2 / 10
⌘第一幕⌘ 出会いと別れ編
第ニ夜 シャル・ウヰ・ダンス
しおりを挟む
憂ちゃん…憂ちゃん……
幾度も幾度も少女の名前を呼ぶ声がする…。
それは遠い遠い所から聞こえてくる声であるも、少しずつ近くなっていく。その声色はとても優しい。
『憂ちゃん!』
『はいっ!?』
ーー帝都の一角にある、喫茶パーラー夢日和
昼食時の忙しい時間帯が過ぎて、客足も疎らになって喫茶店が落ち着き始める頃。学校が終わったら迎えに来ると約束をしていた巽がいつもの学生服と裾の長い外衣を羽織り憂の前に立っていて存在に気づいて欲しいと言わんばかりに彼女の顔前で手を振っていた。
『迎えに来たよ』
『あ!ありがとうございます、巽様!』
『それやめて?ね、憂ちゃんには巽って呼んでほしいな、あと俺たち同い年でしょ憂ちゃんには普通に呼んでほしいし敬語禁止ね』
身分差もあり彼女が巽の事を様付けで呼ぶのは当たり前のことだが、当の本人である巽から制止の言葉を紡がれると憂は思わず首を傾げた。
『やめてとは……』
『名前、巽様なんて堅苦しいよ、友達同士が呼んでいるみたいに憂ちゃんにも巽って呼んで欲しい』
どうやら彼がやめてと言った言葉の意味としては、彼の名前の呼び方の事だったらしく、お願いと強請られる様は思わず母性本能をくすぐられてしまうけれど問題は巽の端正な顔が憂の顔の間近に迫ることだ。巽も稔も誰が見ても美丈夫で目を惹く。そんな彼からお願いをされてしまうと断りようにも断りづらくなってしまうのだ
『え、でもそれは……巽様のご身分を考えると……』
『憂ちゃんに巽って呼んでほしい。お願い』
友人のように気さくに呼んで欲しいと言われても、なかなか難しい部分もあり拒否をしようと考えるものの当の彼はその涼しげな優しい瞳で憂の瞳を捕えて離さなかった。それゆえに、嬉しいという気持ちもあるからこそ自然な流れで承諾を述べていた。
『…巽、くん……あの、二人だけの時だけで、いいでしょうか。』
『ん、ありがと憂ちゃん二人の時だけは普通にしてて、ありのままの君で』
巽の大きな温かい手が憂の流れる黒髪を優しく撫でた、憂はその温もりを身に感じて思わず気の抜けたような笑顔を浮かべる。
『…っ…可愛い……』
巽は彼女の笑顔に弱い。思ったままを口にする彼の言葉に彼女は照れる。そんなやりとりをして二人笑い合ったあと、その日は早めに仕事を上がらせてもらえたことで彼女は巽と町に出た。
ー何処からか賑やかで涼しげな鈴の音が聞こえてくる。
十二月二十五日は銀座祭という雪のお祭りがあり、外国ではクリスマスというらしい。
すっかり西洋のその町並みに憂は瞳を輝かせた。憂は祭というものを経験したことがなく、実際いま来ているここ銀座の町並みは浮き足立つ思いになるほどの賑わいを見せているから余計である。
『すっかり祭モードだね』
『本当ですね!でも、いいなあ、この雰囲気…楽しい』
『はは、また敬語になってるよ。』
『っあ、ごめんなさい』
慣れていないというのもある、突然敬語を禁止され様付けも許されない。今までの癖が完全に取り払えるわけでもないが、なるべく敬語にならないようにと努めて、なんとか自然体に巽と接することができるようになった。
巽と一緒に町を歩いているのが楽しい、祭囃子の賑わいが楽しい。
そう思えるようになった頃には少しの緊張感は解れていた。
憂の楽しいという感情は巽にも伝わっているようで、終始笑顔の彼も今は𧲸革財閥の子息という肩書きを忘れられているならいいと憂自身そんな風に願った。
一人の男性と女性みたいに……と。町並みに瞳を奪われていた憂を他所に、巽は一つの店の中に入っていって、数分後に戻ってきたと思えば、両手に可愛らしい硝子細工の器を乗せていた。
器に入っていたのは、真っ白く雪のようなもの。
とても甘い香りが鼻腔を擽り、これはなあに?と言いたげな、愛らしい少女のように首を傾げている憂の手を取り持っていた器を冷たい手のひらへと乗せて口を開く。
『あいすくりぃむっていう、西洋の氷菓子。甘くて美味しいんだ、さすがに今の時期は寒いかもしれないけど、これはジェラアトっていうんだって。』
『ジェラアト!お洒落な名前!あ、私のぶん払います!』
『ああ、いいよいいよ気にしないで、俺が憂ちゃんに食べさせたかっただけだからさ』
お洒落な氷菓子は高級なものと言われていたし、外国でも貴族が食べるものだと認識されているほどのものだった。だからこそ巽がくれた言葉には申し訳なさも感じてはいたが、同時に感謝もしたのだった。
ー二人が向かった先は𧲸革家御用達の仕立て屋である。そこの店主がまた快活明朗な個性的な人物だった。
『アラアラ、とっても可愛い子ねえ巽ちゃん!』
『こんにちは菊次郎さん』
琴宮 菊次郎、仕立て屋菊の店主だ。髪の色は色素の抜けた栗毛色。髪の長さは短めであり、右側は長めに、その当時では珍しいような髪型であって個性的。
視線は鋭く、その瞳は紅く何をも見透かしてしまいそうだ。
喋り方は女性的であり、何を考えてるか少々解らない性格であるが、思慮深く、周りを見回す目に長けており、人を観察し状況把握のできる人だった。
彼は愛妻家でもあり、妻に里枝という女性が居るが、実はその女性は花魁だった過去を持つ。菊次郎が身請けして一緒になり、今では夫婦でこの仕立て屋を切り盛りしているらしい。𧲸革家とは昔馴染みでもあるからこそドレスを仕立てる依頼をしやすいのだ。
『相変わらず菊次郎さんは面白いな』
『褒め言葉アリガト、それで?今日はそのお嬢さんのドレスのご依頼かな?』
