*大正華唄異聞*

紅月憂羅

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⌘第二幕⌘ 恋と留学編

第六夜 瑠璃ノ簪

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𧲸革ノ屋敷ー



螢祭から明けて次の日ー


『おはよう、憂』

『おはよう…』


巽と稔が𧲸革の書庫で調べ物をして翌朝、昨晩巽の部屋で眠りについた彼女に優しく口づけを交わして、稔と辿り着いた答えを探るため朝一で女中頭である千夜子の元を訪れるべく、身支度を整えてからダイニングへ赴いた。

『おはようございます、巽様、稔様…憂』

恭しく頭を下げて挨拶をする千夜子は、慶三の朝食の配膳準備に取り掛かろうとしており、さして忙しそうではなかったのでその工程が終わるまで待つことにする。

程なくして戻ってきた彼女は次に巽達への配膳に取り掛かろうとしたが、それを遮ったのは巽だった。


『あのさ、千夜子さん聞きたいことがあるんだ』

『はい?なんでございましょう』


テーブルの席に着いて、彼女が迷惑にならない程度に声をかけると、それに応えて手を止める女性は涼やかな顔をしている。
千夜子の場合、長年屋敷に勤めてきたことで作業している途中だとしても巽や稔の話を聞くのは手慣れており、いたって動揺すら見せない様が彼女の接しやすいところだろう。


『お祖父様と、お祖母様のことが聞きたいんだ』


問いかけに千夜子は驚いていたようだったけれど、その佇まいは凛とし穏やかな様子で膝の上に手を添えて、話を聞く姿勢をとっている。

『銀次様と、綾子様のことでしょうか』


『そう』

朝食の配膳を先に済ませ、その場にいる三人が食事を摂り終える頃、片付けをしながら言葉を紡ぐ様子は話すことを選んでいる様子である。そんな不自然な態度を彼女がとるのは珍しい事だ。その場に居る誰もがそう思った刹那に話を進める決心をしたのか忙しなく動かしていた手が止まった


『巽様は何をお聞きになりたいのでしょう?』


『何でも良い、例えば先見ノ華…の事とか、この屋敷であった事とか』


重苦しい雰囲気になってしまいそうだったからこそ、言葉を選んでいた理由になる。少しでも下手なことを口走ってしまうのなら、ここに長年勤めていた千夜子自身が誰よりも自分を許せないのだろう。ここの当主である慶三を裏切ることになってしまう事にもなりかねないのだから。


『……先見ノ華のことについては、巽様の曽祖父であり銀次様のお父上である源三様と、奥方である百合子様のことだけは知っております。百合子様がちょうどその先見ノ華の持ち主であり、慶三様の奥方である沙羅様がその特異体質であるということは。そして憂…あなたも…。その瞳を見れば、お二方と同等の存在ということは良く解っていましたよ。ただ、貴女がどこでどう産まれ育ったのかはわたくしには知るところにありません。そして…綾子様だけは先見ノ華の持ち主ではありませんでした。』


先先代(曽祖父母)である𧲸革源三、𧲸革百合子
先代、(祖父母)𧲸革銀次、𧲸革綾子
現当主(父母)𧲸革慶三、𧲸革沙羅


曽祖母である百合子と、巽と稔の母、沙羅は先見ノ華の持ち主だった。祖母の綾子も𧲸革の血筋であるはずだが先見ノ華は発現しなかった。その理由はわからない。ただ、祖父の銀次は先見ノ華の娘を忌み嫌い、大層憎んでいた…ということだ。それは初めて得た情報である。そして、もう一つの情報が耳に入ってきた頃に憂は動き出す。


『……巽様と稔様の母上である沙羅様は、巽様を産んだ時だけは療養を兼ねて別宅にいらっしゃいました。その頃は心がとても病んでいたと聞き及んでおります。𧲸革家の庭の奥にある別宅ですわ』


