公爵令嬢の辿る道

ヤマナ

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生きているこの世界で

古い幼馴染の誓い

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私に忠を示す形で跪く、赤髪の騎士 ーーーアルダレート・ジェンキンス。 
ジェンキンスと言えば、アリステル王国騎士団現団長様の家名。 
騎士団長様は、元は平民上がりながらも武勲を立てて現在の地位まで上り詰め、今は子爵位ではあるけれどいずれは伯爵位すら賜られるかもしれないと噂される、貴族の世さえも渡り歩けている武と知に秀でたお方。 彼はその騎士団長様の子息であり、しかしながらこれまで社交の場にその姿を見せる事の無かったアルダレート様。
当然ながら、私はアルダレート様との面識に覚えなど無い。 だから、ここでの彼の名乗りは想定外の事であり、また示された忠義の意味すら分からない。 
けれど、彼の名乗りは、古い古い記憶の呼び水となった。 


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


かつての幼かった頃。 
まだ母が生きていて、私がその玩具であった頃。
縋るしかない母の愛と、母に求められる父の似姿。 渇望と、理想と現実の性差による軋轢で幼い心が軋んでいたあの時。
珍しく父から呼び出され、本物の父に呼び出された私に向けられる母からの嫉妬の呪詛を受けながら向かった先で、私は父の学友であったという、最近男爵位を賜ったばかりの男性に引き合わされた。
目を引く、燃えるような赤髪の大柄な男性。 
剛毅そうな見た目でありながら名乗りは丁寧で、少し話しただけで理知的な人だと分かった。 
男爵は、息子も連れて来たのだが手洗いに行ったまま戻ってこないと、私に探しに行ってはくれないかと言う。 父も、無言ではあるけれど、行けと言っているのが目で分かる。
父に逆らって嫌われるのを恐れた私は、釈然としないまま男爵の息子を探し歩いた。
ユースクリフ邸は広い。 
本館に別館、庭が3つに池まである。 その広大な敷地内で、迷子になっているかもしれない顔も知らない初対面の男の子を探し歩く事は、幼く小さな私には大変な事で、疲れた私は池の淵に座り込んで休む事にした。
晴天の空を反射して、池は青く澄んだ色を映している。 
そこに顔を覗かせれば、浮かんでいるのは酷く淀んだ私の顔。
昨日までずっと、母の機嫌取りに母の望むように振る舞って、母の望む事をして、母の望む『私』を演じ続けてきた。
全ては愛してもらうため。 
父は愛してくれないし、周りにいる誰も彼もが使用人ゆえに、愛など望めはしなかった。 
唯一、愛を向けてくれるのは母だけだったのだ。 母だけが愛し、この身を望んでくれて、笑顔を向けてくれる人だった………たとえそれが、エリーナという娘に対しての愛ではなく、自らの夫の身代わりとして在る私に対して愛を注いでいるだけだとしても。
幼い私は、愛があればそれで構わないと無意識に飲み込んでいた。 寂しさを埋めるための糧とした。
けれど、池に映る私の顔は満ち足りているようには見えなかった。 疲れ果て、それでも愛されたいがために無理をしてきた結果がそこにあった。

 ーーー込み上げてくる、想いがあった。 

鼻がツンとして、顔が熱くなり、そして心が冷めていくのを感じた。 頰が濡れて、滴り落ちた雫が池に波紋を生んだ。
気付いた時には、嗚咽が止まらなくなっていた。 
涙が、止まらなかった。
零れた涙に小難しい理屈など無い。 『エリーナ』が愛されない事に、そして寂しさで胸がいっぱいになって我慢できなくなったから、泣いているのだ。
決壊した感情の堤防は、溜まりに溜まった感情の淀みを涙として押し流す。 
ずっとずっと、吐き出したかった気持ちだった。
溢れて、溢れて、流れ出て、それでも涙は止まらない。 
泣いて、泣いて ーーー声を掛けられたのは、そんな時だった。

「大丈夫ですか? よければ、俺のハンカチを使ってください」

声と共に差し出されたハンカチは、しかし言葉とは裏腹に私の目元に押し付けられた。 
あまりに突然の事に悲しい気持ちも引っ込んだ私は、涙で霞んでいた視界が拭われて鮮明になった光景の中で、鮮やかな赤色を見た。