『そう、この子に似合うとびっきりの夜会ドレスを仕立ててあげてほしい、すぐに用意出来そう?』
𧲸革家の夜会パーティーは一週間後であり、一刻も早く仕立ててもらう必要があった。菊次郎が憂の目の前に歩み寄り、その顎先を指で持ち上げ、顔を傾けたり瞳を覗き込んだりと衣装を仕立てる時の生地素材を選ぶかのように彼女を選定した。
『ふうん…アンタ、先見ノ華を持ってるね』
『……!?』
ふと菊次郎が呟いたのは聞いたことのない先見ノ華という言葉である。それを聞いた巽が首を傾げるものの憂の顎を持ち上げていた手を離し柔く微笑みかけて菊次郎は離れた。憂といえば暫し硬直して動けないようだったが…
『里枝~』
『は~い』
彼が妻である里枝という名前の女性を呼ぶと、柔らかな雰囲気を纏いその女性はやってきた。色白のきめ細かい肌と漆黒の髪を持つ女性である。その女性は着物を着ていたが、その反物で仕立てられた着物は上等なものだ。気品に溢れていて里枝という女性に良く似合っていた。
『このお嬢さんの採寸をお願いするわね』
『はーい、お嬢さん、こっちの部屋にどうぞ!』
菊次郎が憂の採寸を彼の妻である里枝にお願いすると、奥の部屋に連れていかれる憂は少々戸惑いを見せていたが、巽が微笑んで大丈夫だよ安心して行っておいでと彼女の背中を押してあげると安堵したような表情を浮かべていた。その表情にまた巽は心を踊らせるけれど、同時に落ち着かない気分になるのだった。
その場に残るのは菊次郎と巽だったが、菊次郎がふと巽へと耳打ちをする。
『巽ちゃん、あの子…ちょっと特殊じゃない?昔聞いた事のある話に出てきた女性と全く同じ瞳をしていたわ』
『……!』
それは今まで巽しか知らなかった事だ。憂には……とある能力がある。
『菊次郎さん……それは』
『大丈夫よ、誰にも言やあしないわ、ただ…あの子はきっと人一倍苦労も絶えないでしょう』
菊次郎が言わんとしている事は何となく解る巽は小さく小さく頷いた、それが肯定。人一倍信頼に値する相手、菊次郎に知られたのはまだ幸いだったが…
『あの子はきっと真紅のドレスが似合いそうだから、深みのあるワインレッドでベルベット生地で仕立てさせてもらうわね』
『よろしく頼みます』
巽が憂を幸せにしたい、一緒になるのなら彼女でなくてはダメだという理由の一つとして絡んでくるのが先程の事だった。
憂は…先が視える…
採寸をしている憂を待ちながら巽は昔、幼い頃を思い出していた。
まだ五つかそこらの時の事だ。名前は知らない。なぜか𧲸革家の庭に遊びに来ては暫く遊んで何処かに帰っていく。そんな不思議な少女だった。その少女に巽は助けられたことがある……寒い寒い冬のこと。ちょうど今ぐらいの時期だっただろうか?幼いながらその少女を楽しませたい故に、いつもとは違うことをしたかったのが当時の巽の記憶として残っている。
親にも稔にも内緒で町に出た。今思えば恐れ知らずの子供だったと思う程。……憂の不思議な能力を知ったのは、その時だった。一緒に町に出て、すっかり気持ちが浮き足立つと、当時の巽は周りが見えなかった。自分に迫ってる身の危険も解らない子供だったから、命の危険というものを理解していなかった。政界を揺るがす𧲸革家当主の息子、貂革巽の顔が知られていない筈もない。その子供を誘拐するだけで莫大な金が請求できる。ましてや貂革巽は長男で、𧲸革家の総跡取りであるのだから。子供を拉致するのなど大人の手が一つあれば事足りるものだ。その危険を伝えてくれたのが憂だった。
『だめ!その先に行ったらだめよ!キミが危ない、こわい人に連れてかれる!』
『え?なにいってんの?大丈夫だよ!』
『だめなの!わたし、先が見えるのっ、お店のカドから覗いてる……』
半信半疑で幼い巽が店の角に目を凝らすと、男が数人集まっていて此方の様子を伺ってるような素振りをしているのだった。しかも、それだけではなく、道なりを歩いていると憂が注意するところ全て彼女が言葉にした事と一致する出来事が起こっていた。
例えば、この先の道に進んだら毒のある草に触れて病気になってしまうとか、こちらの道に行ったら迷ってしまって夜まで帰れないとか……最初は巽でさえ次々に先読みできるその憂の能力に怖いという気持ちもあったが、然し見れば見るほど彼女は普通の女の子だ。どんなに忘れようとしても忘れられなかった少女。巽を守っていた少女。
そして…、やがては守られてばかりではなく、巽自身が彼女を守ってあげたい。そう思うようになったのが始まりだった。
そんな少女が目の前から消えたのは巽が齢八になる頃合いだった……結局少女の名前も聞けずじまいだったが、華が咲いたような光輝を放つ深紅の瞳は印象的で脳裏に焼き付いていて、成長して行動範囲が広がった頃、喫茶パーラー夢日和の話を聞いた。不思議な色味の瞳をもつ女性が働いていると。その面影は確かに幼い時に一緒に居た少女で、なによりその深紅の瞳が巽がかつて、好きだと守りたいと思った一人の少女のものだった。再会するや、すぐに心は奪われた。なぜなら彼女はとても綺麗になっていたから…
『お待たせしました~』
しばし巽が過去に耽っていて間もなく、快活な声が聞こえて来たと思ったなら奥まった部屋から菊次郎の妻である里枝に連れられて、憂が帰ってきたのだ。
『お帰り、憂ちゃん』
『……ただいま、です!』
巽の元に帰ってきた少女は困ったようにも見えるが何処か安堵した表情を浮かべており、一見その様子は普通に見えたが明らかに元気の無い様子だったのが気がかりだった。