『お祖父様とお祖母様が住んでいた場所……』

千夜子の話を聞いた巽が思い出すかのように言葉を紡ぐと、傍にいた憂は手を握りしめた。


『……あの場所は』


何かを思い出したかのように、記憶を手繰り寄せて一つ一つ引き出しを開けていく。幼い頃、巽と自分が会っていて遊んでいた庭。その場所に行けば憂自身がまた何かを思い出すことができる気がしたからだった。

『千夜子さん、ありがとう』

そう言って食事を終えた巽と稔と憂は別宅の方に赴いた。巽と憂が会っていたその場所は𧲸革本邸から少し離れた森の中で簡素ながらも白いテラスがある剪定された美しい庭。白い建物の綺麗な家だった。今では、そこに誰も住んでいないようだけど建物は残っていて時折人の手が加えられしっかり保管されているのが見てとれる。

やはり扉は開かない。鍵は恐らく本邸にあるだろうが、それはきっと𧲸革当主の許可がないと入れないだろう。そこまで慶三からの信頼を勝ち得てないのが憂の現状。

『でも、ここ見たことある……』

三人は顔を見合わせて小さく頷いた。


『ねえ、憂と巽さ…あの人に話聞いてこいよ、この中に入れない以上、ここは手詰まりだよ…ボクはボクで調べてみる。巽は一週間後にはまた戻るんだしさ』

言葉を紡いだのは稔だ。
彼の言う、あの人とは一人しかいない。巽と稔の母親である沙羅と深い仲であった女性、そして今、もっとも有力情報を持っていそうな人ただ一人。

『伽倻子さんか』


二人は乃木園のお屋敷に向かう事にした。彼女の屋敷は市内からは少々離れた場所にあるが、それはつまり屋敷の大きさを示していることになる。

門構え入り口を入ってすぐに目に入るのは、大きな庭園。
日本庭園とも言える壮観な風景は二人の視線を注視させる。堂々たる和庭園を進み、また門がある。越えた先にやっと見えるのが乃木園邸の顔となるであろう木製の欄間《らんま》付き和引き戸だ。
洋風入り混じる今の時代を考えれば、昔ながらの趣溢れる門構えの日本屋敷は、古き良き時代の名残を残す乃木園伽倻子という女性によく似合っていると思う。玄関の呼び鈴を鳴らし、そう経たないうちに乃木園家の家令であろう男性が顔を出すと、その男は
憂を見てまず驚いた。


『沙羅様……!?いや……そんな事……ゴホン……、失礼しました。伽倻子様に知らせて参りますので、どうぞ中へ』


憂を盛大に自分の母親と間違えた男に、巽は複雑な心境を抱えて促されるままに中に入った。

『憂、手を』

巽のエスコートさることながら、憂の腕を自分の腕と交差させると彼女の頬は仄かに赤を差し愛らしく、そんな様子を目にした伽倻子がやってきてとても嬉しそうに出迎えてきた。

『まあ!お憂ちゃん、来てくださったのね。巽のお坊ちゃんもようこそ。談話室へ行きましょう、ここを訪れたのは理由がおありなんでしょう?』

全てを見透かしている様子の伽倻子の瞳は、まるで宝物を人に見せる時の少女のように輝いていて好奇心溢れんばかりと言った様子だ。二人がこの屋敷に馳せ参じた理由、それを伝えるべくして待っていた様にすら見える。形の良い唇を月形に緩めて彼女は笑う。妖艶さそのままながら少女のようなあどけなさも感じるほどである。憂と巽の来訪を喜び、楽しんでいるようだった。


『…それで……恐らく今日、お憂ちゃんと巽のお坊ちゃんが此処へ来たのは、沙羅のことを聞きにきたのでしょう?』

ソファにゆったりとした動作で腰をかける彼女は、憂と巽が屋敷に来る理由をよく知っているようだ。おそらく聡明であり、沙羅の女学生時代の親友である彼女には二人の目的などお見通しなのだ。
それでも改めて沙羅のことを聞きにきたのでしょう?という問いかけをするところを見るに、懐かしい話をしたいと思うのと同時に、あまり話をしたくないという感情も垣間見えるから伽倻子が何を思い、考えているのか解らない。それでも聞かなくてはならない昔々のお話を聞いた暁には果たして憂と巽は何を思うのか


