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いつか見た夢の世界で
目覚めの時
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今回はワイリーのおててブンブン攻撃から死守しきる事に成功して綺麗な形を保ったままのサンドイッチをみんなで一緒に食べる事ができた。
お高い食材を奮発して揃え、領邸に勤める料理人達からの手伝いの申し出を断ってまで私一人で早朝から作ったのだ。 みんなが「美味しい」と言ってくれて安心したし、作り手冥利に尽きるというものである。
……それにいつかの悲しかった記憶もまた、報われるというものだ。
今回は、頑張って作った物を鳥の餌にしなくてもいいのだと。
「なあなあラナ姉ぇ、まだくいたい! まだある?」
「あ~……ごめんね、このバケットの分しか無いの。 あとはほら、おやつにクッキーとスコーンを持ってきたの。 生クリームもあるから、スコーンに塗って食べてね」
「クッキー、スコーン……なまクリーム!」
肩下げ鞄から取り出したクッキーとスコーンに目を輝かせる子供達。 それに加えて瓶に詰めた生クリームを取り出せば、1番瞳をキラキラしくしてクリームを凝視しているのは意外にもヤーラだった。
ヤーラ曰く、以前いた商人の所で一度だけ生クリームの乗ったパンケーキを食べた事があるらしく、それがあまりにも美味しくてその味が忘れられなかったらしい。
「また、たべられるなんて……!」
いつもは落ち着きがあって、面倒見がよくてクールな印象のヤーラが、今は弛緩した表情と共に歓喜の声をあげている。
その姿を見れば、普段あれだけしっかりしている風でワイリーを嗜めたりダイとアンの相手をしたり大人びた感じでも、やっぱりヤーラも年相応の女の子なんだと安心する。
ヤーラは嬉々として、いの一番にスコーンに生クリームを塗って食べ、ほっぺが落ちそうなほど美味しいのか頬を押さえながら満面の笑みで食べている。
他の子達も、ヤーラに続いてワイリーが手を出して、次にエルマがスコーンに生クリームを塗ってダイとアンにそれぞれ渡している。
ヤーラが生クリームにやられているから、エルマとしてはお姉ちゃん代理という所なのかしら。
最後にはエルマも手に取って、一口食べてから一度目を見開いた後で、まるでリスのように小さな口でスコーンをもくもくと食べていた。
なんというか、美味しそうに食べる子供達の姿にもう胸いっぱいである。
そして、そんな幸せなおやつタイムの後は、ワイリーの発案でみんなで追いかけっこをする事になった。
そして、じゃんけんで鬼役を決めた結果、私が鬼となった。
私からしたら、これは遊びでもあり、いつかのリベンジマッチでもある。 また以前のような醜態を子供達の前で晒してなるものかと密かに気合を入れた。
「じゃあラナ姉からおになー。 にしても、ラナ姉ならよゆーでにげれるなー」
「ふふん、ワイリー君。 私だって成長したのよ。 前よりもたくさん運動するようになって、体力だって付いてきたんだから。 今度こそは全員を捕まえてみせるわ!」
これまで伊達に、ジークを守るための訓練をしてきたわけじゃない。 激しい組合から体力づくりのランニングに多少の筋トレなどなど、今の私は一般的なそこらへんの令嬢なんかよりも断然パワフルなのだから。
けれど、胸を張ってそう宣言した数十分後。
私は、ヘロヘロの足取りでダイとアンを追いかけていた。
「ま、まて~………まっ待ってぇ…」
「鬼さんこっちこっちー!」
「きゃー!」
無邪気に逃げ続ける最年少の兄妹に、千鳥足で息も絶え絶えに追い掛ける引率役の最年長な私。 年長者として何とも情けない限りである。
恐るべし、子供達の無尽蔵な体力……!
