最果ての少女は祈れない

ヤマナ

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終わる世界

災禍の変遷

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この世界に唯一存在する、生者の国シンル。
それは今、同時に発生している3つの要因によって、激しき潮の流れの如く大きな転換期の中にあった。 
まずは、一つ目。 生者を喰らう災厄『泥』。
ある時、突然に始まったこの災厄の犠牲となった国民は数知れず。 
その原因さえ掴めず、また、止める方法も終わらせる方法も見つからないままに、今なおシンルを災禍に陥れている。
しかし、その被害も今では縮小傾向にある。
その要因が、二つ目。 災厄を祓う『聖女』。
『最果て』への遠征の末に王太子レイドが連れ帰ったこの『聖女』は、度重なる『泥』の襲撃から何度もシンルの民を守り、そしてその都度に災厄を祓ってきた生者達の救世主である。
『聖女』の働きによって『泥』による死者数はおろか被害件数も減少し、さらには『聖女』が活躍を始めてから何故か『泥』の発生件数そのものも減ってきていて、少しずつではあるが、間違いなくシンル国内は『聖女』のおかげで平穏を取り戻しつつあった。 
市井では止まっていた物流も少しずつ再開し、災厄に怯えていた町々にも活気が戻ってきて、被災地では死者の弔いと復興のために人が集まった。 誰も皆、再び以前までのような自分達の生活を送り、そして営む事が出来るようになったのだ。
しかし、人の世とは一つ難を過ぎようとも、その業の深さが故に新たな苦難が浮かぶもの。
それが外的要因であろうとも内的要因であろうとも何も変わらない。 人はその宿痾のままに争い続けるものであるのだから。
それが三つ目。 王位継承に伴う政治闘争だ。
いつの時代でも存在してきた、権力者が更なる富や名誉に地位と言ったものを求めて暗躍し足を引っ張り殺し合うといった有様の、まさしく人の業をそのまま体現したかのような愚かしく下らない争い。
しかし、それが今の時代ではそう多く起きる事は今までは無かった。 と言うのも、そんな風に人同士で無益に争い消耗するにはあまりにも『泥』という災厄が強大で未知の脅威であったからである。
消せず、滅せず、殺せず、逃げられない。
そんな脅威がいつ襲い来るかも分からないような世情ともなれば、如何に富と名誉と地位に対して愚かで下らない執着をしてきた権力者とて政治闘争からは手を引くか静観し、闘争のために使っていたリソースを必死に蓄えて自衛に徹するだろう。
当然、好機と見れば毒を盛るなり刺客を放つなり何かしらのアクションを起こすかもしれないが、基本的には他所には不干渉。
だからこそ、共通の脅威を目の前にして、ある種一定の共和が保たれていたのだ。
だが、その共通の脅威も今や『聖女』の活躍によって脅威たり得ず。 
故に、そんな共和もまた同時に、崩壊を始めていた。

「今週だけでもう3人目か。 身の程知らずの多い事だな、全く」

そしてその影響は早速、悪意や害意となって誰かに向けられて降り掛かりーーーしかしたった今、火の粉の如く振り払われていた。 
鼻先までもマスクで覆って顔を隠し、明確に殺意を持って襲撃を仕掛けた刺客の喉元には今、剣の切先が突き付けられていた。 そこから少し力を入れられるだけで、間違いなく刺客の喉は掻き切られてしまうだろう。 
窮地と迫り来る死への予感。
そして、それらを運んで来た月の光を背に立つ男への恐怖心で呼吸を乱し、さらにはあまりの恐ろしさに腰まで抜けて逃げ出す事さえままならず、刺客は男が自らに下す沙汰をただ怯えながら待つより他に無かった。 自業自得ではあるのだが、それでも「どうしてこんな事に…」と自問しながら。
……ついさっきまでナイフ片手に襲撃を掛けた刺客は、確かに殺す側であった。 なのに、いざ実際に殺さんとすれば一瞬にして形勢は逆転し、刺客の生殺与奪は標的であった筈の男の手に委ねられていたのだ。
それも、敵対者には容赦を掛けないと噂されるような男の手に。
故にこそ、刺客の自問に対して答えるのならば「無謀だった」と言うより他に無いだろう。 殺すにしろ殺されるにしろ、死は誰にとっても平等であるのだから。 
刺客が見上げる男の顔は、月の逆光のせいではっきりと見えはしない。 
だが、刺客に向けられているその目だけは酷く冷たく、慈悲も容赦も無く獲物を殺す狩人のようで……だからこそ迎える結末もまた、比喩に用いた関係性とそう相違も無く。

「悪党にくれてやる慈悲など無い。 ーーー死んで償え、クズめ」

喉元の剣を一閃、横に薙ぐ。
それで刺客の喉は予感の通りに掻き切られ、傷口からは多量の血が流れて溢れ、それだけでも既に致命傷である事は明らかであった。
しかし男には、言葉の通りに慈悲など無い。 何故なら、刺客はまだ死んでいないからだ。
だから止めを刺すために更なる追い討ちとして刺客の胴を蹴り倒し、踏んで押さえ付けると剣を刺客の胸部、心臓の辺りに突き立てーーー。

「ガァァッ!!! アァァ……ァァァ、ぁ……」

心臓がグズグスとなるよう、抉る。 
突き立てた剣をグリグリと、グリグリと、何度も何度も捻り抉る。 完全に、人の肉体を生かす重要な器官を確実に破壊するために、徹底的に。
宣言の通りに、刺客に償いのための死を与えるために。

「………」

男の一連の行いには、澱みも、迷いさえも無く。
ただただ無表情無感情のままに、冷酷ながらも汚物を見るような侮蔑の目を向けて、ひたすら無慈悲に、一つの生存の可能性すらも摘んで刺客の命を絶対的に終わらせるために、殺すための動作を繰り返す。
そして、やがて獣の如き呻き声を漏らして、血に涎に鼻水や糞尿を垂れ流しながら痛苦に踠いていた刺客が、まるで糸の切れた人形のようにプツリと動かなくなったのを確認すると、男はその死体の脇腹辺りを一度蹴って生死を確認する。
当然ながら、身じろぎ一つの反応さえ無い。
既に、刺客は完全に事切れていた。
ーーー命が一つ、この世から消えた。
この冷酷な男の手によって、殺され潰えた。
だというのに、男にはそれに対する何の感情さえも無く。 歓喜も激情も悲哀も、何も無く。
弔意で死体を見返す事も、当然無い。
男にとっては、それはただの死体である。
悪意による愚行を犯したが故に自らに殺されてしまった、愚者の成れの果てでしかないのだ。
だからこそ、見返らない。
悪は裁かれて然るべきであり、自らは悪を裁く正義であるのだから。 裁きの跡を……自らの行いの、殺人の跡を見返るべきではないのだから。
全ては悪の根絶された、男の理想の世界のために。
そのために男は正義を振るっているのだから。
でも……そんな理想の平和のために、自らが『悪』であると認識した全てを裁き処するだなどと、それが傲慢ではなく何と言おうか。
しかしそんな事など、男には分からない。 
なぜなら、男は自らの正当性を疑いもしていないのだから。 
その行いがどれだけ非人道的措置であれ、されどもそれは必要な裁きであり粛清であるのだと心底より肯定しているのだ。
だって、自らは正しくあらねばならないから、悪を裁くのは正義の行いなのだから、と。
自らが正義であると言い聞かせるように……。

「相変わらずだよ、兄上。 本当に盲目的で、容赦の無い」

寝室のベッドに身を横たえて愛読書である小説を読みながら、自らの侍従であるリンドの城内で起きた殺人の報告に、ロイドは嘆息と共にそう漏らす。
人の世では、当然ながら殺人は罪である。
しかし、此度の報告の件はきっと誰にも裁かれる事は無いのだろう。 
何せ、この殺人の加害者も被害者も、この事態そのものを秘匿したいであろうから。
もっとも、それで殺しの事実は消えはしない。
確かに、男にも義はあったろう。 そうでなければ、正義を謳う者が殺人なんて人の世における罪業を犯す筈がないのだから。
まあでも、もしも本当にそうだとしても……。

「確かに、兄上は正しいのでしょう。 でも、正しさだけじゃ救えないものもまた、この世には存在するのですよ」

そう零すと、再度、ロイドは嘆息して「もう寝るよ」とリンドに言うと、愛読書を閉じて深く毛布を被る。
リンドも主人の意思のまま「御意に」と灯りを落として静かに部屋を後にして、やがて、静まり返った暗い部屋には寝息が一つ響くだけとなった。
人は眠り、目覚め、生を営み、また眠る。
それが人間の命としての道理であるように、その身の業も宿痾もまた同じく。
だからこそ、絶えず人は争い続ける。
今この時もまた、それは変わらず。
今はまた、争う対象が人類の脅威である『泥』から同族他人に変わっただけの事。 ……しかしそれは、つまりは内輪揉めのようなもの。
間違いのない、人の世の綻びの始まりであるのだ。


人の世の破綻の始まりは、このように。
尽きせぬ渇望と欲動が故に、人は自らと同じ人さえ喰らいながら、その上で相争う事さえも辞さない。
故にこそ、新たな争いは、まさしくここに始まったのだ。

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