最果ての少女は祈れない

ヤマナ

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終わる世界

聖女

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意識が曖昧な夢の内より浮上すると同時に、いつも感じるものよりも濃い土の香りをいっぱいに感じました。 
そしてぼんやりとした意識が少しずつ覚めていく次第に頬には冷たさを、身体の前面には圧迫感を感じて、今のナナシは地べたにうつ伏せで倒れているのだという事を自覚しました。
自覚して、とりあえず立とうと杖を手探り手に取って、けれどどうすればいいのか分からなくなってしまいました。

「ここは……何処なのかしら?」

知らぬ土と草木の匂いと、風の一つも吹いていないのか耳には草木の擦れる音どころか大気の流動の音さえ届いてはこない。 
……ようするに、ナナシは迷子になってしまったのでした。
けれど妙な事もあるものです。 だって、ナナシは最果ての屋敷を自らの意思で離れようとは思いませんから。
ナナシの仕事で役目で、そして存在意義にも等しい死者の魂を最果ての先へと送る事。
屋敷を離れるのは、それを放棄するも等しい行いだと考えていますから。
だから、ナナシは一刻も早く最果ての屋敷に戻らなければなりません。 昨日まではお客様がおいでになりませんでしたけれど、今日は、いや下手をすれば今この時既に門戸を叩いているかもしれないのですから。
そう考え焦り、とりあえずナナシは歩きはじめます。
此処が何処で、どうすれば帰れるのか……。
考えても良いアイデアの一つも浮かばず、何故こうなったのかと記憶を振り返る。
そもそも事の発端は庭が泥だらけになっていた事。 水抜きをしようとして、派手に転んで、杖を失くして、そして……『泥』に呑まれた。
思い出して、ゾゾッとしました。
少しずつ身体を這い上がってきて侵食してくる気味の悪さ、捕食されているかのような感覚。 思い出すだけでも、やはり恐ろしい。
なぜあのような不気味な『泥』が庭に広がっていたのでしょうか。
雨が降った覚えもありませんし、そもそも、普通の泥があのように人の身体を取り込もうとするだなんて話は聞いた事がありません。
いつも生者の住まう国お話をしてくれる妖精さんなら、ひょっとしたら知っているかもしれないけれど、今は妖精さんはお仕事で暫く会う事が出来ないし。 それに、いくら妖精さんだって最果ての屋敷に居ないナナシの居る所に来る事なんて出来ないだろう。
ああ、やはり今はまず屋敷に帰らないといけないわ。 
でも、何処に行けば帰る事が出来るのかしら。
そう考えながら、慣れない道を一歩一歩、杖で何度も突っついて安全を確認してから歩いていく。
土と草木の匂いから多分、森の中の人が寄らない場所にでも居るのだと思うけれど、それだけの判断材料では屋敷の敷地内からまるで出ないナナシには、おおよその位置を絞り込む事さえ出来ない。
だからとりあえず歩いて、人里か、それとも森ではない人の通り道にでも出られればいい。
少なくとも、此処で立ち止まっているよりは余程建設的だろう。
そうして、コツコツと杖で先を突っついて安全確認、歩く、時々休憩と道無き道を歩いていくと、それまで静寂ばかりを捉えていた耳が人の声と何か騒がしくしているのか空を切る音を拾った。

「よかった、人がいるわ!」

感じ取った人の気配に、ナナシはそちらの方へと歩を進めます。 妖精さんには生者と関わらないようにと釘を刺されていますけど、でも今は仕方がないでしょう。
ナナシ一人では屋敷まで帰るどころか、森を抜けた後で次は何処に行けばいいかすら分からないでしょうから。
森を抜けた先にいる人達が良い人ならばきっとナナシを送ってくださるでしょうし、もしそうでなくとも道だけでも教えてもらえれば帰る事は出来るでしょう。
歩き、やがて土と草木の匂いが薄れて陽の温もりを身体に感じれば、ナナシは其処にいる人達へと声をかけます。

「もし、よろしいでしょうか。 実はナナシ、今道に迷っていて」

「そこのお前! 危ない!」

ナナシのかけた言葉に被せるように、大きな男性の声が響きました。
突然の事にビクッとなってしまいましたが、けれどすぐに冷静になってどうしたのかと問い返そうと息を吸います。
けれどその時になって、ゾクリと怖気がはしりました。
それは、ついさっきも思い出して恐ろしさを噛み締めたばかりの感覚。 捕食される直前の不気味な気配。
ドロリと冷たい何かが飛び掛かってきました。
その何かは胴から両手足に頭部と侵食を広げ、まるでナナシを喰らおうとしているかの如くナナシを取り込んでいきます。
やがてナナシの全身が呑まれ、その冷たく悍ましい気配に少しずつ意識も刈り取られていきました。 そして完全に意識が無くなる前、ナナシはその悍ましい気配の正体を悟ったのです。
『泥』から感じたそれはきっと、カラカラの空っぽな虚を埋めるための、渇望なのだと。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆


最果てへの遠征。
それは、命を奪う『泥』からシンルを救うための鍵と為り得るかもしれない存在、我らが王国騎士団第一師団長ランド・グラウブ卿が出会ったという聖女を確保しシンルへと招くために計画した軍事的作戦であった。
だが、状況は最悪の展開を迎えてしまった。
以前の最果てへの遠征時、グラウブ卿が『泥』からの襲撃を受けたという大河に架かる大橋を避けてわざわざ迂回して進行したというのに、其処でもまた『泥』による襲撃を受けたのだ。
当然、危険の伴う作戦であるため武装は万全に整え、前回作戦においての被害規模から小隊レベルではあるが猛者を募って出た。
対『泥』への戦術として剣ではなく盾を主装備とし、切っても死なぬそれを押し返し防ぎ、なるべくいなして退避するよう専用の訓練も行なって練度も高めた。
備えは万全、とまではいかずとも無策で立ち向かう事の無いよう殲滅ではなく延命を優先するよう指導した。 結果、未だ被害は少数で済んでいる。
しかし……。

「これは、あまりにも包囲網が硬い!」

生者を呑み込まんと襲ってくる『泥』に対して盾で押し返し回避するという戦術は有効に働いており、結果的に見れば被害数は現状ゼロではある。
しかし、あまりにも『泥』が多い。
抜け出し退避するための穴が無いのだ。

「このままでは、物量で押し切られてしまいます! それに騎士達の体力も……!」

「分かっている! グラウブ卿、何か手立てはあるか?」

「襲ってくる『泥』をいなし、隙を探るより他に無いかと」

つまり、現状手詰まりという事だ。
では、どうするか。 このままではジリ貧で、全滅も免れまい。

「……ならば、仕方あるまい。 俺が『泥』共へと突っ込む! 奴らが俺へと集った隙を見て全騎士先へと進め!!」

「なりません! ならば、団長たる俺がその役を負います。 王太子殿下が犠牲となる事などありません!」

「舐めるなよ、グラウブ卿! 俺があんな腐れ『泥』などにむざむざ殺されてやると思うな、策はある。 お前達は聖女を迎えに行け、大局を見失うな!」

元より、この遠征は我らがシンルの未来の為。
ここで再び騎士団員を無駄に殺し、そして何の成果も得られぬまま帰る事となれば状況は何も好転などしない。 即ち、シンルの滅亡にも繋がるだろう。
今、シンルに必要なのは救いの光明。
希望と為り得る聖女である。
それは、王太子である俺よりも重要な要素。
ならば、その二つを秤にかけた時、優先されるべきは何方であるか。
そんなもの、比べるべくもない。

「……失言でした。 王太子殿下、御武運を」

「聖女を頼んだぞ、グラウブ卿」

「御意に」

グラウブ卿に全騎士に『泥』から距離を取るよう合図を出させ、それと同時に俺は『泥』の元へと駆け出した。
我が愛馬に鞭打ち、全力をもって駆け『泥』を引き付ける。 
やられてやる気など微塵も無いが、気概と現実は別物だ。 少なくとも、すぐにやられるわけにはいかない。 
そも、滅する事の不可能な『泥』を相手にして勝利する事など不可能なのだ。
故に、俺の駆ける道は死の道にも等しい。 
俺の迎える結末とは、つまりそういうものであろう。
しかし、これもまたシンルのため。
俺も生き国も生きるならそれが最たるが、えてして全てを得るのは困難な事。 大抵は、犠牲の上に成るものなのだ。
此度の犠牲は、俺。

「……いいだろう! 英雄たる者、死して礎とならん!!」

愛馬はこれまでの道程と戦闘で疲弊し、武装は盾を主武装として構えるそれと愛用の大剣を下げるのみ。
盾で『泥』をいなし、それだけでは足らぬと抜刀してからは『泥』を切り裂いて愛馬の駆ける道を作る。 著しく消耗しているであろうに、愛馬は俺の無茶にも答えてくれている。
そうしていなし、断ち、駆ける。
他の騎士共は、まだ少し残っているが殆どが先へと進んだらしい。
ならば後は、俺がどれだけ粘れるかの話。
愛馬はまだ駆けている。 俺も、まだやれる。
なら、もっとーーー!

「ぐっ!」

だが、どうやらここまでらしい。
愛馬は『泥』に足を取られて転倒した。
俺もまた投げ出され、挙句、盾さえその衝撃で手放してしまった。 残った剣では『泥』を切って殺す事も、いなす事も出来はしない。 
……万事休す。
そう悟り、しかし最期まで逃げぬと剣を構えて迫り来る『泥』と相対す。
それが例え無駄な足掻きであったとしても、決して諦めぬ。
それこそが、英雄なのだから。

「もし、よろしいでしょうか」

だがーーーそれは、不意のことであった。
覚悟を決め、足掻く事を決めて、この身の最期さえを認めた上で立ち向かうと決めたその時、危機的状況下とは思えぬ程に気の抜けた呼びかけが聞こえてきた。
声のする方を向けば、其処には杖をつき目元に布を巻いた泥塗れの白髪の少女が立っていた。
なぜ、そのような者がこんな所にいるのか。 
少女はまだ何かを言っているが、困惑と思考の奔流に気を取られて聞き取れなかった。
そして、変化もまたその時に訪れた。
散々俺の方へと向かってくるように引き付け、そして今まさに俺の命を奪うために襲い掛からんとしていた『泥』が全て少女の方へと向かっていったのだ。

「そこのお前! 危ない!」

咄嗟に声をあげたが、時既に遅く。
少女は泥へと呑まれていき、その姿さえ捉えられぬ程に侵食されていった。
目の前で失われた、守れなかった命。 
ギリリと軋む程にその事実を噛み締め、怒りのままに俺は『泥』へと向かう。
ーーせめて、報いよう。
それが例え自己満足であろうとも、守れなかった者のために。
弔いにも似た覚悟を持って『泥』へと切り掛かろうとして……だが、そこでまた一つ変化があった。
少女を取り込んだ『泥』は、その質量を少しずつ減らしていったのだ。 
まるで地面に沁み入るかの如く、どんどん減っていく。
やがて『泥』は全て消え、後には杖を握る少女が倒れているだけになった。
死んだのかと思ってその顔を覗き込めば、少女は「すぅすぅ」と寝息を漏らし、それに付随して胸部も上下動を繰り返していた。
ーーー少女は『泥』に襲われ、しかしこれまでの例より外れて生還したのだ。

「王太子殿下!」

少女の存在に呆気に取られていれば、後方より聞き慣れたランド・グラウブ卿の呼び声が聞こえてきた。

「……お前、最果てへ迎えと指示した筈だが」

「申し訳ありません。 騎士達の扇動に奔走していたら出遅れました。 それより何が起こったのですか。 周囲を囲んでいた『泥』も含めて、突然全て消え去ったのですが…」

「何……全てだと?」

「はい。 殿下を追走していたものから、辺りを跋扈していたものまで、全てがです」

確かに、言われて辺りを見渡せばつい先程まで景観一面に広がっていた『泥』は全てなりを潜め、今となっては影も形もなくなっている。
そしてその全ては、あの少女が現れてから。
……まさか、この少女が。

「なあグラウブ卿よ。 お前が出会ったという聖女とは、ひょっとしてこの娘の事なのではないか?」

「え……ナ、ナナシさん!?」

少女を指差し示せば、グラウブ卿は驚愕の声をあげた。 それも、事前に聞いていた聖女の名前を叫んで。
白い髪。 
目が見えないと目元に巻かれた布。
手に持つ盲導杖。
聞いていた要素の全てが噛み合い、そして何より、命を奪う『泥』に襲われながらも死する事無く生還し、その上全ての『泥』を追い払って見せた。
なら、間違いないだろう。
この少女こそ、俺達が求めた聖女。
シンルを救う鍵。
俺は、湧き上がる歓喜を抑えられぬまま、眠る少女を抱き上げた。 そしてそのまま、この場に残る騎士に向かって声をあげ宣言する。

「皆も見ただろう、この少女が『泥』を追い払ったのだ! この少女こそ、我らが此度の遠征によって求めていた聖女である!!」

ようやく見つけた救いの鍵。
それが、この胸の内にて眠る小さな少女であるという現実を噛み締めて、この手でシンルの未来を掴んだのだと胸の内で歓喜する。
これでシンルの暗雲の時は晴れるのだと、騎士達の歓声の中で確信しながら。
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