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8.危機一髪 3

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 その時、コツコツと足音。あ。おばさんだ。

 共用トイレに来てくれて――空いてたら、多分、この部屋に来てくれるはず。

 黒木が動いてる気配は無い。黒木のところから、オレが隠れてるところは見えない。少し顔を出せば、入り口から入ってくるおばさんからは見えるはず。

 共用トイレをノックする音、開けて、また閉める音。こっちに、向かってくる音。
 そー、と、歩いて、ちょこっと顔を出してみる。

「あれ、綾人先生?」
「お疲れ様です」
「まだ居たんですか? ――律先生、見ませんでし……」

 言いながら入ってきたおばさんは、ふっとオレに気づいて、一瞬固まった。無言で頷いてから、黒木の方に顔を向ける。右手で、オレに手をパタパタして、多分隠れているように言ってきてる。

「あ、律先生はオレも待ってるんですけど」
「――何か用事?」
「保護者と電話しはじめたから一旦先に帰ったんですけど――なんか飯でもどうかなって」
「あ、そう、なんですね……」

 そ、そうなんだー! えっめちゃくちゃ嬉しい。
 ……嬉しいけど、今のこの状況は、つらすぎる。

「どこ行っちゃったんですかね。トイレかと思って、オレ、今ここに座ったとこなんですけど」
「――そう、ね……あ。屋上、かも?」
「屋上ですか?」

「律先生、ここの屋上から夜景見るの好きだから……」
「あーそうなんだ……疲れてるんですかね」

 黒木が苦笑してる。

 いや、好きだけど、それはただ綺麗だから好きなだけで。

 ……疲れすぎて、夜景を見てると思われている……って。ん? オレ、疲れてるから夜景見てんの?? と自分に疑問を持っていると、黒木の声。

「電話してみますね」

 えっ!!! オレ今、スーツにスマホ、はいってるし!!
 わーわー、音が鳴って、見に来られたら……!!

「あっ!!」

 おばさんもオレが慌ててるのを見て、何か察知したみたいで、なんか不自然な声を出したけど。
 え? と言いながら多分、黒木、もう通話ボタンを押しちゃったんだろう。
 着信音が、オレのポケットから流れ始めてしまった。

「え? ――どこから……」

 黒木の不思議そうな声が聞こえる。

 わーわーーわー……!! 

 口でズボンを噛んで頑張って、ポケットからスマホを出すことに成功。「あらっ?!」と、おばさんのあやしい演技が入り、スマホを拾い上げてくれる。オレは、また机の下に服を引き連れて、こもった。

「あらら、律先生のスマホ、こんなところに……お、落としたのかしら……」
「え、マジですか?――あいつ、ほんとに疲れてるんですかね……」

 言いながら、黒木が通話を切ったみたい。

「く、黒木先生、悪いんだけど……屋上、見てきてくれるかしら……」
「あ、はい。分かりました。スマホ、預かりましょうか?」
「あ、いいわ、私が渡すから」

 分かりました、なんて言って、黒木が部屋を出て行った。
 エレベーターの奥、外階段が屋上へと繋がる。そのドアを開けた音がした。

「――はー……律、大丈夫……?」

 何だかおばさん、ぐったりしてる。
 ……こっちはそれ以上だけど。もはや、涙目だ。豆しばの目がウルウルだよ、もう。


「……可愛いんだけど。はーもう……」

 おばさんがやってきて、オレの頭を撫でる。

 中身はもう立派な成人なのだけど、もう、どう見ても豆しばだし、おばさんにとっては、昔、子供の頃も撫でてたし、と、まったく抵抗がないらしい。オレも、よく撫でられていた記憶があるし、しかも豆しばになってる時は、撫でられてなんぼ、みたいな気持ちというか。

 ゆっくり心を落ち着けて、ひたすら穏やかに休むか、撫でて優しくしてもらえないと、戻れないから。
 大学時代は誰にも言えなかったから、変身してたら大変だったろうなぁとは、思うのだけど、大学の時って、そこまでのストレスはなかなか来ないというか、毎日のんびり生きてたから、そこまで、豆しばにならなかったんだよな。
 ここで、就職して、保護者と向き合うようになってから、変身が頻繁になった。

「――律、とりあえず、家に送るから、もう少し理事長室で待っててくれる?」

 分かった、と言ったつもりが、可愛い「あん」。

 ……ここの変換は、勝手にそうなるからもう、どうにもできない。オレは普通に話してるつもりなのに。まあでも、豆しばになっても、人間の言葉が分かるのは良かった……。ちなみに、犬語がわかるかどうかは、試してないから分からない。ポメガ化しちゃう人の匿名SNSを見ると、犬語は分からないって書いてるのを見たことはあるから、そうなのかも。

 中途半端な生き物だよなあ。なんて思う。犬になり切る訳でもなく。…………なりきっても困るけど。


「黒木先生が戻ってくる前に理事長室に行きましょ。律のスーツ、持ってくから先行ってて」

 おばさんは、持ってきてた紙袋に、スーツを詰めてくれる。前に、服を持って移動してるところを見られて、不思議そうにされたことがあったらしく、それ以来、迎えに来るときは紙袋は、必須アイテムなのだ。


 誰も居ない廊下を、オレはぴゅーんと駆け抜ける。


 ――正直、この走ってる瞬間だけは、楽しい。





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