月明かりの下で

立樹

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前編

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朔也はマンションを見上げた。
空には白い雲が月の光に照らされ、淡く色づいている。
腕時計に目落とすと、時刻は二十二時になろうとしていた。もう帰っているだろうか。彼が居るだろう階の窓を見た。
けれども、電気はついておらず真っ暗だ。
軽くため息をつく。

この時間に通りを歩く人の姿はまばらだった。ほとんどがサラリーマン風のスーツ姿をした男性や女性。私服姿の若い男女が歩いているぐらいだ。彼が歩いていればすぐにわかる程度の人通り。
見渡しても、それらしき人はいなかった。

いつから会っていないのか。
いつから連絡をくれていないのか。

朔也は、月夜の美しい空を仰ぎ見た。
青白く光る月が、胸をより一層締め付ける。
いっそのこと、忘れてしまおう。そう幾度となく思った。
なのに、足は毎晩ここに向かってしまう。
その度に、胸の内が痛む。

そんな自分を嘲笑い「今日も駄目か」と、ため息をつく。

震えるほど寒くはないが、五月の夜は肌寒い。
黒いジャケットのポケットへと手を突っ込み、もう一度、真っ暗な窓を見上げたあと、来た方へと戻ることにした。

ゆっくりと石畳に目を沿わせながらの歩く。
歩きながら、彼と別れた最後の夜へと思いを馳せていた。

あの夜、たった一つの間違いを犯した。


今日と同じ様な月が、美しく夜空を照らしていた。
彼の部屋の窓には、ソファに座った二人が見える。
つまみを肴に酒を酌み交わし、他愛ない話で夜が更けていく。
会社の愚痴から、失敗談。そして、最近の生活。それがひと段落すると、映画や読んだ本の話に、どんなドラマを観ているか。

話すことは何でもよかった。
ただ、笑い合って、側にいるだけで満たされるものがあった。

あの一時は、何にも代えがたいものだった。


なのに――。

話の内容が大学生に、そして高校生の頃へとさかのぼっていくうちに、気持ちも高校生の時に戻っていた。
気持ちが抑えられないあの頃。
笑う彼は、目じりのしわや、髪型は変わっても、笑った弓なりの優しい目も、薄くもなく厚くもない唇も、あの頃のまま。

酔っていたと、言い訳にしたくない。それに、なんのために、あの頃の気持ちをひた隠しにしてきたのかわからない。それを打ち破るほど、酔った彼は魅力的だった。

きっと、気持ちを内へと押し込めた高校卒業時よりも。

喋る彼の頬へと手を添えると、驚いた顔をした。開いたままの口からは言葉は発していなかった。そして、

その唇に触れる――。

寸前で、ハッと我に返った。
眼前の彼の大きく見開いた目とまともにあった。
サッと血の気が引く音がした。
「ご、ごめん!」
それだけ言うのが精一杯だった。言い訳は、あとからたくさん頭の中を巡ったけれど、その時は、真っ白だった。
どうしていいのかわからず、身じろぎ一つしない彼を置いて、上着と財布を持つと、彼の部屋から飛び出した。

「ああ――」
大通りに出た後、頭を抱え唸った。
暫くは動けなかった。

夜中を回った街灯だけが灯る静かな道。
聞こえるのは、時々通る車の音と、街灯に虫が弾かれる音だけ。
鼓動が落ち着いたあと、立ち上がり、空を見上げると、真上には真ん丸な月が朔也を見降ろしていた。
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