最終的に、2人に追い縋っている最中にフラフラの足を引っ掛けて、行きがけのワイリーのように盛大に転んでしまった。
倒れ込んだ前面から地面に激突し、お腹とか膝を強打して、挙句息を詰まらせて「ふぐぅっ」と淑女らしからぬ声まで漏れ出た。
比較的柔らかな土の上だったから大して痛くはなかったけれど、代わりに着ている服は土に汚れた。
土塗れになった私は子供達(特にワイリー)から大笑いされて、そして私からしてもこんなにもお転婆な自分がなんだか可笑しくて、声を出して笑ってしまった。
本当、淑女らしからぬ事である。
けれど、ここではそれでいい。 今の私はラナ・クリフトだからこそ、それでいいのだ。
……たとえ、ラナ・クリフトが今日で終わるのだとしても。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ラナ・クリフトという存在は、私が身分という垣根を取り払って庶民の人々と交流するために作り出した、もう1人の私だ。
今となっては、辛い現実から逃避してたくさんの良い人達と交流して心を癒すための、仮想現実のような日々を過ごすための偽の私でもある。
それらは所詮は夢で、泡沫の幻のようなもので、だからこそ目覚めはいつか訪れると知っている。
教会での穏やかな日々も、商店で仕事に明け暮れた日々も、領民達との交流も、孤児院のみんなと過ごしたひとときも、いずれは公爵令嬢として在る自らの現実に呑まれて、私の手の届かぬ場所へと行ってしまうのだ。
いずれは訪れる別れの時を待ちながら、ゆるゆると穏やかな日々を甘受してきた。 この夢から目覚めなければならなくなるその時まではせめて、と。
けれど、そうも言っていられなくなってしまった。
ジークの命が狙われ、私は彼を守るための盾として選ばれた。 それが私に与えられた最期の贖罪になるならばと、受け入れた。
それで死そうと、生き延びようと、私は必ずや近いうちに自らの贖罪とした使命を完遂するだろう。
その時こそ、ようやく私が終われるのだと信じている。 それこそが、私の最後の希望なのだから。
でも、こんな身勝手な願望のために、残して逝く者達を放ってなどおけはしない。
きっと、これまで良い関係を紡いできた皆ならば、死した私のためにも涙を流してくれるのだろう。
でも、私の真実も、その悍ましいほどの偽善と自己愛の精神も知らぬ皆に、私なんかへの惜別を嘆いてほしくはない。 皆の中の私の存在を死という強烈な記憶と共にその心に縛り付けたくなどないのだ。
私など、皆何も真実など知らぬままに、いつかの日に過去を振り返って懐かしむ程度に薄らと、記憶の端の奥底に残る程度の存在でいい。
そう思ったからこそ、今が別れの時だと悟った。
来たるパーティーの日までに、それまで培ってきた大切な関係の全てを清算する事にしたのだ。
もう私は過去の存在だと、早く記憶の奥底に沈めて忘れてしまってくれと、ジークに与えられた休暇を使って少しずつ。
最初は王都の私のお店。
これから家の方で忙しくなるからと、店の管理を任せていた子に私の仕事を引き継いでもらった。 元より店の殆どを任せていたからこその人選だし、これからも私が居なくなっても店を回していってくれるだろう。
次は王都の教会で神父様と特によくお話をしてくれたケリーさんにも、もう来られなくなる事を伝えた。
ケリーさんは私の言葉を聞くと、いつもの柔らかな笑みを浮かべて「じゃあ、そんな辛気臭い顔をしないの」と、いつかのように私の頬を引っ張った。
「今日でラナちゃんとお別れになるのだとしても、死別以外はお互いに笑っていた方がいいわ。 それに、生きていればまた出会う事だってあるかもしれないわ。 だから、何も悲しい事なんてないのよ」
そう言って、ケリーさんは「むしろ、離れていてもこの婆が早々にくたばらないよう祈って頂戴ね。 婆も、長生きできるように頑張るわ」と張り切っていた。
神父様は普段から寡黙なお方で、話しかけない限り喋る事は少なく、そして必要な事以外を口に出す事もまた少ない。
「またいつでもお出でなさい。 貴女にどんな事情があれど、神の膝元たるこの場所はいつだって迷える子羊達の家であるのだから。 ただ一時離れるからと、門前払いになどしませんとも」
そんな神父様がくれた言葉は、この場所を切り離そうとした私でさえも受け入れてくれるというものだった。
そんな2人のくれた言葉が胸にじんわりと響いて、次々と些細な幸せが失われていく今を放り出してしまいたくなる。
