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#3.paris 聴取
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オルフェーヴル河岸36番地―。所在地、番地が別名として呼ばれるほど有名なパリ警視庁。パリ及びその周辺地域を管轄する警察組織、パリ警視庁の庁舎である。建物こそ老朽化しているが、ここが間違いなくパリの治安を維持しているのだと職員全員が自負し、自らの職を誇りに思っている。
「マルセル、聞き取りの前にコーヒーでも飲まないか?」
パリレ・ブルーから戻ってきた途端、モーリスがマルセルを誘った。モーリスは事件現場から戻る車中で一言も発さなかった。きっと事件解決に向けてどのようなアプローチを取るべきか考えていたのだろう。マルセルは焙煎、粉砕されたコーヒー豆をスプーンで3杯ほどすくい、コーヒーメーカーにセットされた紙のフィルターの中に入れた。次に冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し豆の上に注ぎ始めると、やがてコーヒーメーカーは抽出を始めた。
「マルセル、君は昔、パリで日本人学生が起こした事件を覚えているか?」
「ええ、覚えていますよ」
確かに覚えている。マルセルにとって忘れたくても忘れられない事件だ。大学に在籍している日本人留学生が、同じく留学で来ていた女子学生を射殺し、その後に遺体を切断し食したという衝撃的な猟奇事件。容疑者である男は事件後に間もなく逮捕されたが、精神異常を理由に無罪となった。母国である日本に帰国した後は、マスコミに有名人として取り上げられ、雑誌や新聞紙に連載を持つだけではなく、講演会やトークショーなどを行い、時代の寵児になったと言われている。それは当時、捜査員の一人として関わっていたマルセルにとって決して許される現象では無かった。
「その事件が何か?」
「いや、今回の遺体の皮膚が抉り取られているのを見て少し思い出しただけだ。悪かったな、嫌な事件を思い出させて」
マルセルは抽出されたコーヒーを口にした。安い豆を使っているせいか、はたまた自分の入れ方が良くなかったのか、コーヒーはあまり美味しいものではなかった。
「モーリスさん、目撃者の男子学生が部屋で待っています」
報告にやって来た若い署員にモーリスは「わかった。ありがとう」と礼を言うと、マルセルに「行こう」と一言告げ、先を歩いた。
「パリ警視庁のモーリスです」
「同じくパリ警視庁のマルセルです」
自己紹介を済ませ、2人は目撃者とされる男子学生の目の前に並んで座った。肩幅は狭いが、胴の長さが座った姿勢でも目立つ。上下スポーツメーカーのジャージにスニーカー、格好だけで判断すればジョギング中というのは嘘では無いらしい。丸坊主で面長の特徴的な顔は、先程残虐な光景を目にしたせいで生気を完全に失っていた。
「恐ろしいものを見てしまったね」
モーリスの問いかけにも特に反応はない。視線は何も無い机の上を見つめている。
「何か他に見なかったかい?怪しい男とか、不審な物を見つけたとか」
同じく無反応。モーリスがマルセルの顔を見て首を横に振って来たので、マルセルは今度は自分がと、代わって質問することにした。
「ジョギング中と聞いてはいたが、何か普段からスポーツでもやっているのかい」
「フットボール」
今にも消え入りそうな声ではあったものの、男子学生はこちらの問いかけに初めて反応を見せた。
「フットボールか!私もやっていたよ。ポジションは?」
「ミッドフィルダー」
「そうか!私はフォワードでね。残念ながらプロプレーヤーにはなれなかった。でも才能はあったんだよ。まぁ中盤がいいパスを供給してくれなかったのさ」
「中盤のせいにしちゃ駄目だよ。フォワードは自分一人の力で点を取るようなセンスが無いと。他人のせいにしているから大成しなかったのさ」
