一冬の糸

倉木 由東

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#32.okinawa 杏奈

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 多くの悲鳴とすれ違いながら5号館に駆け出した佐倉だったが、建物を目の前にして言葉を失った。5号館は燃え盛っており、扉や窓から炎と黒煙が吐き出されている。入口付近で腰を抜かして動けない者、泣き叫ぶ者、まさに地獄絵図だった。
 佐倉は正面から建物の角から角へと視線を動かした。すると端にある非常階段を下りる1人の女性に目が止まった。
 杏奈だ!
「助けてー!」
 しかし正面から救出を求める逃げ後れた生徒達の悲鳴があがる。
 くそっ!逃げる杏奈を追いかけることを諦め、佐倉は5号館の正面入口へと走り出した。
 入口に近づくに連れて、肌に熱をどんどんと感じていく。悲鳴をあげた女子生徒が入口に1番近いところで泣きじゃくり、その肌は黒煙に触れ少し黒ずんでいる。
 まずは彼女からだ。この扉だったら炎はまだそこまで強くない、脱出するなら今だ。
「こっちだ!来い!」
 佐倉は入口の中に入ると女子生徒の腕を掴み、重い腰を強引に引き上げ外へと連れ出した。すると正面から見慣れた4人組の男達が走って来た。太田が居酒屋でぼこぼこにした奴らだ。
「おまえら・・・・。ここの生徒だったのか」
「あぁ。それより他に中には何人ぐらいいる?」
「まだ結構いるはずだ」
「よし行こう!」佐倉の言葉を受け、居酒屋での鉄パイプ男が仲間に叫んだ。
「そんな正義感がお前らにあったんだな」
「俺らの学校が惨事にあって黙っていられるか。それに学長を抱えたあんたの友達とすれ違って、急いで5号館に行くように脅されたんだよ」
 なるほど。太田のおかげか。やはりあいつは頼りになる。この状況で佐倉は不思議と冷静に太田のことを考えた。
「それよりあんたこそ、こんなところで何をしている?見た限り放火犯では無さそうだが」
「馬鹿いえ。この年で誰が好んで大学なんか来るか」
「別に詳しいことは聞かないし興味も無いが、急いでいるのならここは俺らに任せろ。消防車も救急車もそろそろ来るしな」
「それは有り難い。じゃあこの子を頼む」
 佐倉は抱えていた女子生徒を男に預けた。
「恩に着るよ」
「これは借りだ。返してもらう」男の言葉に思わず笑みをこぼしながら、佐倉は非常階段のほうへと駆け出した。
 冷たい12月の風邪と共に煙が口から肺に入ってくる。黒煙がどんどん酷くなり夜と同化していく。咳き込みながら非常階段に着くと、驚くことにそこには河村杏奈が1人佇んでいた。逃げる様子もなく、こちらを見つめる。
「河村杏奈さんだね」
 佐倉は初めて杏奈と顔を合わせた。
「そうよ」杏奈はその容姿だけではなく声も透き通るほど美しかった。父の河村修一から依頼を受けて、しばらく本人を調査していたこともあり初対面という感覚は無いが会話を交わすのはこれが初めてだ。
「あなたは私を調査していた探偵さんですね」
「探偵と言っても看板出しているわけではない。君には聞きたいことがたくさんあるが、今はそんな余裕のある状況じゃない。ひとまず避難するぞ」
「逃げればいいわ」「ん?」
「あなた1人だけ逃げれば良い。私は逃げるつもりはないわ」
「何、余裕見せつけているんだ。この騒ぎは君の仕業か?」
「そうよ」
「何の為にこんなことを・・・」
「復讐よ」
「真栄城にか?」
「ええ。それだけではないけどね。復讐する人間は他にもいるわ」
「沖縄県知事のことだな。知事の孫を誘拐したのも君か?」
「・・・由里ちゃんは無事よ。今のところは。明日の新聞記事次第・・・」
 ドォーーン!また大きな爆発音がなった。非常階段の扉がその衝撃と共に開いた。やばい。炎が勢力を強め迫ってくる。
「ごほっ!ごほっ!」
 ジャケットの袖で口元を押さえながら佐倉は杏奈に近づいた。