『………沙羅はね……』

何を思い、どう言葉を伝えればいいのか考え込んでいる様子で、ようやく口を開いた時には立ち上がり、一つの小箱をその手に持ってきた。

『伽倻子さん、それは?』

自然とその手に視線が集まる。それを話の前に持ってきたということは何らかの話を切り出すキッカケが欲しかったのだと理解した巽がその小箱のことを尋ねると、彼女は少しだけ困ったような複雑な表情を浮かべ、小箱の上蓋を取り中身を見せてくれた。そこにあるのは綺麗な瑠璃色をしている簪だった。
決して派手ではない。しかし瑠璃色のそれは綺麗な柔らかい琥珀色の梅花模様が入った上等なものである。

『これは、沙羅のお気に入りの簪だったものよ。これを…お憂ちゃんに』


『え……私、ですか?』

おもむろに与えられた簪に驚きを隠せない様子の憂がどういうことかと伽倻子に尋ね始めた。沙羅のお気に入りの簪、それを憂に与えるということは伽倻子が言わんとすることは一つだった


『…これは、貴女が持つべきもの。沙羅は、わたくしにこう言ったわ。』


ーーーー


『伽倻子、いつか……この簪を…渡してほしい子がいるの』

それは、死を目前にした沙羅の言葉だった。

『これは…沙羅が一番気に入っていた簪じゃないの。渡してほしい子って…巽ちゃんのこと?最近産んだ子だって……二人とも男子だわ,簪なんて…形見にでもしてもらうつもり?』


沙羅は稔を産んでそう経たないうちに亡くなった。巽を産んで一年後のことだったが体が弱っていたからと誰しもが思っていた。しかし沙羅は、いつからか心を病んでいた。旦那様である慶三とは仲睦まじい様子であったが、家に問題があったのか、ちょうど長男である巽を身籠もったと知った頃合いから。


『……違うの……違うのよ、伽倻子にだけは伝えておくわ……これは慶三さんも知らない…』


『……ちょっとお待ちになって……まさか……』


伽倻子は𧲸革の内情を詳しく聞いていたわけではない。
しかし、沙羅の様子が変わり始めたのを目で見て知っていたぶん察するのに時間はかからなかった。そして伽倻子は沙羅の親友だからこそ、彼女の身に起こったことを𧲸革外で唯一知っている人物だった。それだけ二人は信頼し合っていたのだと思わせるほどの、懐かしげで寂しそうなその表情が物語っていた。


伽倻子と沙羅の間にだけ秘密があったことを伽倻子は語る。



『私にはね伽倻子……巽と一緒に産んだ女の子がいるのよ…私にそっくりだった…そして…、あの人にも…瞳の色がね…真紅で澄み切っているの……花弁を散りばめたみたいな不思議な瞳をしてる…きっとすぐわかるわ』


『沙羅…ええ、ええ……きっと解るわ、だって貴女のような綺麗な瞳を持つ子なんて解らない筈がないわ……わたくしの……大好きな!』


『私も、伽倻子が大好き。……ねえ、伽倻子……憂をお願いね……』

それは沙羅がたった一度、伽倻子にだけ語った嘘偽りの無い真実と、伽倻子に叶えて欲しい願いだった。



𧲸革慶三の兄であり、𧲸革家を追放された長兄であり、巽と稔の叔父であったはずの𧲸革雅良…その男との間に出来てしまった愛らしい女の子の存在のことを。


ーーーー

『それが貴女だわ……お憂ちゃん、貴女は沙羅にそっくりだもの。瓜二つと言っていい。まるで生き写しのよう、貴女を見た時ね、わたくし、すぐに解ったわ…この間、貴女にご迷惑をおかけしてしまったのも事実だけれど…力になりたかったのよ』