菊次郎に言われた彼女の秘密が露見してしまったからだろうか、憂の心が読めるわけでも無いからこそ不安にもなるし、心配にもなっていた。取り急ぎ店から出て行くことにして、次は靴屋へと足を運ぶ。ドレスを仕立ててもらうならそれに見合う靴と髪飾りも選びたい。そんな気持ちになりながら先に行動を起こしたのは巽だった。
『じゃあ、菊次郎さんよろしくお願いします』
『はーい、任せて。すぐ出来上がると思うわ』
一言別れの挨拶を済ませ、二人は仕立て屋を後にした。巽は憂の様子を伺って、そっと手を伸ばすと、外気温に晒されて冷たくなってしまっている彼女の手を取り握りしめた。少しでも彼女の不安や心配が緩和されたらいいと願うばかりで…手を握った刹那に一瞬肩を揺らし反応を示す彼女の手を包みこみ、自然な流れで真紅の瞳を覗き込む。言葉を紡いだのは憂の方。
『…巽くん……』
『どうしたの?』
『ううん!沢山色々なことをしてくれて、ありがとう…』
それは彼女の最大限の感謝なのだろう。巽の手を握る手がその感謝を確かに伝えており、ありがとうと呟いた。
『俺がしたいからいいんだよ。』
巽も憂の手を握り返して、確かにはっきりと頷き愛しさを込めた声で伝えると彼女は俯いた。どうして?そんな事を問うてみても、きっと答えは返ってこない気がして、ただただ町中を歩いていた。寒い冬が確かに足音を立てて迫ってくる師走の中頃……。
ーーーそれから一週間後……
𧲸革家で開かれる大夜会は大勢の政治関係者で賑わいを見せており、ある人は妻を。またある人は同行者を連れて𧲸革家の大きな大ホールに集まった。
『今宵の宴は𧲸革家長男の奥方になる人を決めるパーティーでもあるらしい。』
『新しい御当主に胸が高鳴りますわ……』
至る所でそんな言葉が聞こえてくるのだ。
巽は優しく丁寧で、その物腰の柔らかさに相まって賢く見目麗しいといえる容姿であるために華族の令嬢達に人気でもある。
あんな人と結ばれるならば、この先の人生を捧げてもいいという女性も居るぐらいだ。下手をすれば既に結婚をしている奥方でさえも彼の愛人になりたいだのと渇望を抱くほど。そんな将来有望な𧲸革の長男が見初める女性はどんな人だろうと、虎視眈々と、チャンスを狙っている。
『巽ちゃん、出来たわよ~?』
巽と憂は、あの依頼以後ちょうど夜会の数時間前に仕立て屋菊に赴いていた。憂のドレスを取りに来たのだ。巽もスーツを新調してもらったのもあり、仕立て屋でそのままドレスアップをしてから、巽のエスコートで憂がパーティー会場に入る。という流れとして予定していたところで、最終調整で巽と憂のドレス裾合わせをしていたところで菊次郎の声がかかる。
『菊次郎さん、憂ちゃんもいい感じにできましたよ』
巽の裾合わせをしたのは菊次郎で、憂の裾合わせをしたのは里枝だった。真紅のベルベット生地で仕立て上げられた薔薇の花弁の様なドレスは幾重に重なって柔らかそう。フワリとする中にも重厚感のある厚手のドレスは肌触りの良いもので、右側の肩から胸辺りまであしらわれている飾りは赤と青と白の薔薇の花。それがとても映えるものとなっていて、腰には大きな薔薇のように幾重に重ねられているリボンだ。漆黒の髪はサイドを少し残す形に後頭部に花弁のように纏め上げている。まるで頭に花が咲いてる様。化粧は薄塗りながらも、伏し目がかる睫毛は濡れてるように艶やかに伸び、深紅の瞳を引き立てる。唇は赤く、普段よりも大人っぽい。そんな憂を見た巽は、しばらく瞳を逸らせなかったらしい。
『憂ちゃん、すごく綺麗だよ…きっと今、世界一輝いてる美しい人。』
『……ありがとう。巽くん』
そのまま二人は𧲸革の邸宅へ行った。𧲸革の長男が連れてきた女性と、一躍話題になり誰しもがその相手である彼女を見た。最高級のドレスに身を包み、やってきた煌びやかにも何処か艶ある女性。どの殿方が見ても立派な令嬢である姿に。周りの目は釘付だった。一人……とても険しい表情で二人を見つめている男性以外は。
『巽よ、そのご令嬢は?』
『…父上、俺の結婚したい相手です。』
『……!?……巽様!?』
厳格な表情で此方を真っ直ぐ見つめてくる初老の男は、巽と稔の父親だ。巽が声に出した言葉は憂にも衝撃を与えるが、同時に初老の男性にも衝撃を与えた。思わず憂が巽に対して言葉の制止を促し身を乗り出しそうになるが、逆に巽の手に制されてしまったのだ。
『爵位は?どこの身分のお嬢さんだ』
事細かくも憂の身分を聞いてくる男の顔は少しずつ険しいものになるが、それに負けじと巽も一つ一つの質問に答えを返す。これで迷いを見せる様なら、その男に流されてしまうからだった。
『俺が知り合った町の娘です。』
『何?町娘だと……それを許すと思うのか』
『いいえ、許されるとは思ってない』
『ならば何故だ。お前の婚約者は由緒正しき家系の令嬢と決まっておる。』
『思慮深く……聡い俺の父親ならば、俺の言わんとすることは解るのでは?…話によっては、あの話考えてもいい』
巽と初老の男性のやり取りは、やがて商談の様な雰囲気になっていく。周りはすっかりと意気投合し、ダンスを始めたというのに、その空間だけが灼けつくようにピリピリとしている。
『巽…わしを相手に取引を持ちかけるというのか。』
『……ああ、一人の男としてね。』
巽は、とある話を父親としていた。それは𧲸革家を見据えた一つの計画によるものであるが同時に暫く日本から離れなくてはならないものでもある。それつまり、留学し最先端の技術や考えを持ち合わせる亜米利加で経営学などを学ぶというものだが、巽はそれを渋っていたのだ。彼女、憂のことがあるからこそ日本を離れられなかった。然し憂を婚約者と認めてくれるならば謹んでその話を受けるという。父親が𧲸革家当主にしたい巽の洞察力と賢さと憂の価値を同等の物だと秤にかけた。