「許せ」
 杏奈に軽めのボディブローを入れ、身体の自由を奪う。
「うっ」と小さく呻き姿勢を崩した杏奈を抱え、佐倉は避難を始めた。とにかくこの敷地から出ないと・・・。佐倉は駐車場を目指した。細身の杏奈とはいえ、人を1人抱えている分、負担が大きく、道のりが信じられない程に長く感じる。佐倉はポケットからスマートフォンを取り出し電話をかけた。
「佐倉さん、今どこっすか!?」
「5号館の非常階段から駐車場に向かっているところだ。杏奈を抱えている。太田、すまんが来てくれ」
「わかりました!」
 太田が来てくれる。それまでに少しでも、一歩でも、1メートルでも前に歩を進めなければ。
「あなた、関わるなと忠告したのに何でまだ動いているの?うちの父親に金でも更に積まれた?」
 杏奈が小馬鹿にしたような口調で聞いてくる。
「お前さんの言う父親は河村修一のほうか?それとも桐谷浩のほうか?」
「何だ。そこまで知っていたの?」
 佐倉の言葉に動揺すること無く杏奈はさらりと言った。2人の淡々としたやりとりとは裏腹に、あちらこちらの炎がどんどん勢いを増している。そして避難者達がどんどんと2人を背中から追い越していく。
「東京での40年前というのは3億円事件のことだな」
「そうよ。ここの学長の真栄城と知事の具志堅はその実行犯よ」
 杏奈は“父“の河村修一と同じことを言った。
「フランスへは何をしに行く?」
「決まっているじゃない。同じこと。復讐よ」
「フランスの刑事にか。異国で、しかも刑事相手にそんな復讐なんて大それたことが出来るのか?」
 プスンッ!
 突如、何かが遮ったような鋭い音が聞こえた。と同時に杏奈の身体が一気に重くなった。抱えていた杏奈が突如バランスを崩し、膝をついて倒れた。
「どうした?」
「あ・・・、あ・・」
 見ると脇腹が赤く染まっており、その赤色の中心には穴が空いている。狙撃。佐倉は杏奈を全身で庇いながら、その場に伏せこんた。
「佐倉さん!」太田が走ってくる。
「太田、来るな!」
「え?」
「いいから来るな!杏奈が撃たれた!」
 どこだ。どこにいる。佐倉は周囲の建物を見渡したが、日が暮れ十分に確認が出来ない。
「あ・・・、あ・・・」
 杏奈が力を振り絞り何かを喋ろうとしている。
「喋らなくていい!」このままでは杏奈が息絶えてしまう。
「太田、急ぎこっちにも救急車の隊員を呼んでくれ!」
「あ、わかりました」
 杏奈が撃たれたことに呆気に取られていた太田も、佐倉の言葉で急いで救急車のほうへと駆け出した。
「おい!しっかりしろ!」
 杏奈に死なれては何もかもが解決しない。
「ゆ・・・、ゆ・・り・・・ちゃ・・ん、は、だ・・い・じょ・・う・・ぶ」
「わかったから喋るな!」
「か・・・、か・・わ・・・る・・・・・」
「喋るな!」
 杏奈は最後の振り絞った力で佐倉の頬に手をあて、自分の顔に引き寄せた。そして耳元で一言だけ呟き、瞬間、かくんと人形のようになった。
 杏奈が死んだ。
「佐倉さん、隊員連れて来ました!」
 背中に太田の声がする。
「佐倉さ・・」
「太田、杏奈は死んだよ」
「死んだ・・・?」
 佐倉は杏奈を抱えたまま動くことが出来なかった。やっと接触を果たせたと思った人間が一瞬にして目の前で魂を奪われ、ただの抜け殻になった。
「佐倉さん!とりあえず避難を!」
 太田が叫ぶ。それでも佐倉は杏奈を抱えたまま動かない。
「佐倉さん!」
 動かない佐倉を太田は後ろから無理矢理引きずる。ドーーーン!炎の勢いがどんどん増していく。しかし佐倉の耳には爆発音も人々の悲鳴も、救急車や消防車のサイレンの音も入ってこなかった。太田に引きずられながら、佐倉の頭の中には杏奈の最後の言葉だけが駆け巡っていた。
 杏奈は途切れ途切れになりながらも必死の思いで佐倉に告げた。
 カカワルナ、テヲヒケ。
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