『……!!』


巽と憂のその時の心情は計り知れない。


『憂が……叔父さんと母さんの娘…?』


『そうね、つまり……巽お坊ちゃんと稔お坊ちゃんの異父姉妹ってこと…』


思っていた以上に互いに近すぎる存在に二人は言葉を失った。それでも、巽の憂への愛も気持ちも変わることなく、その小さく震える手を優しく繋ぎ止めて彼女を抱き寄せた。


『憂、大丈夫…大丈夫だから』


『ありがと……大丈夫』

憂は多くの言葉こそ語らなかったが、巽の言葉で気持ちを落ち着かせているようにも強がっているようにもとれる言葉をその唇から紡いだ。伽倻子との話はそこで終わることもできたが、巽はさらに真相を求める。それ全て愛おしい彼女のために。
どんなことを聞いたとしても今では何も怖くない、二人でなら乗り越えられる、そう思う程に既に絆は出来上がっていた。憂のことを知らないままでは居られない、愛おしい人だからこそ全て受け入れたいと思う巽の心に曇りはなかった。


『伽倻子さん…母は父さんを深く愛していたはず。父さんの母に対する深い愛は俺や稔が見ても明らかだ。再婚をすることもなければ、母が亡くなったあと他の女性と結ばれたという話はいっさい聞いてない』


『そうね…巽のお坊ちゃんの言う通りだわ。沙羅が他人と交わるなんてきっと無いことよ。けれど……ごめんなさいね。雅良さんのことで沙羅が悩んでいたのは知っていたのよ、何回も相談されたこともあったし、沙羅自身、慶三さんにお話していたはず。わたくしは、𧲸革から一旦離れるべきだと伝えていましてよ。沙羅の身に良くないことが起こる気がして。けれど、あの子は……』



ーー

『慶三さんから離れたくないの。あの人はちょっと目を離すと無理をするし、愛してるから』



ーー

『屈託のない柔らかな笑顔でそう言っていたわ。そんな風に言われてしまったら、お屋敷から連れ出すことなんて出来ないじゃない』

沙羅も慶三も互いを慈しみあい、とても仲睦まじい夫婦になった。
しかしそれをよく思わなかったのが𧲸革雅良だ。長身で切長の涼しげな瞳はもちろん巽や稔にも似ている部分はあるが鋭く、癖のある流れ髪を緩く結えて着流しの着物がよく似合う端正な容姿を持ち合わせた人だった。女性の噂は絶えずに妻を迎えた事もあったがその妻とはあまり仲睦まじいとは言えなかった。むしろ自殺に追いやったとさえ言われている。そうして、あろうことか……弟の妻である沙羅に横恋慕した…その結果、一番最悪な状態で沙羅は憂を身籠もった…。

愛おしい人とやっと結ばれ、結婚式を挙げた幸せ絶頂の二月のこと。
初夜を迎えた沙羅と慶三はその夜見事に巽を授かった。その時はまだ新しい命が息づいているなど知る由もなかったが、祝福に祝福が重なり幸福を全て身に染みて感じていた夜、なかなか眠れずに庭先に出ていた沙羅に不幸は起こる。

ー𧲸革雅良…慶三の兄であるその人が、他所で酒宴を楽しんだあとに帰ってきたところだった。月が異様に明るい奇妙な夜だった。
沙羅に横恋慕していた雅良は、とうとう彼女が慶三と夫婦となった事実から己の想いをぶつけるままに庭先で沙羅を犯した。
そう、巽を身籠もった幸せな夜に、不幸も同時に起こってしまった。そうして身籠もったのが憂だ…

そんな奇跡とも言える不運、偶然が降りかかるなど到底無いことである。しかしその幾億分ノ一以上の確率に等しい不運が彼女の身に起こってしまったのだ。慶三の種子を宿した同日、数時間後のこと…雅良の種子も彼女の中に宿ってしまったなど…


