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#1.paris 出動
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おそらく世界中のほとんどの街並みがイルミネーションで彩られ、おそらく世界中のほとんどの人々が心躍る。12月はそんな季節だ。
ジャンヌ・マルセルが生まれ育ったここパリも例外ではない。凱旋門から延びるシャンゼリゼ通りは、青白いLEDライトが木の枝一つ一つに沿うように施され、美しい光の道を創り上げている。
この景色はきっと世界のどこにも負けていない。マルセルは運転席の窓から流れる街並みを見て心からそう思った。と言っても直にその目で世界各地の冬景色を見たことはなく、自分の故郷がそうであると勝手に解釈しているだけだ。
幼少の頃、マルセルの父親は家庭を顧みない仕事人間だった。休日に遊んでもらった記憶も無く、いつしかマルセルにとって父親は遠い存在になっていた。そんな父が一年で唯一、息子を遊びに連れ出してくれたのがクリスマスだった。普段接することのない父からショッピングセンターで「何が欲しいか」と聞かれても、高い玩具を頼めばひどく叱られそうな気がして何も言えなかった。それでも父親が手を繋いで歩いてくれるのが嬉しく、ある意味それが自分にとっての一番のクリスマスプレゼントだったような気がする。
今、運転席から眺める街並みは昔父親と手を繋いで歩いた道と何も変わっていない。時間が経過し建物や人々が着飾っているものが変わっても、自分の心を照らす輝きはあの頃のままだ。だからパリのクリスマスは世界で一番だと思う。
「マルセル、今年のクリスマスはどう過ごすんだい?」
助手席に座る上司のモーリスが穏やかな表情で聞いてくる。
「はい。娘夫婦が孫を連れてルマンからやってくる予定です。私たち夫婦にとっては初孫ですから会えるのが楽しみです。二ヶ月前に生まれたばかりですからね」
そう言いながら自慢の孫の写真を見せようとマルセルはスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出そうとしたが「君は運転中だろ」と上司に笑いながら咎められた。
「クリスマスプレゼントに孫のベビー用品を買おうと思っているですが、何を買ったらいいのか毎日妻と相談中ですよ」
「私は子供に恵まれなかったからな。君が羨ましいよ。子供どころか仕事にかまけてばかりで、カミさんにも不憫な思いをさせてしまっている」
「それであれば奥さんに何かプレゼントしてはどうですか?」
「あぁ、実はもう買ってある」
そう言うと今度は逆にモーリスのほうがポケットからスマートフォンを取り出し、画面の上で指を滑らせ始めた。
「これだ」
モーリスは運転席のマルセルに向かって画面を見せた。ジュエリーケースの中から顔を出す美しく光輝くダイヤモンド指輪の写真。
「実は結婚30周年なんだ。しばらくカミさんの喜ぶ顔を見ていなかったような気がする。迷惑ばかりかけたからな。喜んでくれるいいけど」
「きっと喜んでくれますよ。ただ、そのプレゼントもそうですが一番喜ばれるのは一緒にいてあげることじゃないですかね」
上司に対し、少し偉そうかなと思いながらマルセルは思ったことを素直に口にした。職場でも仕事人間として知られるモーリスの働きぶりは、周囲の人間が彼の体調を気遣うほどである。
「君の言う通り、これからはカミさんと向き合う時間を作るよ。仕事ばかりで家庭を顧みなかったからな」
マルセルより10歳年上のモーリスは職場では堅物として知られている。出世思考も強く、成果主義の彼は少なからず同僚達から煙たがられている部分もあるが、マルセルにとっては職場内で気が許せる尊敬出来る上司だ。
それは自分自身の出世にも関係があった。昔と違って部下を持つようになると、それまでの上司の気持ちがわかるようになるものである。部下達がモーリスの陰口を言うように、自分もその陰口の対象となりながらも部下達の仕事に対する士気を下げぬよう組織をコントロールしなければならない。
それは思っていたことよりも遥かに大変な作業であるとマルセルは実感していた。