けれど、そんな無責任は許されない。 もう既に、私には退路などありはしない。
為すべき使命があり、その果ての赦しを望んだ。 この別れも、喪失も、全ては避けられない事だった。
私の商売の一端を担う、領邸で働く領民達や使用人達にも別れを告げた。 時には共に針仕事に勤しんだ仲である彼らは、私が来られなくなる事を残念に思ってくれて、別れを惜しんで皆で一針ずつ刺したというハンカチを餞別としてプレゼントしてくれた。
そうしてまた一つ、私の大切な関係が断たれた。 いとも容易く、私の手にハンカチ一つを残して、プツリと糸が切れるように。
だからこそ私は今日、孤児院のみんなとの最後の思い出を作りたかった。 死する時に、胸に抱いて安らかな眠りに着けるような、そんな思い出を。
その願望は果たされて、残された安寧の時はもう後僅かとなった。
大いに遊び、大いに笑い、実に心地良いひとときだった……。
そして、私はこの後また、大切なものを失うのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日、ピクニックから帰ってきた私達を、今日は共にピクニックに行けなかったピューラが「おかえりなさい」と迎えてくれた。
なぜだか、ただそれだけの事なのに無性に気持ちが揺れていく。 そして、今日は孤児院のみんなに伝えなければいけない事があるのだと、震えそうになる唇を懸命に動かして伝えた。
もう、ここに来る事ができない。
そう伝えた。
努めて冷静に口にした言葉に、子供達は次第に「いやだ!」「なんで?」と泣いたり、怒ったり、私の手を掴んだり。
最後にはみんな、ピューラに止められて私から離れた。
私だって本当は離れ難い。
けれど、これはずっと分かっていた別れなのだ。
いつか来る別れの時が、今訪れただけの話なのだ。
手を伸ばして、子供達とずっと共にいられたらと願えども、今の私にはそうする事が出来ない。 果たすべき使命があるからこそ、出来ない。
だから離れ難いと思う未練を断つために、私は子供達と2つの約束をした。
離れ離れになろうとも手紙を書く事と、本をたくさん送る事。
その証として、私はエルマに一冊の本を手渡した。
それはかつての私が憧れた、甘くて優しい愛の物語。
願えども願えども届かなかった、願望の残滓とも言える大好きだった一冊だ。
けれどもこの時だけは、その本をただ一つの祈りとして。
これからも続く、彼ら彼女らにとってその生が幸多く愛に満ち溢れたものであれと、そんな願いと共に私なりの激励を込めた、そんなプレゼント。
それは、私のような死にゆく事が救いとなる生を送らないようにとの、教訓のような祈りだった。
お高い食材を奮発して揃え、領邸に勤める料理人達からの手伝いの申し出を断ってまで私一人で早朝から作ったのだ。 みんなが「美味しい」と言ってくれて安心したし、作り手冥利に尽きるというものである。
……それにいつかの悲しかった記憶もまた、報われるというものだ。
今回は、頑張って作った物を鳥の餌にしなくてもいいのだと。
「なあなあラナ姉ぇ、まだくいたい! まだある?」
「あ~……ごめんね、このバケットの分しか無いの。 あとはほら、おやつにクッキーとスコーンを持ってきたの。 生クリームもあるから、スコーンに塗って食べてね」
「クッキー、スコーン……なまクリーム!」
肩下げ鞄から取り出したクッキーとスコーンに目を輝かせる子供達。 それに加えて瓶に詰めた生クリームを取り出せば、1番瞳をキラキラしくしてクリームを凝視しているのは意外にもヤーラだった。
ヤーラ曰く、以前いた商人の所で一度だけ生クリームの乗ったパンケーキを食べた事があるらしく、それがあまりにも美味しくてその味が忘れられなかったらしい。
「また、たべられるなんて……!」
いつもは落ち着きがあって、面倒見がよくてクールな印象のヤーラが、今は弛緩した表情と共に歓喜の声をあげている。
その姿を見れば、普段あれだけしっかりしている風でワイリーを嗜めたりダイとアンの相手をしたり大人びた感じでも、やっぱりヤーラも年相応の女の子なんだと安心する。
ヤーラは嬉々として、いの一番にスコーンに生クリームを塗って食べ、ほっぺが落ちそうなほど美味しいのか頬を押さえながら満面の笑みで食べている。
他の子達も、ヤーラに続いてワイリーが手を出して、次にエルマがスコーンに生クリームを塗ってダイとアンにそれぞれ渡している。