『そんな……ことが』

話の中心人物である憂からは、もはやその言葉しか出てこなかった。憂自身、幼い頃からの記憶は曖昧であるも、最近は鮮明に思い出せるようになった。
それにともない自分の生い立ちについての情報が入ってきたところで驚くこともできない。なぜなら幼少の頃より彼女が経験してきた事はまさに地獄といえる日々だったのだから、もはや驚く余裕もなければ考える余裕もなかった。
しかし自分の出生の秘密がまさかそんな複雑だったなんて改めて考えると憂鬱になるのは当然といえるだろう。


『そう……そうして、沙羅は貴女を産んだ。巽のお坊ちゃんと一緒にね』

話はまだ続く。どうやら沙羅が憂と巽を産んだのは本邸ではないと言うことだ。それは千夜子も言っていた事だったが、なぜ巽と憂が別々になってしまったのかは伽倻子も知らないらしく、おそらく当人である銀次と綾子しか知らないことだろう。しかし銀次と綾子はもういない。それはやはり別宅を調べる必要もあるということ。もしくは𧲸革の蔵をくまなく調べてみれば解るのだろうか……と、謎が解ければまた一つ謎が浮き上がってくる。と、巽は一つ溜息を吐いた。



ーーー

ーーーーー



『……ありがとうございました、伽倻子さん』

『ありがとうございました』


多くは語らず,静かに礼を述べた巽の隣で同じように頭を下げて挨拶をする。沙羅と伽倻子だけが知ってる真実はあまりに大きいもので、自分自身の出生だと受け入れるに少しの時間を要するのは確実であり、頭を整理する時間も必要だと周りも理解したうえで憂が立ち上がるのを促して乃木園を後にすることにしたのだが、その際のこと

『……ねえ、お憂ちゃん』

『はい…!』

しばらく何かを考え込んでいた様子の伽倻子が開口して告げた
それは、なにもしてあげられなかった沙羅に対しての償いなのか?それとも伽倻子自身がそうしたかったのか、玄関先で憂と巽を見送ると憂にだけ聞こえるように囁きかける。

『お憂ちゃん、貴女うちの娘になる気はないかしら?乃木園の家の養女…ということね、わたくしの旦那様は沙羅のことも知っているし,その娘の貴女を迎え入れるのも反対しないと思うのよ』


『……!!』

憂の存在は𧲸革の血筋であるのは確かだ。
然し、その存在は𧲸革当主に知られないまま育った。いわば当主にしてみれば以前言われたとおり町娘である、それが乃木園の養女となれば由緒正しい家柄の娘という肩書きはできる。名実共に𧲸革巽と婚約できる身分になれるのだ。先見ノ華を持ち合わせている部分では現当主慶三は憂を認めているのだから、これほどにない申し出だった。


『すぐに返事をとは言わないわ。よく考えてみてね』


憂に断る理由は無い。憂が𧲸革巽の奥方になると言うことは慶三も知っている。ただ身分に縛られて渋っているだけであるし、𧲸革家次期当主である巽はその障害を越えても尚、憂を妻にすると考えているのだから乃木園に行こうが行くまいが憂がどんな選択をとっても一緒に居ると確信できる……それならどの道を行くのが一番幸せか……手のひらで光る瑠璃ノ簪を見つめ、改めて母だと知った沙羅に話しかけるかのようにその帰路を辿った。


ーーー

『憂……』

道すがら、隣を歩く巽がそっと憂の手をとって抱き寄せるように、町の川縁の枝垂れ柳の下を歩く。自分の出自を知った彼女の困惑した姿を慰めるように慈しむように優しく肩に触れながら夫婦のように寄り添った

『巽…沙羅さんって……どんな人?』


『……俺もあまり覚えてないんだけど……写真があるんだ。あとで帰ったら見せてあげる、父さんが言うには泣きぼくろが特徴的な凄く嫋やかで柔らかな物腰の綺麗な人だったって……そうだな、写真の姿を思い出したら憂とやっぱり似てるかな』


『お母様……って、言っていいのかな』


『ん,当たり前……』


生きていたら、さぞ素敵な人だったのだろう…願わくば会話したかった。望まれずして産まれてしまった自分、忌み嫌われ手放され当然だろうとも思うのだが、死が近づいても尚、持っていた大切な簪と、この"憂"という名前を残してくれたことが、何より母親の愛情を感じられる真実だと思った。



ーー𧲸革邸宅


乃木園の邸から帰ってきて数刻後、夕食の席で座る人物が四人。
そこには𧲸革慶三、𧲸革巽、𧲸革稔、そして憂が座っていた。なぜこう集まっているかというと、𧲸革のことを深く知ってしまった今、ここの当主である慶三には全てを話す必要があった。
くだらないことをするな、𧲸革のことを詮索するな、そんな風に言われる可能性もあったが、慶三にも知ってもらわなくてはならない真実だ。巽は数日後にまた海外に戻ってしまう。その前に𧲸革の事を話す必要があった。


『父さん、話がある』

『なんだ改まって』


まず、開口一番口を開いたのは巽である。
しかしあまりに情報が多すぎて、何から切り出せばいいのか考えあぐねている様子だ。なぜなら叔父である𧲸革雅良は追放された身であり、言ってしまえば慶三にとって憎むべき相手となる。そんな話をいきなり口にしたら困惑するのは当然のことだ。
最近の慶三といえば、加齢に伴いあまり体の調子が良くない。突然、大きな情報を与えて心身共に弱くなってしまう可能性もあるから余計に難しい。


『憂と先見ノ華のことだよ』

『……』

まずは先に慶三も知っている情報の一つである先見ノ華のことを話し始めた。それは祖母である百合子と母である沙羅、そして憂のことに繋がってくるものだからだ。


『俺たちなりに、先見ノ華と𧲸革の事を調べさせてもらったよ……父さんも知らない事まで…だから、それを伝えたい。』


『ふむ……なかなかに難しい話のようだ』

巽の態度に何ら違和感を抱かず、慶三はゆっくり縦に顔を動かした。難しい話という言葉尻には、何か勘づいているかのような含みさえ感じる。ドッシリと構えるその様子は、さすが𧲸革の当主ということだろうか。続けて巽は話をする。稔や詩經から聞いたことや、文献に載っていた事を踏まえて。


『まず、先見ノ華は𧲸革の血筋にしか発現しない。これは、𧲸革の文献に載っていた。父さんは多分知らないよね』


『……』


根本的な闇の追求。慶三がこの事実を知らなければ、この成り立ちは𧲸革銀次、つまり慶三の父の代か𧲸革源三の代から隠されていたということだ。
これは厳重保管されていた棚の奥にあった古びた雑記帳の手記に書いてあったことである。先見ノ華のことが書いてあった文献であるが、慶三が知っている情報よりも深く書かれているものだった。
それを何故、詩經が知っていたかは解らないが、普段、親に言われるまま従い続けて生きていたのであれば、ここまで深く知ることは調べようとしなければ到底、知る事が出来ないものなのだろうと思う。


『調べた事もないよね。きっと』


『……そうか、そうだったのか…確かに、わしが沙羅を迎え入れた時、父が言っていた。𧲸革の血は貴重で絶やすことは出来ないと。そして沙羅は遠縁の血族だと……だが、それが当たり前だと生きてきたから、何も疑問に思わなんだ。そうか……それならば、お前は…』


『そう、憂は𧲸革の血族だ』

それを巽が言い切った後に憂が一つ、頭を下げて当主に敬意を払う。自分の親である𧲸革雅良は慶三の兄であり、複雑なところであるが慶三は憂の叔父にあたる。更にはその最愛の妻である沙羅の子供で巽と同時に産まれた女子だなんて誰が信じるのか。巽は従兄弟でもありながら血を分けた兄弟でもあるなど自分の存在が忌むべきものだと理解しているからこそ辛く、重くのしかかるがそっと瑠璃色ノ簪をテーブルの上に置いた。その簪を見るや慶三は驚きを隠せない様子で巽と稔と同じ色の瞳を丸くする。久しく見つからなかった探し物が漸く見つかったかのような驚きと嬉しさに満ちていた。


『それをどこで…』

『やはりご存じでしたか…』

瑠璃ノ簪は、沙羅が大切にしていたもの。そう聞いていたので、もちろん沙羅が己で購入し、ずっと持っていた大切な物だったという可能性もあるが、もしかしたら慶三が沙羅に贈ったものだったのでは無いだろうかと考えた。慶三は沙羅を愛していたし沙羅もまた慶三を愛していたという。贈り物の一つ贈りあってもなんらおかしく無い夫婦の絆。そうであれば、そちらの方が納得いくというものだ

『これは……伽倻子様から頂戴したものです。沙羅さんが……渡して欲しい子……その子が現れるまで伽倻子様に持っていて欲しいと……保管していたそうです。』

暫し険しい顔をして眉間に皺を寄せていた慶三は、その後に憑き物が落ちたかのように穏やかな風貌のそれへと変わった。今まで気がかりだった事も悩みも全てが溶けて無くなってしまったかのように

『それが、お前なのか……』

『…』

辺りが沈黙に包まれると、慶三は重たい口を開きこう言った。


『愛おしい者が隠し事をしていると、やはり解るものなんだな。もしや……とは思っていたが本当にそうなのだな…巽が産まれた年から沙羅の様子は変だった。巽を抱えながらもいつも窓の外を見て物思いに耽っている姿は今も印象的だ。どうしたのかと尋ねても当の本人はなにも言わん。わしの兄が沙羅に手を出したことは知っておったし……まさかその時の繋がりが偶然にも重なってしまっていたとはな…憂、お前を初めて見た時から沙羅の生き写しかと思ったぐらいには……お前は沙羅に酷似しておる…お前の父が今は亡き兄だというのは……いささか複雑じゃがな……』


『……慶三様……お話,聞いてくれてありがとうございます』


話を終えた慶三は、憂からの礼の言葉を背に受け千夜子に連れられてその場を去った。この時から𧲸革家の成り立ちは大きく変わっていくことになる。
あんなに元気だった慶三は今までのことが嘘かのように𧲸革の表舞台から降りた。実質、息子である巽と稔が𧲸革全てを引き継ぐことになった。出自がわかった憂に関して慶三はもう何も言わず、ただ沙羅の名残を持って産まれた少女を娘のように扱うようになった。


巽はまた留学先に戻ることになった。
彼曰く、まだ色々調べたいこともあるし、詩經に関しての懸念も頭にはあったが先ずは一人前になって帰ってくると、しばしの別れに想いを馳せて憂を稔に託し去っていったのだ。

 
憂といえば乃木園の家の養女になるという話もあったが、もはや𧲸革の出自だとわかった以上、憂の戸籍は名実ともに𧲸革となる。慶三がそう手配したのだ。今まで𧲸革で行っていた花嫁修行は、伽倻子に会いに行くという約束を果たすためにも、ぜひうちで行ってくださいなという伽倻子の好意に甘え乃木園の屋敷にお世話になると憂が決めた。𧲸革憂…一人の淑女として、𧲸革家の娘になったのである。そうして新しい人生を歩み始めた。
稔は学校に通いながら医学の勉強を始めた。進級するときには医学部の方へ進むらしい。ちょうど数年前に流行ったスペイン風邪の流行自体は治ってはいたが、将来性を考えての決断だった。




『おはよう……お母様、私今日から新しい人生を歩むわ。』



ーー……母である沙羅から受け継いだ瑠璃の簪は憂の部屋の机の上にひっそりと飾られているのだった。そしてもう一つ。



『慶三様、これは』

『ふむ、巽と稔の祖父母……わしの父と母が住んでおったあの屋敷の鍵だ。お前に鍵を託そう。何か調べたいことがあるんじゃろう』


『ありがとうございます』

数日前,慶三から預かった、あの開かずの屋敷となっている立派な建物。……巽と稔の祖父と祖母が住んでいたであろう屋敷の鍵はその真実を伝える為に今か今かと光り輝いているのだった。














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