挑戦的な口ぶりに少し驚いたが、どうやらコミュニケーションは問題なく取れそうだ。
「はっは。確かにな。それはそうと近々何か試合でもあるのかい」
「どうして?」
「公園でジョギングをしていただろ?個人練習はいつものことかい」
「・・・・・・・」
「どうした?また嫌な光景を思い出してしまったか」
「・・・・・・・」
事件現場に関する質問をすると再び学生は口を閉じた。
「なぜ黙っている?」
「・・・・・・・」
「何か隠しているのなら正直に話すんだ!」
モーリスが手を大きく振りかぶり机を叩いた。
マルセルは驚いた。いつもは何事にも冷静で、聞き取りや容疑者の取り調べでもゆっくりと穏やかな話し方をする彼が、こんな短い時間で相手を怒鳴りつけるのは珍しい。マルセルは落ち着いてくださいという牽制の意味でモーリスのスーツの裾を軽く引っ張った。すると我に返ったモーリスは「少し一服してくる」と言い残し取調室を出ていった。部屋を後にするモーリスの背中を見て、マルセルは彼が疲れているんだなと思った。
マルセルが再び男子学生に向き合う。すると彼は小さい声で笑い出した。
「どうした?何がおかしい」
尋ねると、彼はマルセルの目を見据え、はっきりとした口調で言った。
「おれ、犯人知っているよ」
「本当か?犯人を見たのか」
思わず身を乗り出す。その様子が愉快に見えるのか、男は声をさらに大きくして笑い出す。
「おい!ふざけるな!」
手を伸ばして男の胸ぐらを掴もうとした時、男はマルセルの手を素早く払いのけた。そして男は右腕をゆっくりと上げ人差し指を突き刺してきた。
「犯人さ」
男の言っている意味を一瞬で理解することが出来なかった。
「何を言っている」
呆然と立ち尽くすマルセルを、男はなおも楽しそうに見ている。
「だから犯人さ。もちろんあなたじゃないよ」
「どういう意味だ」
男子学生はゆっくりと腕を下げ、右腕を膝の上に戻した。
「・・・・・・・」
「まだわからないのかい?だから君は大成しないタイプなんだよ」
そして男子学生は静かに、しかしはっきりとマルセルに告げた。
「モーリスさ。犯人は君の上司だよ」
「マルセル、聞き取りの前にコーヒーでも飲まないか?」
パリレ・ブルーから戻ってきた途端、モーリスがマルセルを誘った。モーリスは事件現場から戻る車中で一言も発さなかった。きっと事件解決に向けてどのようなアプローチを取るべきか考えていたのだろう。マルセルは焙煎、粉砕されたコーヒー豆をスプーンで3杯ほどすくい、コーヒーメーカーにセットされた紙のフィルターの中に入れた。次に冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し豆の上に注ぎ始めると、やがてコーヒーメーカーは抽出を始めた。
「マルセル、君は昔、パリで日本人学生が起こした事件を覚えているか?」
「ええ、覚えていますよ」
確かに覚えている。マルセルにとって忘れたくても忘れられない事件だ。大学に在籍している日本人留学生が、同じく留学で来ていた女子学生を射殺し、その後に遺体を切断し食したという衝撃的な猟奇事件。容疑者である男は事件後に間もなく逮捕されたが、精神異常を理由に無罪となった。母国である日本に帰国した後は、マスコミに有名人として取り上げられ、雑誌や新聞紙に連載を持つだけではなく、講演会やトークショーなどを行い、時代の寵児になったと言われている。それは当時、捜査員の一人として関わっていたマルセルにとって決して許される現象では無かった。
「その事件が何か?」
「いや、今回の遺体の皮膚が抉り取られているのを見て少し思い出しただけだ。悪かったな、嫌な事件を思い出させて」
マルセルは抽出されたコーヒーを口にした。安い豆を使っているせいか、はたまた自分の入れ方が良くなかったのか、コーヒーはあまり美味しいものではなかった。
「モーリスさん、目撃者の男子学生が部屋で待っています」
報告にやって来た若い署員にモーリスは「わかった。ありがとう」と礼を言うと、マルセルに「行こう」と一言告げ、先を歩いた。
「パリ警視庁のモーリスです」
「同じくパリ警視庁のマルセルです」
自己紹介を済ませ、2人は目撃者とされる男子学生の目の前に並んで座った。肩幅は狭いが、胴の長さが座った姿勢でも目立つ。上下スポーツメーカーのジャージにスニーカー、格好だけで判断すればジョギング中というのは嘘では無いらしい。丸坊主で面長の特徴的な顔は、先程残虐な光景を目にしたせいで生気を完全に失っていた。
「恐ろしいものを見てしまったね」
モーリスの問いかけにも特に反応はない。視線は何も無い机の上を見つめている。
「何か他に見なかったかい?怪しい男とか、不審な物を見つけたとか」
同じく無反応。モーリスがマルセルの顔を見て首を横に振って来たので、マルセルは今度は自分がと、代わって質問することにした。
「ジョギング中と聞いてはいたが、何か普段からスポーツでもやっているのかい」
「フットボール」
今にも消え入りそうな声ではあったものの、男子学生はこちらの問いかけに初めて反応を見せた。
「フットボールか!私もやっていたよ。ポジションは?」
「ミッドフィルダー」
「そうか!私はフォワードでね。残念ながらプロプレーヤーにはなれなかった。でも才能はあったんだよ。まぁ中盤がいいパスを供給してくれなかったのさ」
「中盤のせいにしちゃ駄目だよ。フォワードは自分一人の力で点を取るようなセンスが無いと。他人のせいにしているから大成しなかったのさ」
挑戦的な口ぶりに少し驚いたが、どうやらコミュニケーションは問題なく取れそうだ。
「はっは。確かにな。それはそうと近々何か試合でもあるのかい」
「どうして?」
「公園でジョギングをしていただろ?個人練習はいつものことかい」
「・・・・・・・」
「どうした?また嫌な光景を思い出してしまったか」
「・・・・・・・」
事件現場に関する質問をすると再び学生は口を閉じた。
「なぜ黙っている?」
「・・・・・・・」
「何か隠しているのなら正直に話すんだ!」
モーリスが手を大きく振りかぶり机を叩いた。
マルセルは驚いた。いつもは何事にも冷静で、聞き取りや容疑者の取り調べでもゆっくりと穏やかな話し方をする彼が、こんな短い時間で相手を怒鳴りつけるのは珍しい。マルセルは落ち着いてくださいという牽制の意味でモーリスのスーツの裾を軽く引っ張った。すると我に返ったモーリスは「少し一服してくる」と言い残し取調室を出ていった。部屋を後にするモーリスの背中を見て、マルセルは彼が疲れているんだなと思った。
マルセルが再び男子学生に向き合う。すると彼は小さい声で笑い出した。
「どうした?何がおかしい」
尋ねると、彼はマルセルの目を見据え、はっきりとした口調で言った。
「おれ、犯人知っているよ」
「本当か?犯人を見たのか」
思わず身を乗り出す。その様子が愉快に見えるのか、男は声をさらに大きくして笑い出す。
「おい!ふざけるな!」
手を伸ばして男の胸ぐらを掴もうとした時、男はマルセルの手を素早く払いのけた。そして男は右腕をゆっくりと上げ人差し指を突き刺してきた。
「犯人さ」
男の言っている意味を一瞬で理解することが出来なかった。
「何を言っている」
呆然と立ち尽くすマルセルを、男はなおも楽しそうに見ている。
「だから犯人さ。もちろんあなたじゃないよ」
「どういう意味だ」
男子学生はゆっくりと腕を下げ、右腕を膝の上に戻した。
「・・・・・・・」
「まだわからないのかい?だから君は大成しないタイプなんだよ」
そして男子学生は静かに、しかしはっきりとマルセルに告げた。
「モーリスさ。犯人は君の上司だよ」
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