しかし、自分が居なくなったあとで、改めて婚約者としての憂の権利を剥奪されないという確証もない。
だからこそ巽は𧲸革家の持っている株を一つ自分の物にした。そこが巽の賢いところでもあり、同時に頭が切れるところでもある。もし憂が婚約者としての権利を剥奪される事があるとするなら、その株自体を手放し、𧲸革を捨てて自身で事業を立ち上げるという。そんな商談を持ちかけた。一見脅しのようにも取れるが、巽は既に外資系商談を自分自身で幾つも取り付けていたのだ。実質、𧲸革家の繁栄は老齢により満足に動けなくなってしまった現当主である父親よりも、巽が請け負ってる部分も多々ある。まだ大学二年生の青年が…。そうしてその能力を宝としている父親は、更に経営学の知識を巽に付けさせたく、留学させたいと考えていたのだ。
『むむ……』
『悪い話じゃないでしょう?父上は俺の能力を買ってるからこそ、その話を持ちかけた。けれど…俺は…彼女と自分を天秤にかけるよ。』
憂はただ、姿勢を低くし頭を下げているしかない。自分が話をするところではないというのもあれば、巽と初老の男性の話がどんなものかも知らないからである。そうして暫し、息苦しいような空気感の中で無言だった男性が口を開いた
『…認めるか認めないかは、わしが決めること。お前の話は解った。が……そのお嬢さんのことも試させてもらおう。今宵の話はここまでよ。千夜子!』
『はい』
『わしは少し休む。水と薬をもってこい。そのあとに巽を当主にするという発表を行う…』
『畏まりました』
千夜子、と呼ばれた老齢の女性は此処、𧲸革で長年勤めてきた家令である。家令とはその屋敷にて住み込み給仕を勤める者達の主人であり、台所番を預かる女主人だ。奥方が亡くなった今、𧲸革慶三、現当主の部屋に出入り出来るのは、女主人である彼女だけであり、おそらく慶三が一番信頼を置いている女性だろう。当主には敵が多すぎる…それが常に千夜子が言っていた言葉だった。
『…憂ちゃん』
『はい……?!』
慶三と千夜子が別室に赴く背中を見送って後、巽がそっと憂の肩に手を置いて立ち上がらせた。彼女を呼ぶ声はとても優しいもので、先程まで父親と呼ぶ男性と対峙していた時とは、声も面持ちも違う。その空気感だけで、どれだけ気を張っていたのか誰が見ても理解出来るほどだろう。
『……シャル・ウヰ、ダンス?……ね、俺と踊ってくれませんか……誰より先に、憂ちゃんと踊りたいんだ。』
慶三が去り際に、数刻の後、𧲸革にとって重大な発表がある。数刻の間、食事とダンスを楽しんでいただきたいと、一つの言葉を残して去っていったので、それまではいわば自由な時間ということだ。もちろん巽や稔をダンスの相手にと色めき立つ女性は多くあったが、その前に先に憂と踊りたいと申し出る彼の瞳を逸らすことなど憂には出来ず、柔らかな動作で巽に掬い上げられる手を憂も握り返した。
……タンタンとリズム感のある音楽が奏でられると巽の手が憂の腰に当てられ、彼女の片手は彼の肩に。目の前にある端正な顔は…嘘偽りもなく自分を想ってくれていると先程の会話の中で見えてしまったからこそ真っ直ぐに巽の顔を見れない自分もいて、憂は戸惑う
『先程の…婚約の話は……』
『…俺は君が好きだから……俺がね、憂ちゃんを幸せにしたいんだ。勝手でごめん……でも、君は俺を助けてくれた。幸せをくれてる……だから俺も君に幸せをあげたい』
『今でも充分に…幸せ貰ってるのに……っ、ダメ、です。そんな私は……』
何故、自分なのだろう?何故…?困惑している彼女にとって、巽からの言葉は真っ直ぐに偽りのないものだった。その言葉にどれだけ胸が締め付けられるか彼は知らない。
『どうして?君は俺が嫌い?』
『そうじゃ、なくて……私は!……巽、さまっ』
ダンスをしながら、思わず口籠る答えを巽は求めてくる。けれどその答えを述べさせてくれないのも巽だった。ステップを踏んで自然な流れで壁際に寄せられる体は、ダンスに心酔している貴族達は気づかない。やがて完全に壁際へと押しつけられる憂の身体は彼の腕によって閉じ込められ、彼の手のひらが彼女の両瞳を覆った。
『俺はずるいから……答えを出させてあげないんだ。けどね、…君が不幸になる未来は、今は見なくていい。見ないで。俺が守るから』
『それは…、っ……!!?』
憂の背中から腰にかけての曲線をなぞり、巽が彼女の腰リボンの中から出したのはナイフだった。果物ナイフだろうか。細身のそれを憂が隠し持っていたのだ。それを何に使うかは彼の知るところではなく、知りたくもない事実だったが、それを問いただすつもりは彼には無かった。彼女には事情がある……と漠然と思った。
八歳の頃、突然目の前から消えた彼女……そうして、歳月を経て突然目の前に現れた彼女。しかしどんなに月日が経とうとも、巽の愛しい女性に変わりはなく、その全部を受け入れて幸せにしたいと願う。なぜなら昔も今も自分と接してくれる彼女の笑顔だけは…花が咲き誇るようなその優しい笑顔だけは変わらなかったからだった。
『今夜だけは俺と踊り続けてて』
第二夜 シャル・ウヰ・ダンス 完
幾度も幾度も少女の名前を呼ぶ声がする…。
それは遠い遠い所から聞こえてくる声であるも、少しずつ近くなっていく。その声色はとても優しい。
『憂ちゃん!』
『はいっ!?』
