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◇序章
【0】悪女、リーシェ・クランシュタインの死
しおりを挟む――――――一体なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
汚くて暗い牢屋の中、冷たい床の上に広がっていく自らの赤を眺めながら私はそう思った。
すべてはあの女のせいなのに、どうしてそれを誰もわかってくれないのか……。
確かに、由緒正しきクランシュタイン家の令嬢としていかがなものかと思われる振る舞いは多少あったかもしれない。
だが、そうであったとしても、それらはあの女を制するために必要な行動だったのだ。
多くの者から純粋無垢で清らかな少女だと言われ、同時に他とは違う唯一無二の「オツキサマ」だともてはやされ、誰一人としてあの女の身勝手な振る舞いを咎めることはなかった。
それが何より許せなかった。
そんなふうにあの女が特別視されるのであれば、私だって同等の扱いを受けられるはずでしょう?
現在の王国で唯一の公爵令嬢であり、容姿端麗かつ勉学も運動もでき、婚約者である殿下と添い遂げるための教養もすべて備わっている。
そして何より、私だって「オツキサマ」だ。
なのにどうして、殿下もお父様も、使用人も学友も教師も、誰も彼も!
どうして私ではなくあの女を庇うのか?
どうしてあの女だけが特別なのか?
殿下があの女に誑かされたとしても、その後殿下を無下に扱ったとしても、私はただひたすらに耐えなければならなかったというのだろうか?
――――絶対に違う。何もかもあの女が悪いのだ。
現に、この状況だってそうだ。
まだ処分が下されておらず、こうして牢屋に閉じ込められていた私の元にあの女の「オオカミ」がやって来て、私を襲ったんじゃないか。
ハッと薄い笑いが部屋に反響した。
誰があの女なんかに屈するものか。
私があの女に対して行ったすべては、誰が何と言おうと正しかったのだ。
みんなあの女に惑わされ、正しい判断ができていたのは私だけだった。だから私はのけ者にされ、恨まれ、蔑まれてしまった。それだけだ。
あの女の「オオカミ」に切り裂かれた腹部の熱も、もう感じない。
徐々に、徐々に……非常にゆっくりと、甘くぼんやりとした何かが脳を覆っていくようだった。
私は間違っていない。間違ってなど、いない。
……なのにどうして。
どうしてこんなにも悲しく寂しいのだろうか。
殿下は私から離れていき、お父様からも見捨てられ、執事やメイド、ましてやあの双子たちにも下賤な者でも見るような冷ややかな視線を向けられた。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
私はただ、幸せになりたかっただけなのに。
――――ああ。こんな終わり方は嫌だ。
「なんや、ヒドイ有様やなぁ」
朦朧とする頭に聞き馴染んだ声が響いた。
やっと出てきたのか。遅いったらありゃしない。
「お……そい……のよ、この…………やくたたず、がっ……」
ごぼっと口からも液体が流れ出たが、絞り出した声はなんとか届いたらしく、そいつは目を丸くした後、ケタケタと高らかに笑った。
彼の狐耳としっぽ、そして少しくすんだ長い金髪がそれにつられて各々ゆらゆらと小さく揺れる。
ああ……ムカつく。
狐の態度に、こんな状況でさえ激しく苛立った。だいたいこいつがちゃんと私の側にいたならば、こんなことにはならなかったのに。
それどころか「オオカミ」を制圧し、逆にあの馬鹿女を八つ裂きにすることだってできたかもしれない。
「あーあー、血飛沫で綺麗なお顔が台無しやんか。主様にとって唯一のええところやのになぁ」
そう口にしながら、すぐ近くまで寄ってきてしゃがみ込むと、自らの服の裾でゴシゴシと乱暴に私の顔を擦る。
……痛い。
腹部を深く切り裂かれているのにこんなものの方が痛く感じられてしまうことに、なんだか笑えてしまった。
「おー? 何や。まだ笑えるだけの気力は残っとるやないか。ええでええで。それでこそわしの主様や」
にやりと笑うその目は歪んだ三日月のようにキラリと光った。
ああ……最期に見るものがこいつのこんな表情だなんて、本当に最悪だ。
「……って……おーい、主様? いつもやったら言い返してくるところやろー? 何か返してきぃや、性悪女」
声が聞こえる。こいつの声。
でもこんなに近くにいるのに、こいつが何を言ってるのか……よくわからない。
なんだっけ? ……とにかくねむたい。なら、もうねむってしまおう――。
「あー、いよいよアカンなぁ、コレは…………さて、どないしようかのぅ………………はあ。でもまぁ結局のとこ、こーして主様に死なれて一番困るんは、わしなわけやしなぁ…………しゃーなしや。今から戻したるさかい、今度はその性格どうにかして死なんようにせーぜー気張りぃや?」
そこで意識は途切れた。
――――これが世の中を騒がせた悪女、リーシェ・クランシュタインのあっけない死だった。
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