地球上で、貴女の事が一番大好きなんだ。
応援ありがとうございます!
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