ーー帝都の一角にある、喫茶パーラー夢日和
昼食時の忙しい時間帯が過ぎて、客足も疎らになって喫茶店が落ち着き始める頃。学校が終わったら迎えに来ると約束をしていた巽がいつもの学生服と裾の長い外衣を羽織り憂の前に立っていて存在に気づいて欲しいと言わんばかりに彼女の顔前で手を振っていた。
『迎えに来たよ』
『あ!ありがとうございます、巽様!』
『それやめて?ね、憂ちゃんには巽って呼んでほしいな、あと俺たち同い年でしょ憂ちゃんには普通に呼んでほしいし敬語禁止ね』
身分差もあり彼女が巽の事を様付けで呼ぶのは当たり前のことだが、当の本人である巽から制止の言葉を紡がれると憂は思わず首を傾げた。
『やめてとは……』
『名前、巽様なんて堅苦しいよ、友達同士が呼んでいるみたいに憂ちゃんにも巽って呼んで欲しい』
どうやら彼がやめてと言った言葉の意味としては、彼の名前の呼び方の事だったらしく、お願いと強請られる様は思わず母性本能をくすぐられてしまうけれど問題は巽の端正な顔が憂の顔の間近に迫ることだ。巽も稔も誰が見ても美丈夫で目を惹く。そんな彼からお願いをされてしまうと断りようにも断りづらくなってしまうのだ
『え、でもそれは……巽様のご身分を考えると……』
『憂ちゃんに巽って呼んでほしい。お願い』
友人のように気さくに呼んで欲しいと言われても、なかなか難しい部分もあり拒否をしようと考えるものの当の彼はその涼しげな優しい瞳で憂の瞳を捕えて離さなかった。それゆえに、嬉しいという気持ちもあるからこそ自然な流れで承諾を述べていた。
『…巽、くん……あの、二人だけの時だけで、いいでしょうか。』
『ん、ありがと憂ちゃん二人の時だけは普通にしてて、ありのままの君で』
巽の大きな温かい手が憂の流れる黒髪を優しく撫でた、憂はその温もりを身に感じて思わず気の抜けたような笑顔を浮かべる。
『…っ…可愛い……』
巽は彼女の笑顔に弱い。思ったままを口にする彼の言葉に彼女は照れる。そんなやりとりをして二人笑い合ったあと、その日は早めに仕事を上がらせてもらえたことで彼女は巽と町に出た。
ー何処からか賑やかで涼しげな鈴の音が聞こえてくる。
十二月二十五日は銀座祭という雪のお祭りがあり、外国ではクリスマスというらしい。
すっかり西洋のその町並みに憂は瞳を輝かせた。憂は祭というものを経験したことがなく、実際いま来ているここ銀座の町並みは浮き足立つ思いになるほどの賑わいを見せているから余計である。
『すっかり祭モードだね』
『本当ですね!でも、いいなあ、この雰囲気…楽しい』
『はは、また敬語になってるよ。』
『っあ、ごめんなさい』
慣れていないというのもある、突然敬語を禁止され様付けも許されない。今までの癖が完全に取り払えるわけでもないが、なるべく敬語にならないようにと努めて、なんとか自然体に巽と接することができるようになった。
巽と一緒に町を歩いているのが楽しい、祭囃子の賑わいが楽しい。
そう思えるようになった頃には少しの緊張感は解れていた。
憂の楽しいという感情は巽にも伝わっているようで、終始笑顔の彼も今は𧲸革財閥の子息という肩書きを忘れられているならいいと憂自身そんな風に願った。
一人の男性と女性みたいに……と。町並みに瞳を奪われていた憂を他所に、巽は一つの店の中に入っていって、数分後に戻ってきたと思えば、両手に可愛らしい硝子細工の器を乗せていた。
器に入っていたのは、真っ白く雪のようなもの。
とても甘い香りが鼻腔を擽り、これはなあに?と言いたげな、愛らしい少女のように首を傾げている憂の手を取り持っていた器を冷たい手のひらへと乗せて口を開く。
『あいすくりぃむっていう、西洋の氷菓子。甘くて美味しいんだ、さすがに今の時期は寒いかもしれないけど、これはジェラアトっていうんだって。』
『ジェラアト!お洒落な名前!あ、私のぶん払います!』
『ああ、いいよいいよ気にしないで、俺が憂ちゃんに食べさせたかっただけだからさ』
お洒落な氷菓子は高級なものと言われていたし、外国でも貴族が食べるものだと認識されているほどのものだった。だからこそ巽がくれた言葉には申し訳なさも感じてはいたが、同時に感謝もしたのだった。
ー二人が向かった先は𧲸革家御用達の仕立て屋である。そこの店主がまた快活明朗な個性的な人物だった。
『アラアラ、とっても可愛い子ねえ巽ちゃん!』
『こんにちは菊次郎さん』
琴宮 菊次郎、仕立て屋菊の店主だ。髪の色は色素の抜けた栗毛色。髪の長さは短めであり、右側は長めに、その当時では珍しいような髪型であって個性的。
視線は鋭く、その瞳は紅く何をも見透かしてしまいそうだ。
喋り方は女性的であり、何を考えてるか少々解らない性格であるが、思慮深く、周りを見回す目に長けており、人を観察し状況把握のできる人だった。
彼は愛妻家でもあり、妻に里枝という女性が居るが、実はその女性は花魁だった過去を持つ。菊次郎が身請けして一緒になり、今では夫婦でこの仕立て屋を切り盛りしているらしい。𧲸革家とは昔馴染みでもあるからこそドレスを仕立てる依頼をしやすいのだ。
『相変わらず菊次郎さんは面白いな』
『褒め言葉アリガト、それで?今日はそのお嬢さんのドレスのご依頼かな?』
『そう、この子に似合うとびっきりの夜会ドレスを仕立ててあげてほしい、すぐに用意出来そう?』
𧲸革家の夜会パーティーは一週間後であり、一刻も早く仕立ててもらう必要があった。菊次郎が憂の目の前に歩み寄り、その顎先を指で持ち上げ、顔を傾けたり瞳を覗き込んだりと衣装を仕立てる時の生地素材を選ぶかのように彼女を選定した。