「あなたは、だれ?」

「俺ですか? 俺は ーーー」


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「アル………? 貴方、アルなの?」

「ええ、そうです。 貴女に忠を誓った騎士のアルこと、アルダレートです」

思い出した記憶を頼りに懐かしい呼び名で問うてみれば、アルダレートはあっさり肯定した。
幼い頃に出会った、いや、父達に引き合わされたというのが正しいか。 どちらにせよ、アルダレートは古い古い昔の幼馴染だった。
今にして思えば、ああしてアルダレートと引き合わせられたというのは、元々は彼が私の婚約者候補だったという事なのだろう。
けれど、今の私に婚約者はいない。
それどころか、アルダレートの事なんて、今の今まですっかりと忘れていた。 忘れようにも忘れられない特徴的な髪の色をして、とても熱烈な言葉を受けてなお、彼の事を忘れていたのだ。
だって、私とアルダレートが顔を合わせたのは、あの日が最初で最後だったのだから。

「とっても、と~っても、お久し振りですね」

「ええ、本当に。 ……これまで貴女に会いに行けず、申し訳ありませんでした。 エリーナ様に出会ったあの日から、父によって立派な騎士となるため親戚の家に押し込められ、それが終わってみれば次は戦場に出てこいと命じられ、貴女と再会するまでにとても長い時間をかけてしまいました」

アルダレートは心底からこれまで私の側に来られなかった事を悔やんでいるようだった。 言葉から、その心情が滲んでいる。
仕方のない事、家の主の意向によって定められた事だったというのに、まるで自らの落ち度のように思い込んでいるのは彼が真面目な性格をしているからだろうか。

「しかし、お陰で俺は騎士として逞しくなる事が出来たと自負しています。 今の俺なら、エリーナ様を守れます。 あの日のように、貴女がまた涙を流さないように、俺が貴女をお守りいたします」

忠義の姿勢を崩さず、あの日と変わらない誓いを口にするアルダレート。
うんと幼い頃にたった一度会ったきりで、しかも初めて会った時には泣きじゃくり、そして再会した今ではふらついて倒れそうになっているような面倒臭い私なんかに。

『俺が貴女を守る。 貴女の騎士になって、忠を尽くします』

出会ったあの日、彼にこの胸の内を少しだけ明かした。 正確には愚痴のようなもので、それも文脈の無い感情的な訴えでしかなかったかもしれないけれど。
あの日のアルダレートは黙って私の話を聞いてくれた。 その上で、私の涙を拭い、今と同じように忠の姿勢をとって誓いの言葉をくれた。
でも、そんな事があったのはそれ一度きり。
彼のくれた忠義に数日の内は胸を高鳴らせ、しかしいつまでも再会の叶わないアルダレートに失望し、やがて全てが忘却のうちに消え去った。
私にとってはもう過去の、既に終わった事なのだ。

「アルダレート様、おやめください。 王国騎士である貴方の忠義は王家に捧げられるべきもの。 私などに誓ってもよいものではありません」

「貴女に忠を誓った日、父にも同じ事を言われました。 いずれ、王国騎士として国への忠義を胸に戦うのだと。 けれど、私の胸の内にはずっと貴女がいました。 俺は貴女の騎士、貴女の苦難を取り払う剣として、貴女に忠を尽くしたい」

「おやめください。 あの頃とはもう何もかもが変わったのです。 私だって、変わりました。 貴方が忠義を誓ったあの頃の私はもういないのです」

アルダレートが、あの日の私のどこに自らの忠義を捧げるに相応しいと判断したのかは分からない。 けれど、きっとそれは憐れみの心からだったのだと思う。
憐れみの情を向けられる程の、あの頃のただ母の愛に隷属していただけの寂しがり屋な私はもういない。
ここにいるのは多くの罪を重ね、死ぬ事さえも生温いとされて死を剥奪された、贖罪のための今を生きる大罪人だ。 彼のように、研鑽を積み重ねてきた立派な騎士から忠誠を誓われるような人間ではない。 
だというのに、どうして彼は諦めてくれないのか。

「人は変わるものです。 俺だって、貴女と会えない時間の中で、あの頃とは大きく変わりました。 この手で、貴女を守るだなんてと迷いもしました。 けれど、誓いは破れない。 俺は幼い頃に誓ったように、貴女を守ります。 それが騎士としての誉なのですから」