ヤーラが生クリームにやられているから、エルマとしてはお姉ちゃん代理という所なのかしら。
最後にはエルマも手に取って、一口食べてから一度目を見開いた後で、まるでリスのように小さな口でスコーンをもくもくと食べていた。
なんというか、美味しそうに食べる子供達の姿にもう胸いっぱいである。
そして、そんな幸せなおやつタイムの後は、ワイリーの発案でみんなで追いかけっこをする事になった。
そして、じゃんけんで鬼役を決めた結果、私が鬼となった。
私からしたら、これは遊びでもあり、いつかのリベンジマッチでもある。 また以前のような醜態を子供達の前で晒してなるものかと密かに気合を入れた。
「じゃあラナ姉からおになー。 にしても、ラナ姉ならよゆーでにげれるなー」
「ふふん、ワイリー君。 私だって成長したのよ。 前よりもたくさん運動するようになって、体力だって付いてきたんだから。 今度こそは全員を捕まえてみせるわ!」
これまで伊達に、ジークを守るための訓練をしてきたわけじゃない。 激しい組合から体力づくりのランニングに多少の筋トレなどなど、今の私は一般的なそこらへんの令嬢なんかよりも断然パワフルなのだから。
けれど、胸を張ってそう宣言した数十分後。
私は、ヘロヘロの足取りでダイとアンを追いかけていた。
「ま、まて~………まっ待ってぇ…」
「鬼さんこっちこっちー!」
「きゃー!」
無邪気に逃げ続ける最年少の兄妹に、千鳥足で息も絶え絶えに追い掛ける引率役の最年長な私。 年長者として何とも情けない限りである。
恐るべし、子供達の無尽蔵な体力……!
最終的に、2人に追い縋っている最中にフラフラの足を引っ掛けて、行きがけのワイリーのように盛大に転んでしまった。
倒れ込んだ前面から地面に激突し、お腹とか膝を強打して、挙句息を詰まらせて「ふぐぅっ」と淑女らしからぬ声まで漏れ出た。
比較的柔らかな土の上だったから大して痛くはなかったけれど、代わりに着ている服は土に汚れた。
土塗れになった私は子供達(特にワイリー)から大笑いされて、そして私からしてもこんなにもお転婆な自分がなんだか可笑しくて、声を出して笑ってしまった。
本当、淑女らしからぬ事である。
けれど、ここではそれでいい。 今の私はラナ・クリフトだからこそ、それでいいのだ。
……たとえ、ラナ・クリフトが今日で終わるのだとしても。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ラナ・クリフトという存在は、私が身分という垣根を取り払って庶民の人々と交流するために作り出した、もう1人の私だ。
今となっては、辛い現実から逃避してたくさんの良い人達と交流して心を癒すための、仮想現実のような日々を過ごすための偽の私でもある。
それらは所詮は夢で、泡沫の幻のようなもので、だからこそ目覚めはいつか訪れると知っている。
教会での穏やかな日々も、商店で仕事に明け暮れた日々も、領民達との交流も、孤児院のみんなと過ごしたひとときも、いずれは公爵令嬢として在る自らの現実に呑まれて、私の手の届かぬ場所へと行ってしまうのだ。
いずれは訪れる別れの時を待ちながら、ゆるゆると穏やかな日々を甘受してきた。 この夢から目覚めなければならなくなるその時まではせめて、と。
けれど、そうも言っていられなくなってしまった。
ジークの命が狙われ、私は彼を守るための盾として選ばれた。 それが私に与えられた最期の贖罪になるならばと、受け入れた。
それで死そうと、生き延びようと、私は必ずや近いうちに自らの贖罪とした使命を完遂するだろう。
その時こそ、ようやく私が終われるのだと信じている。 それこそが、私の最後の希望なのだから。
でも、こんな身勝手な願望のために、残して逝く者達を放ってなどおけはしない。
きっと、これまで良い関係を紡いできた皆ならば、死した私のためにも涙を流してくれるのだろう。
でも、私の真実も、その悍ましいほどの偽善と自己愛の精神も知らぬ皆に、私なんかへの惜別を嘆いてほしくはない。 皆の中の私の存在を死という強烈な記憶と共にその心に縛り付けたくなどないのだ。
私など、皆何も真実など知らぬままに、いつかの日に過去を振り返って懐かしむ程度に薄らと、記憶の端の奥底に残る程度の存在でいい。
そう思ったからこそ、今が別れの時だと悟った。
来たるパーティーの日までに、それまで培ってきた大切な関係の全てを清算する事にしたのだ。