『ふうん…アンタ、先見ノ華を持ってるね』
『……!?』
ふと菊次郎が呟いたのは聞いたことのない先見ノ華という言葉である。それを聞いた巽が首を傾げるものの憂の顎を持ち上げていた手を離し柔く微笑みかけて菊次郎は離れた。憂といえば暫し硬直して動けないようだったが…
『里枝~』
『は~い』
彼が妻である里枝という名前の女性を呼ぶと、柔らかな雰囲気を纏いその女性はやってきた。色白のきめ細かい肌と漆黒の髪を持つ女性である。その女性は着物を着ていたが、その反物で仕立てられた着物は上等なものだ。気品に溢れていて里枝という女性に良く似合っていた。
『このお嬢さんの採寸をお願いするわね』
『はーい、お嬢さん、こっちの部屋にどうぞ!』
菊次郎が憂の採寸を彼の妻である里枝にお願いすると、奥の部屋に連れていかれる憂は少々戸惑いを見せていたが、巽が微笑んで大丈夫だよ安心して行っておいでと彼女の背中を押してあげると安堵したような表情を浮かべていた。その表情にまた巽は心を踊らせるけれど、同時に落ち着かない気分になるのだった。
その場に残るのは菊次郎と巽だったが、菊次郎がふと巽へと耳打ちをする。
『巽ちゃん、あの子…ちょっと特殊じゃない?昔聞いた事のある話に出てきた女性と全く同じ瞳をしていたわ』
『……!』
それは今まで巽しか知らなかった事だ。憂には……とある能力がある。
『菊次郎さん……それは』
『大丈夫よ、誰にも言やあしないわ、ただ…あの子はきっと人一倍苦労も絶えないでしょう』
菊次郎が言わんとしている事は何となく解る巽は小さく小さく頷いた、それが肯定。人一倍信頼に値する相手、菊次郎に知られたのはまだ幸いだったが…
『あの子はきっと真紅のドレスが似合いそうだから、深みのあるワインレッドでベルベット生地で仕立てさせてもらうわね』
『よろしく頼みます』
巽が憂を幸せにしたい、一緒になるのなら彼女でなくてはダメだという理由の一つとして絡んでくるのが先程の事だった。
憂は…先が視える…
採寸をしている憂を待ちながら巽は昔、幼い頃を思い出していた。
まだ五つかそこらの時の事だ。名前は知らない。なぜか𧲸革家の庭に遊びに来ては暫く遊んで何処かに帰っていく。そんな不思議な少女だった。その少女に巽は助けられたことがある……寒い寒い冬のこと。ちょうど今ぐらいの時期だっただろうか?幼いながらその少女を楽しませたい故に、いつもとは違うことをしたかったのが当時の巽の記憶として残っている。
親にも稔にも内緒で町に出た。今思えば恐れ知らずの子供だったと思う程。……憂の不思議な能力を知ったのは、その時だった。一緒に町に出て、すっかり気持ちが浮き足立つと、当時の巽は周りが見えなかった。自分に迫ってる身の危険も解らない子供だったから、命の危険というものを理解していなかった。政界を揺るがす𧲸革家当主の息子、貂革巽の顔が知られていない筈もない。その子供を誘拐するだけで莫大な金が請求できる。ましてや貂革巽は長男で、𧲸革家の総跡取りであるのだから。子供を拉致するのなど大人の手が一つあれば事足りるものだ。その危険を伝えてくれたのが憂だった。
『だめ!その先に行ったらだめよ!キミが危ない、こわい人に連れてかれる!』
『え?なにいってんの?大丈夫だよ!』
『だめなの!わたし、先が見えるのっ、お店のカドから覗いてる……』
半信半疑で幼い巽が店の角に目を凝らすと、男が数人集まっていて此方の様子を伺ってるような素振りをしているのだった。しかも、それだけではなく、道なりを歩いていると憂が注意するところ全て彼女が言葉にした事と一致する出来事が起こっていた。
例えば、この先の道に進んだら毒のある草に触れて病気になってしまうとか、こちらの道に行ったら迷ってしまって夜まで帰れないとか……最初は巽でさえ次々に先読みできるその憂の能力に怖いという気持ちもあったが、然し見れば見るほど彼女は普通の女の子だ。どんなに忘れようとしても忘れられなかった少女。巽を守っていた少女。
そして…、やがては守られてばかりではなく、巽自身が彼女を守ってあげたい。そう思うようになったのが始まりだった。
そんな少女が目の前から消えたのは巽が齢八になる頃合いだった……結局少女の名前も聞けずじまいだったが、華が咲いたような光輝を放つ深紅の瞳は印象的で脳裏に焼き付いていて、成長して行動範囲が広がった頃、喫茶パーラー夢日和の話を聞いた。不思議な色味の瞳をもつ女性が働いていると。その面影は確かに幼い時に一緒に居た少女で、なによりその深紅の瞳が巽がかつて、好きだと守りたいと思った一人の少女のものだった。再会するや、すぐに心は奪われた。なぜなら彼女はとても綺麗になっていたから…
『お待たせしました~』
しばし巽が過去に耽っていて間もなく、快活な声が聞こえて来たと思ったなら奥まった部屋から菊次郎の妻である里枝に連れられて、憂が帰ってきたのだ。
『お帰り、憂ちゃん』
『……ただいま、です!』
巽の元に帰ってきた少女は困ったようにも見えるが何処か安堵した表情を浮かべており、一見その様子は普通に見えたが明らかに元気の無い様子だったのが気がかりだった。
菊次郎に言われた彼女の秘密が露見してしまったからだろうか、憂の心が読めるわけでも無いからこそ不安にもなるし、心配にもなっていた。取り急ぎ店から出て行くことにして、次は靴屋へと足を運ぶ。ドレスを仕立ててもらうならそれに見合う靴と髪飾りも選びたい。そんな気持ちになりながら先に行動を起こしたのは巽だった。