「アルダレート様……」

記憶にあるアルダレートは、ただ純真な想いと私への憐れみでもって、無邪気な正義感に突き動かされて私に騎士の忠義を誓った。
けれど、今の彼からはそれとはまた別の、執念じみたものさえも感じられる。 
彼は、自らをあの頃とは変わったと言った。 それが、何か起因しているのだろうか。
どちらにせよ、アルダレートにこのまま折れる気はないらしい。 

「……分かりました」

このままでは埒があかない。
だから私が折れる事にした。 けれど、私なりの妥協点を付け加えて。

「今の私は、貴方に忠誠を誓われるような身ではありません。 けれど、貴方はあの時の誓いを大事にし、破りたくないと言いました。 だから、貴方に再度、誓い直して欲しいのです」

「貴女が望むなら。 俺は貴女に、何を誓えばいいだろうか」

「では ーーーこれから交わす、ただ1つの約束を守ると誓ってください。 そしてそれを、最後の誓いとしましょう」


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「お姉様、お帰りなさい。 なんだかとても遅かったように思うのですが、何かあったのですか?」

観戦席に戻るなり、サリーにさっそく心配された。 
確かに、アルダレートと話し込んだ事によって、少し休んですぐに戻るつもりでいたのに結構な時間が経っていたようだ。

「いえ、大丈夫よ。 お手洗いが少し混んでいて待たされていただけだから」

私としては、本当の事を話す必要もないと誤魔化すのが最良だったからアルダレートとの事をサリーに話はしない。
サリーを信用していないわけではないけれど、殿方と2人きりでいただなんて話を人の多い場所でそう軽々とするべきではないからだ。
それに、個人的にもさっきまでの事は話し辛い話題でもある。 たった1日限りの関係しかなかった幼馴染の事など、どう説明しろというのか。
本当に大丈夫かとしつこく聞いてくるサリーに、その度に大丈夫だと言い聞かせて、そんなやり取りが数度続いた後、やがて私達は観戦へと意識を移した。

舞台で剣を振るう古い幼馴染を見ながら思うのは過去。 
幼い頃のアルダレートとの出会いではなく、罪深く、そして忌むべき記憶の中にいた、王国騎士としてのアルダレートの事だ。
過去の私はジークしか見ていなかった。
だから、この剣術大会を境に戦場から帰ってきていたアルダレートに、その赤髪に、何も思い出しはしなかった。
罪を犯した私を捕らえる騎士の中にも、見張りとして私の入れられた牢の前に立つ騎士の中にも、赤髪の騎士はいた。 
北の牢獄に送られるか、毒杯を賜る前の日の夜には、松明の火しか灯らない薄暗い牢の中で誰かの嗚咽が聞こえてきた。
アルダレートが、罪を犯して牢獄に囚われている私の様を見て何を思い、感じたのかは分からない。
けれど私はあの時確かに、忠義を誓ってくれたアルダレートを裏切ったのだ。
だから、もう彼からの忠義を受ける資格など私には無い。
せめて、私にできる彼への罪滅ぼしは、彼が幼い頃の誓いを果たして騎士としての本懐を遂げられるようにする事。 昔した誓いを、これからの誓いで上書きするのだ。
たった一度の私との約束を遂げれば、それでアルダレートの誓いは果たされる。 アルダレートは、私に捧げた忠義と誓いから解放されるのだ。
ただ、アルダレートとした約束だけは……さすがに、センチメンタルに過ぎたかもしれないと少し反省している。

『次に私が泣いていたら、あの時のように助けてくださいね』

そんな子供じみた小さな約束を、彼は快諾した。 
この身に代えても誓いは果たすとまで言われて、こんな小さな約束に大げさが過ぎると思う。 けれどアルダレートには、そんな小さな誓いさえも騎士として大事な事なのだろう。
だから、こんな事で彼の忠義を裏切った罪滅ぼしになるならば易いものだと思う。
彼を、いつまでも私への誓いに固執させるわけにはいかない。 
アルダレートを、これから華々しい道を征く人を、既に終わった私のこの運命に縛り付けるわけにはいかないのだから。
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