もう私は過去の存在だと、早く記憶の奥底に沈めて忘れてしまってくれと、ジークに与えられた休暇を使って少しずつ。
最初は王都の私のお店。
これから家の方で忙しくなるからと、店の管理を任せていた子に私の仕事を引き継いでもらった。 元より店の殆どを任せていたからこその人選だし、これからも私が居なくなっても店を回していってくれるだろう。
次は王都の教会で神父様と特によくお話をしてくれたケリーさんにも、もう来られなくなる事を伝えた。
ケリーさんは私の言葉を聞くと、いつもの柔らかな笑みを浮かべて「じゃあ、そんな辛気臭い顔をしないの」と、いつかのように私の頬を引っ張った。
「今日でラナちゃんとお別れになるのだとしても、死別以外はお互いに笑っていた方がいいわ。 それに、生きていればまた出会う事だってあるかもしれないわ。 だから、何も悲しい事なんてないのよ」
そう言って、ケリーさんは「むしろ、離れていてもこの婆が早々にくたばらないよう祈って頂戴ね。 婆も、長生きできるように頑張るわ」と張り切っていた。
神父様は普段から寡黙なお方で、話しかけない限り喋る事は少なく、そして必要な事以外を口に出す事もまた少ない。
「またいつでもお出でなさい。 貴女にどんな事情があれど、神の膝元たるこの場所はいつだって迷える子羊達の家であるのだから。 ただ一時離れるからと、門前払いになどしませんとも」
そんな神父様がくれた言葉は、この場所を切り離そうとした私でさえも受け入れてくれるというものだった。
そんな2人のくれた言葉が胸にじんわりと響いて、次々と些細な幸せが失われていく今を放り出してしまいたくなる。
けれど、そんな無責任は許されない。 もう既に、私には退路などありはしない。
為すべき使命があり、その果ての赦しを望んだ。 この別れも、喪失も、全ては避けられない事だった。
私の商売の一端を担う、領邸で働く領民達や使用人達にも別れを告げた。 時には共に針仕事に勤しんだ仲である彼らは、私が来られなくなる事を残念に思ってくれて、別れを惜しんで皆で一針ずつ刺したというハンカチを餞別としてプレゼントしてくれた。
そうしてまた一つ、私の大切な関係が断たれた。 いとも容易く、私の手にハンカチ一つを残して、プツリと糸が切れるように。
だからこそ私は今日、孤児院のみんなとの最後の思い出を作りたかった。 死する時に、胸に抱いて安らかな眠りに着けるような、そんな思い出を。
その願望は果たされて、残された安寧の時はもう後僅かとなった。
大いに遊び、大いに笑い、実に心地良いひとときだった……。
そして、私はこの後また、大切なものを失うのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日、ピクニックから帰ってきた私達を、今日は共にピクニックに行けなかったピューラが「おかえりなさい」と迎えてくれた。
なぜだか、ただそれだけの事なのに無性に気持ちが揺れていく。 そして、今日は孤児院のみんなに伝えなければいけない事があるのだと、震えそうになる唇を懸命に動かして伝えた。
もう、ここに来る事ができない。
そう伝えた。
努めて冷静に口にした言葉に、子供達は次第に「いやだ!」「なんで?」と泣いたり、怒ったり、私の手を掴んだり。
最後にはみんな、ピューラに止められて私から離れた。
私だって本当は離れ難い。
けれど、これはずっと分かっていた別れなのだ。
いつか来る別れの時が、今訪れただけの話なのだ。
手を伸ばして、子供達とずっと共にいられたらと願えども、今の私にはそうする事が出来ない。 果たすべき使命があるからこそ、出来ない。
だから離れ難いと思う未練を断つために、私は子供達と2つの約束をした。
離れ離れになろうとも手紙を書く事と、本をたくさん送る事。
その証として、私はエルマに一冊の本を手渡した。
それはかつての私が憧れた、甘くて優しい愛の物語。
願えども願えども届かなかった、願望の残滓とも言える大好きだった一冊だ。
けれどもこの時だけは、その本をただ一つの祈りとして。
これからも続く、彼ら彼女らにとってその生が幸多く愛に満ち溢れたものであれと、そんな願いと共に私なりの激励を込めた、そんなプレゼント。
それは、私のような死にゆく事が救いとなる生を送らないようにとの、教訓のような祈りだった。
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