『じゃあ、菊次郎さんよろしくお願いします』
『はーい、任せて。すぐ出来上がると思うわ』
一言別れの挨拶を済ませ、二人は仕立て屋を後にした。巽は憂の様子を伺って、そっと手を伸ばすと、外気温に晒されて冷たくなってしまっている彼女の手を取り握りしめた。少しでも彼女の不安や心配が緩和されたらいいと願うばかりで…手を握った刹那に一瞬肩を揺らし反応を示す彼女の手を包みこみ、自然な流れで真紅の瞳を覗き込む。言葉を紡いだのは憂の方。
『…巽くん……』
『どうしたの?』
『ううん!沢山色々なことをしてくれて、ありがとう…』
それは彼女の最大限の感謝なのだろう。巽の手を握る手がその感謝を確かに伝えており、ありがとうと呟いた。
『俺がしたいからいいんだよ。』
巽も憂の手を握り返して、確かにはっきりと頷き愛しさを込めた声で伝えると彼女は俯いた。どうして?そんな事を問うてみても、きっと答えは返ってこない気がして、ただただ町中を歩いていた。寒い冬が確かに足音を立てて迫ってくる師走の中頃……。
ーーーそれから一週間後……
𧲸革家で開かれる大夜会は大勢の政治関係者で賑わいを見せており、ある人は妻を。またある人は同行者を連れて𧲸革家の大きな大ホールに集まった。
『今宵の宴は𧲸革家長男の奥方になる人を決めるパーティーでもあるらしい。』
『新しい御当主に胸が高鳴りますわ……』
至る所でそんな言葉が聞こえてくるのだ。
巽は優しく丁寧で、その物腰の柔らかさに相まって賢く見目麗しいといえる容姿であるために華族の令嬢達に人気でもある。
あんな人と結ばれるならば、この先の人生を捧げてもいいという女性も居るぐらいだ。下手をすれば既に結婚をしている奥方でさえも彼の愛人になりたいだのと渇望を抱くほど。そんな将来有望な𧲸革の長男が見初める女性はどんな人だろうと、虎視眈々と、チャンスを狙っている。
『巽ちゃん、出来たわよ~?』
巽と憂は、あの依頼以後ちょうど夜会の数時間前に仕立て屋菊に赴いていた。憂のドレスを取りに来たのだ。巽もスーツを新調してもらったのもあり、仕立て屋でそのままドレスアップをしてから、巽のエスコートで憂がパーティー会場に入る。という流れとして予定していたところで、最終調整で巽と憂のドレス裾合わせをしていたところで菊次郎の声がかかる。
『菊次郎さん、憂ちゃんもいい感じにできましたよ』
巽の裾合わせをしたのは菊次郎で、憂の裾合わせをしたのは里枝だった。真紅のベルベット生地で仕立て上げられた薔薇の花弁の様なドレスは幾重に重なって柔らかそう。フワリとする中にも重厚感のある厚手のドレスは肌触りの良いもので、右側の肩から胸辺りまであしらわれている飾りは赤と青と白の薔薇の花。それがとても映えるものとなっていて、腰には大きな薔薇のように幾重に重ねられているリボンだ。漆黒の髪はサイドを少し残す形に後頭部に花弁のように纏め上げている。まるで頭に花が咲いてる様。化粧は薄塗りながらも、伏し目がかる睫毛は濡れてるように艶やかに伸び、深紅の瞳を引き立てる。唇は赤く、普段よりも大人っぽい。そんな憂を見た巽は、しばらく瞳を逸らせなかったらしい。
『憂ちゃん、すごく綺麗だよ…きっと今、世界一輝いてる美しい人。』
『……ありがとう。巽くん』
そのまま二人は𧲸革の邸宅へ行った。𧲸革の長男が連れてきた女性と、一躍話題になり誰しもがその相手である彼女を見た。最高級のドレスに身を包み、やってきた煌びやかにも何処か艶ある女性。どの殿方が見ても立派な令嬢である姿に。周りの目は釘付だった。一人……とても険しい表情で二人を見つめている男性以外は。
『巽よ、そのご令嬢は?』
『…父上、俺の結婚したい相手です。』
『……!?……巽様!?』
厳格な表情で此方を真っ直ぐ見つめてくる初老の男は、巽と稔の父親だ。巽が声に出した言葉は憂にも衝撃を与えるが、同時に初老の男性にも衝撃を与えた。思わず憂が巽に対して言葉の制止を促し身を乗り出しそうになるが、逆に巽の手に制されてしまったのだ。
『爵位は?どこの身分のお嬢さんだ』
事細かくも憂の身分を聞いてくる男の顔は少しずつ険しいものになるが、それに負けじと巽も一つ一つの質問に答えを返す。これで迷いを見せる様なら、その男に流されてしまうからだった。
『俺が知り合った町の娘です。』
『何?町娘だと……それを許すと思うのか』
『いいえ、許されるとは思ってない』
『ならば何故だ。お前の婚約者は由緒正しき家系の令嬢と決まっておる。』
『思慮深く……聡い俺の父親ならば、俺の言わんとすることは解るのでは?…話によっては、あの話考えてもいい』
巽と初老の男性のやり取りは、やがて商談の様な雰囲気になっていく。周りはすっかりと意気投合し、ダンスを始めたというのに、その空間だけが灼けつくようにピリピリとしている。
『巽…わしを相手に取引を持ちかけるというのか。』
『……ああ、一人の男としてね。』
巽は、とある話を父親としていた。それは𧲸革家を見据えた一つの計画によるものであるが同時に暫く日本から離れなくてはならないものでもある。それつまり、留学し最先端の技術や考えを持ち合わせる亜米利加で経営学などを学ぶというものだが、巽はそれを渋っていたのだ。彼女、憂のことがあるからこそ日本を離れられなかった。然し憂を婚約者と認めてくれるならば謹んでその話を受けるという。父親が𧲸革家当主にしたい巽の洞察力と賢さと憂の価値を同等の物だと秤にかけた。
しかし、自分が居なくなったあとで、改めて婚約者としての憂の権利を剥奪されないという確証もない。