そしてマルセルがモーリスを慕う理由は他にもある。
今の堅物モーリスから職場の同僚達は想像もつかないだろうが、昔はよくプライベートの相談相手にもなってくれていた。
特にマルセルが妻と結婚した25年前、プロポーズに躊躇する自分の背中を押してくれたのは他でもないこのモーリスだったのだ。
「退職日はいつですか?」
マルセルは聞いた。今年で62歳になったモーリスには定年退職の日が迫っている。
「あぁ、正式には年明けの2月14日だが、消化していなかった有休を消化して実質の退職日は今年のクリスマスイブになる。」
笑いながらモーリスは答える。
その表情は社会から解放される喜びというよりは、仕事人間だったモーリスらしくどこか寂しげに見える。
「退職日まで無事、何もなければいいんだけどな」
「縁起でもない。平穏に終わりますよ」
何の根拠も無く、マルセルは返答した。
自分たちの仕事は平和であるに越したことは無い。最近はここパリも軽犯罪が多くなるなど若干の事件も増えてきたが、どんな犯罪者もクリスマスぐらいは休暇を取ってほしいものだ。
凱旋門向けに走っている途中で車をベリ通りへ右折させた。一方通行のこの通りは道路脇に駐車している車のせいもあり、シャンゼリゼ通りとは打って変わって道幅が狭い。しかし中華料理店やアメリカの有名コーヒーチェーン店、アパレルショップなどが並び、それなりの賑わいを見せている。
車がベリ通りとアルトワ通りの交差点に差し掛かったその時、車内にピーピーと規則的な電子音が鳴り響いた。スイッチをONにしてモーリスがマイクを取り上げる。
「こちらモーリス」
『そちら現在地は?』
スピーカーの向こうから女性の声が聞こえる。
「シャンゼリゼ通りを南向けに進行中」
『8区のパリレ・ブルー公園で男性の変死体があると通報がありました。至急、現場へ急行願います』
「ウィ」
スイッチを切るとモーリスはマルセルに向かってあきれた口調で言った。
「平穏万歳」
「やっぱりまだこの街はあなたを必要としているんですよ」
心なしか、モーリスは言われて妙に嬉しそうな表情を見せた。
「パリレ・ブルーですね」
「あぁ、急ごう」
モーリスは青色灯のパトランプを取り出し、車の屋根にセットした。
マルセルら「パリ警視庁」の職員にとって平和はない。
ジャンヌ・マルセルが生まれ育ったここパリも例外ではない。凱旋門から延びるシャンゼリゼ通りは、青白いLEDライトが木の枝一つ一つに沿うように施され、美しい光の道を創り上げている。
この景色はきっと世界のどこにも負けていない。マルセルは運転席の窓から流れる街並みを見て心からそう思った。と言っても直にその目で世界各地の冬景色を見たことはなく、自分の故郷がそうであると勝手に解釈しているだけだ。
幼少の頃、マルセルの父親は家庭を顧みない仕事人間だった。休日に遊んでもらった記憶も無く、いつしかマルセルにとって父親は遠い存在になっていた。そんな父が一年で唯一、息子を遊びに連れ出してくれたのがクリスマスだった。普段接することのない父からショッピングセンターで「何が欲しいか」と聞かれても、高い玩具を頼めばひどく叱られそうな気がして何も言えなかった。それでも父親が手を繋いで歩いてくれるのが嬉しく、ある意味それが自分にとっての一番のクリスマスプレゼントだったような気がする。
今、運転席から眺める街並みは昔父親と手を繋いで歩いた道と何も変わっていない。時間が経過し建物や人々が着飾っているものが変わっても、自分の心を照らす輝きはあの頃のままだ。だからパリのクリスマスは世界で一番だと思う。
「マルセル、今年のクリスマスはどう過ごすんだい?」
助手席に座る上司のモーリスが穏やかな表情で聞いてくる。
「はい。娘夫婦が孫を連れてルマンからやってくる予定です。私たち夫婦にとっては初孫ですから会えるのが楽しみです。二ヶ月前に生まれたばかりですからね」
そう言いながら自慢の孫の写真を見せようとマルセルはスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出そうとしたが「君は運転中だろ」と上司に笑いながら咎められた。
「クリスマスプレゼントに孫のベビー用品を買おうと思っているですが、何を買ったらいいのか毎日妻と相談中ですよ」
「私は子供に恵まれなかったからな。君が羨ましいよ。子供どころか仕事にかまけてばかりで、カミさんにも不憫な思いをさせてしまっている」
「それであれば奥さんに何かプレゼントしてはどうですか?」
「あぁ、実はもう買ってある」
そう言うと今度は逆にモーリスのほうがポケットからスマートフォンを取り出し、画面の上で指を滑らせ始めた。
「これだ」
モーリスは運転席のマルセルに向かって画面を見せた。ジュエリーケースの中から顔を出す美しく光輝くダイヤモンド指輪の写真。
「実は結婚30周年なんだ。しばらくカミさんの喜ぶ顔を見ていなかったような気がする。迷惑ばかりかけたからな。喜んでくれるいいけど」
「きっと喜んでくれますよ。ただ、そのプレゼントもそうですが一番喜ばれるのは一緒にいてあげることじゃないですかね」
上司に対し、少し偉そうかなと思いながらマルセルは思ったことを素直に口にした。職場でも仕事人間として知られるモーリスの働きぶりは、周囲の人間が彼の体調を気遣うほどである。
「君の言う通り、これからはカミさんと向き合う時間を作るよ。仕事ばかりで家庭を顧みなかったからな」
マルセルより10歳年上のモーリスは職場では堅物として知られている。出世思考も強く、成果主義の彼は少なからず同僚達から煙たがられている部分もあるが、マルセルにとっては職場内で気が許せる尊敬出来る上司だ。
それは自分自身の出世にも関係があった。昔と違って部下を持つようになると、それまでの上司の気持ちがわかるようになるものである。部下達がモーリスの陰口を言うように、自分もその陰口の対象となりながらも部下達の仕事に対する士気を下げぬよう組織をコントロールしなければならない。
それは思っていたことよりも遥かに大変な作業であるとマルセルは実感していた。
そしてマルセルがモーリスを慕う理由は他にもある。
今の堅物モーリスから職場の同僚達は想像もつかないだろうが、昔はよくプライベートの相談相手にもなってくれていた。
特にマルセルが妻と結婚した25年前、プロポーズに躊躇する自分の背中を押してくれたのは他でもないこのモーリスだったのだ。
「退職日はいつですか?」
マルセルは聞いた。今年で62歳になったモーリスには定年退職の日が迫っている。
「あぁ、正式には年明けの2月14日だが、消化していなかった有休を消化して実質の退職日は今年のクリスマスイブになる。」
笑いながらモーリスは答える。
その表情は社会から解放される喜びというよりは、仕事人間だったモーリスらしくどこか寂しげに見える。
「退職日まで無事、何もなければいいんだけどな」
「縁起でもない。平穏に終わりますよ」
何の根拠も無く、マルセルは返答した。
自分たちの仕事は平和であるに越したことは無い。最近はここパリも軽犯罪が多くなるなど若干の事件も増えてきたが、どんな犯罪者もクリスマスぐらいは休暇を取ってほしいものだ。
凱旋門向けに走っている途中で車をベリ通りへ右折させた。一方通行のこの通りは道路脇に駐車している車のせいもあり、シャンゼリゼ通りとは打って変わって道幅が狭い。しかし中華料理店やアメリカの有名コーヒーチェーン店、アパレルショップなどが並び、それなりの賑わいを見せている。
車がベリ通りとアルトワ通りの交差点に差し掛かったその時、車内にピーピーと規則的な電子音が鳴り響いた。スイッチをONにしてモーリスがマイクを取り上げる。
「こちらモーリス」
『そちら現在地は?』
スピーカーの向こうから女性の声が聞こえる。
「シャンゼリゼ通りを南向けに進行中」
『8区のパリレ・ブルー公園で男性の変死体があると通報がありました。至急、現場へ急行願います』
「ウィ」
スイッチを切るとモーリスはマルセルに向かってあきれた口調で言った。
「平穏万歳」
「やっぱりまだこの街はあなたを必要としているんですよ」
心なしか、モーリスは言われて妙に嬉しそうな表情を見せた。
「パリレ・ブルーですね」
「あぁ、急ごう」
モーリスは青色灯のパトランプを取り出し、車の屋根にセットした。
マルセルら「パリ警視庁」の職員にとって平和はない。
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