だからこそ巽は𧲸革家の持っている株を一つ自分の物にした。そこが巽の賢いところでもあり、同時に頭が切れるところでもある。もし憂が婚約者としての権利を剥奪される事があるとするなら、その株自体を手放し、𧲸革を捨てて自身で事業を立ち上げるという。そんな商談を持ちかけた。一見脅しのようにも取れるが、巽は既に外資系商談を自分自身で幾つも取り付けていたのだ。実質、𧲸革家の繁栄は老齢により満足に動けなくなってしまった現当主である父親よりも、巽が請け負ってる部分も多々ある。まだ大学二年生の青年が…。そうしてその能力を宝としている父親は、更に経営学の知識を巽に付けさせたく、留学させたいと考えていたのだ。
『むむ……』
『悪い話じゃないでしょう?父上は俺の能力を買ってるからこそ、その話を持ちかけた。けれど…俺は…彼女と自分を天秤にかけるよ。』
憂はただ、姿勢を低くし頭を下げているしかない。自分が話をするところではないというのもあれば、巽と初老の男性の話がどんなものかも知らないからである。そうして暫し、息苦しいような空気感の中で無言だった男性が口を開いた
『…認めるか認めないかは、わしが決めること。お前の話は解った。が……そのお嬢さんのことも試させてもらおう。今宵の話はここまでよ。千夜子!』
『はい』
『わしは少し休む。水と薬をもってこい。そのあとに巽を当主にするという発表を行う…』
『畏まりました』
千夜子、と呼ばれた老齢の女性は此処、𧲸革で長年勤めてきた家令である。家令とはその屋敷にて住み込み給仕を勤める者達の主人であり、台所番を預かる女主人だ。奥方が亡くなった今、𧲸革慶三、現当主の部屋に出入り出来るのは、女主人である彼女だけであり、おそらく慶三が一番信頼を置いている女性だろう。当主には敵が多すぎる…それが常に千夜子が言っていた言葉だった。
『…憂ちゃん』
『はい……?!』
慶三と千夜子が別室に赴く背中を見送って後、巽がそっと憂の肩に手を置いて立ち上がらせた。彼女を呼ぶ声はとても優しいもので、先程まで父親と呼ぶ男性と対峙していた時とは、声も面持ちも違う。その空気感だけで、どれだけ気を張っていたのか誰が見ても理解出来るほどだろう。
『……シャル・ウヰ、ダンス?……ね、俺と踊ってくれませんか……誰より先に、憂ちゃんと踊りたいんだ。』
慶三が去り際に、数刻の後、𧲸革にとって重大な発表がある。数刻の間、食事とダンスを楽しんでいただきたいと、一つの言葉を残して去っていったので、それまではいわば自由な時間ということだ。もちろん巽や稔をダンスの相手にと色めき立つ女性は多くあったが、その前に先に憂と踊りたいと申し出る彼の瞳を逸らすことなど憂には出来ず、柔らかな動作で巽に掬い上げられる手を憂も握り返した。
……タンタンとリズム感のある音楽が奏でられると巽の手が憂の腰に当てられ、彼女の片手は彼の肩に。目の前にある端正な顔は…嘘偽りもなく自分を想ってくれていると先程の会話の中で見えてしまったからこそ真っ直ぐに巽の顔を見れない自分もいて、憂は戸惑う
『先程の…婚約の話は……』
『…俺は君が好きだから……俺がね、憂ちゃんを幸せにしたいんだ。勝手でごめん……でも、君は俺を助けてくれた。幸せをくれてる……だから俺も君に幸せをあげたい』
『今でも充分に…幸せ貰ってるのに……っ、ダメ、です。そんな私は……』
何故、自分なのだろう?何故…?困惑している彼女にとって、巽からの言葉は真っ直ぐに偽りのないものだった。その言葉にどれだけ胸が締め付けられるか彼は知らない。
『どうして?君は俺が嫌い?』
『そうじゃ、なくて……私は!……巽、さまっ』
ダンスをしながら、思わず口籠る答えを巽は求めてくる。けれどその答えを述べさせてくれないのも巽だった。ステップを踏んで自然な流れで壁際に寄せられる体は、ダンスに心酔している貴族達は気づかない。やがて完全に壁際へと押しつけられる憂の身体は彼の腕によって閉じ込められ、彼の手のひらが彼女の両瞳を覆った。
『俺はずるいから……答えを出させてあげないんだ。けどね、…君が不幸になる未来は、今は見なくていい。見ないで。俺が守るから』
『それは…、っ……!!?』
憂の背中から腰にかけての曲線をなぞり、巽が彼女の腰リボンの中から出したのはナイフだった。果物ナイフだろうか。細身のそれを憂が隠し持っていたのだ。それを何に使うかは彼の知るところではなく、知りたくもない事実だったが、それを問いただすつもりは彼には無かった。彼女には事情がある……と漠然と思った。
八歳の頃、突然目の前から消えた彼女……そうして、歳月を経て突然目の前に現れた彼女。しかしどんなに月日が経とうとも、巽の愛しい女性に変わりはなく、その全部を受け入れて幸せにしたいと願う。なぜなら昔も今も自分と接してくれる彼女の笑顔だけは…花が咲き誇るようなその優しい笑顔だけは変わらなかったからだった。
『今夜だけは俺と踊り続けてて』
第二夜 シャル・ウヰ・ダンス 完
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生
花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。
女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感!
イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる