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最果ての少女
たった一人の少女
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カツン、カツン。
杖を頼りに、ナナシは屋敷の中を歩きます。
ナナシの目元を隠す布の下には目がありませんから、ずっとずっと長いこと住んでいるこの屋敷の中でさえ迷子になってしまう事があるのです。
だから、この貰い物の杖を頼りに、廊下に沿って置かれた石を導として移動します。
ナナシは、お客様がいらっしゃらない時には屋敷の手入れをします。 今日みたいにお客様がいらっしゃったら、お出迎えをして、おもてなしをして、お見送りをします。
屋敷にはナナシだけなので、全部をナナシが一人でこなすのです。
カツン、カツンと杖を鳴らして、コンコンと鳴るドアへと向かいます。
手探りでドアノブを探し、ガチャリとドアを開けて、出来得る満面の笑みを貼り付けて、お客様へとご挨拶をします。
「いらっしゃいませ、お客様。 この屋敷であなた様のお相手をさせていただきます、ナナシと申します」
初対面の方への挨拶は元気よく。 習った接客術の通り、声を上げて笑顔を貼り付けて丁寧な言葉使いをしました。
なのに、返ってきたのは沈黙で、ナナシは何か間違えたのかと少し不安になりました。
そして、やがて返ってきたのは、なんだか困惑したような声音でした。
「娘よ。 儂が……いや、死人が怖くはないのか? お主が儂を恐れるなら、儂は」
お客様の言葉に、何だそんな事かとナナシは納得します。 よくある、お客様の心配というだけの事でしたから。
声の調子から、今日のお客様はお年を召したお爺さまだと窺えます。
きっと、このお爺さまはお優しい方なのでしょう。 ナナシの事を気遣い、自らを死人であると打ち明けて、そして選択肢をくれたのですから。
ナナシに、お爺さまを受け入れる事は無いと。
けれど、お爺さまの心配は無用のものです。
「この屋敷にはナナシしかおりません。 だから誰かがいらっしゃるのなら、それが生人でも死人でも同じ事なのです。わたしと一緒にお話ししてくださるのなら、あなたはきっと良い人なのだから、怖い事なんて何もありません」
それに元より、それはこの屋敷に住まうナナシの役目でもある事。
この仕事を長く務めてきたのだから、今更、死人が怖いだなんて事は無いのです。
「ようこそ。 魂の巡礼、その最果ての地、祝福の屋敷へ。 まずは、あなたとナナシでお話でもしましょう」
お爺さまを屋敷へと招き入れ、ナナシは庭園に置いたテーブルを挟んで向かい合いました。
そして、お爺さまの事を知り、死してこの屋敷に至るまでの経緯を知るために、ナナシは色々と質問をします。
「お爺さまのお名前は? どのように生きて、どのように亡くなったのですか?」
「……儂の名は、リディ・オットー。 何処にでも居るようなつまらぬ爺で、死んだ時は……よく覚えておらんな。 気付いたら、ポックリ逝っとったわ」
「ご家族は? 奥様とか、お子さんとか、お孫さんとかは?」
「妻には先立たれたよ。 息子と娘共は、番う相手を見つけて出て行ったきりだ。 孫など、居たとしても顔さえ見た事も無い」
それから多弁となったお爺さまは、死ぬ前の自らの人生を語り始めました。
厳しい父親の下で農家の子として育てられ、当てがわれた女性を妻として迎えて、子を成し、家を継いだ。 そして、田舎町の農家として生計を立てていたオットー家の主人となったお爺さまもまた厳格な方となり、だから、子供達とは折り合いが悪かったとの事です。
父親のやり方を真似て、子供らが逞しく育つように厳しく接し、厳しく育て、故に当の子供らとは喧嘩ばかり。
奥様が仲介をしてギリギリ関係性を保っていた程度のもので、その奥様が亡くなってからは音信不通となってしまった。 子供らは成人し、そして、結婚を機に他所へと移っていったのです。
「妻を亡くし、子らは出て行き、儂は死んで、こうしてお嬢さんと話すまで一人で暮らしてきた。 近所付き合いはあったから孤独であったというわけではなかったがの、隣家の婆さんが孫自慢の話をする度にあの頃を思い出す。 妻が健在で、子らが居た、あの頃をな」
「お爺さまは、寂しかったのですね。 隣家のお婆さんが羨ましくて、過去を憧憬としているのですね」
「……そうか。 そうなのかもな………」
ナナシには、お爺さまの姿は見えません。
でも、気落ちした声の調子から、お爺さまが落胆なさっている事は伝わってきます。
ナナシには、気落ちするその気持ちなんて分かりません。 どんな言葉を掛ける事が正しいのかも分かりません。
でも、ナナシにだって思う事はあります。
それは羨望です。
だって、ナナシにはそうまで思えるような相手など既に居らず、故にナナシが望む過去などありはしないのですから。 そんな慰めも無いのですから。
それだけの希みがあるお爺さまは、まだ救われるのです。
ナナシとは違って。
だから、ナナシはお爺さまに救いをもたらすのです。
「お爺さま、お手をよろしいですか?」
「お嬢さん……?」
「どうか、お手を……はい、そうです。 温かいですか? この最果ての地は寒冷な場所で、だから屋敷の手入れで外作業をする時にはこの両手は重宝しているのです。 外で暖を取るのに、高い体温はとても手軽なものですから。 お爺さまも、こういう人の温もりは、きっとお久し振りでしょう?」
触れるお爺さまの手を、ナナシは両手で包み込みます。
孤独に打ち拉がれて、それを未練とする方への慰めには、生きた人間の体温こそが適していると、ナナシは知っています。 かつて、ナナシはそうして救われましたから。
ほんの少しの救済でも、心を開くには適した手法なのです。
それは、ナナシの仕事に必要な事だから。
目元を覆う布を取り去り、閉じられた瞼を開きます。 それでも、ナナシの視界に広がる暗闇は変わりませんけど。
「さあ、お爺さま。 ナナシの目を見て、目を離さないで。 あなたはナナシを見て、私はあなたの声と想いを遂げさせるわ……」
「何を。 いや、お嬢さん、目が……!」
「……だから、おやすみなさい」
ナナシの両目は、くり抜かれていて存在しません。 ただそこには昏い洞だけがあるのです。
この洞は、亡き魂の想念を掬い上げて、ナナシの義務感の元にその想いを遂げさせます。
お爺さまの未練を、ナナシが祓いましょう。
ーーー例えそれが、空虚な幻想であったとしても。
それもまた、紛れもなく、一つの救いなのですから。
少なくとも、ナナシはそう信じていますから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
寂れた町、その中にある小さな一軒家。
家主以外に人の寄らぬその家に、その日は多くの人が寄りました。
何故なら、家主の男が亡くなったから。
弔いのため、葬儀のため、多くの人が集まりました。
小さな町だからこそ、人々は密接に連なって、互いに寄り合って生きてきました。 それはまた、死さえも同義なのです。
遺体は清められ、棺へと納められ、教会の神父が祈り、手向けの生花を添えて、別れの言葉の後に墓地へと埋められます。
「まさか、あの親父が死んじまうとはな」
葬儀を執り仕切る男の一人が呟きました。
その声に男の声と女の声が一つずつ応じます。
「……そうだな」
「お母さんが亡くなってずっと会ってなかったけど、一度くらい帰ってくればよかった……」
声の主たる3人は、死した男の子供達。
声音は沈み、後悔が色濃く滲んでいました。
厳格で、喧嘩ばかりで、最後でさえ喧嘩別れであった父。
でも、彼らに父への情が無かったわけではないのです。
たとえ、喧嘩ばかりであったとしても、彼らの父である事に変わりはなく、血の縁と育ててくれた恩を忘れたわけでもありません。
彼らとて父を亡くして、心に在った父の存在の大きさに気付いたのです。
だから、父が死してから後悔をするのです。
思ったよりも、喧嘩ばかりしていた父を嫌っていなかったのですから。
今後、父の死は、彼らの心に楔となって突き刺さり続けるのでしょう。 故人を弔う心は、想う事こそが契機となるのです。
「ああ……。 そうか、そうか………」
死者を語るは、生者の権利。
生者に想われるは、死者の喜び。
死者にとってそれが愛する者の想いであれば、尚更の事でしょう。
父………いえ、お爺さまは、子らが自らを想い弔う姿に涙を零しています。 それは、きっと喜びの涙なのでしょう。
故に、その魂に残った未練は、ここに祓われました。
だから、おやすみなさい。
だから、お還りなさい。
そうして、未練を祓い、満たされたお爺さまの魂は、最果ての先へと還っていったのでした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
お爺さまの魂を還して、残された私は屋敷の自室、そのベッドの上で目を覚ましました。
「……ごめんなさいね。 お爺さま」
旅立った魂に一つ謝罪をして、ナナシは、わたしは、私は、吐き気を堪えてふらつく足に鞭打ち、日記を記します。
全てを書き記し、その場にぐらりと崩れ落ち………る前に、ナナシの体は誰かに受け止められました。
「まったく。 君はまた、無理をして」
呆れたような、聞き慣れた声。
それは、最果ての地に建つ屋敷を訪れるお客様とは違う、ナナシの知人。 いえ、神秘の存在のそれでした。
「ああ……妖精さん、なのね。 ごめんね、お出迎え出来なかったわ」
「そんな事は気にしなくてもいいよ、僕と君の仲だ。 それよりも、こんなにも顔を青褪めさせて、無理をし過ぎだろう。 こんな仕事くらい、休んだって誰も文句を言わないだろうに」
「駄目よ、私の、ナナシのお仕事だもの。 果たさなきゃならない、お役目だもの」
こんなナナシに、妖精さんはいつも優しいわ。
たまに口が悪くて、意地悪を言う時だってあるけれど、それはナナシを想っての事だって分かっているわ。
今だって、大きなため息を吐いて、でもナナシを横抱きにして運んで、ベッドに寝かせてくれるのだもの。
「君に、何を言っても聞かないのは知っているよ。 だったら、休める時は休め。 君が眠るまで、僕は君の傍を離れないからな」
「ええ、そうね。 私も、今日は疲れたから、もう休むわ……ふふふ。 ありがとう、妖精さん。 大好きよ」
「はいはい。 ………お休み、ナナシ」
「ええ、お休みなさい、妖精さん」
目の見えないナナシには、妖精さんの姿は見えません。
でも、ナナシが眠るまで傍に居てくれている事は知っています。
だって、瞼を閉じた暗闇の中でも、妖精さんの呼気の音と手に触れる感触だけは伝わってくるのですから。
ああ、ありがとう、こんなナナシの傍に居てくれて。
妖精さん。 ずっとずっと、大好きよ。
杖を頼りに、ナナシは屋敷の中を歩きます。
ナナシの目元を隠す布の下には目がありませんから、ずっとずっと長いこと住んでいるこの屋敷の中でさえ迷子になってしまう事があるのです。
だから、この貰い物の杖を頼りに、廊下に沿って置かれた石を導として移動します。
ナナシは、お客様がいらっしゃらない時には屋敷の手入れをします。 今日みたいにお客様がいらっしゃったら、お出迎えをして、おもてなしをして、お見送りをします。
屋敷にはナナシだけなので、全部をナナシが一人でこなすのです。
カツン、カツンと杖を鳴らして、コンコンと鳴るドアへと向かいます。
手探りでドアノブを探し、ガチャリとドアを開けて、出来得る満面の笑みを貼り付けて、お客様へとご挨拶をします。
「いらっしゃいませ、お客様。 この屋敷であなた様のお相手をさせていただきます、ナナシと申します」
初対面の方への挨拶は元気よく。 習った接客術の通り、声を上げて笑顔を貼り付けて丁寧な言葉使いをしました。
なのに、返ってきたのは沈黙で、ナナシは何か間違えたのかと少し不安になりました。
そして、やがて返ってきたのは、なんだか困惑したような声音でした。
「娘よ。 儂が……いや、死人が怖くはないのか? お主が儂を恐れるなら、儂は」
お客様の言葉に、何だそんな事かとナナシは納得します。 よくある、お客様の心配というだけの事でしたから。
声の調子から、今日のお客様はお年を召したお爺さまだと窺えます。
きっと、このお爺さまはお優しい方なのでしょう。 ナナシの事を気遣い、自らを死人であると打ち明けて、そして選択肢をくれたのですから。
ナナシに、お爺さまを受け入れる事は無いと。
けれど、お爺さまの心配は無用のものです。
「この屋敷にはナナシしかおりません。 だから誰かがいらっしゃるのなら、それが生人でも死人でも同じ事なのです。わたしと一緒にお話ししてくださるのなら、あなたはきっと良い人なのだから、怖い事なんて何もありません」
それに元より、それはこの屋敷に住まうナナシの役目でもある事。
この仕事を長く務めてきたのだから、今更、死人が怖いだなんて事は無いのです。
「ようこそ。 魂の巡礼、その最果ての地、祝福の屋敷へ。 まずは、あなたとナナシでお話でもしましょう」
お爺さまを屋敷へと招き入れ、ナナシは庭園に置いたテーブルを挟んで向かい合いました。
そして、お爺さまの事を知り、死してこの屋敷に至るまでの経緯を知るために、ナナシは色々と質問をします。
「お爺さまのお名前は? どのように生きて、どのように亡くなったのですか?」
「……儂の名は、リディ・オットー。 何処にでも居るようなつまらぬ爺で、死んだ時は……よく覚えておらんな。 気付いたら、ポックリ逝っとったわ」
「ご家族は? 奥様とか、お子さんとか、お孫さんとかは?」
「妻には先立たれたよ。 息子と娘共は、番う相手を見つけて出て行ったきりだ。 孫など、居たとしても顔さえ見た事も無い」
それから多弁となったお爺さまは、死ぬ前の自らの人生を語り始めました。
厳しい父親の下で農家の子として育てられ、当てがわれた女性を妻として迎えて、子を成し、家を継いだ。 そして、田舎町の農家として生計を立てていたオットー家の主人となったお爺さまもまた厳格な方となり、だから、子供達とは折り合いが悪かったとの事です。
父親のやり方を真似て、子供らが逞しく育つように厳しく接し、厳しく育て、故に当の子供らとは喧嘩ばかり。
奥様が仲介をしてギリギリ関係性を保っていた程度のもので、その奥様が亡くなってからは音信不通となってしまった。 子供らは成人し、そして、結婚を機に他所へと移っていったのです。
「妻を亡くし、子らは出て行き、儂は死んで、こうしてお嬢さんと話すまで一人で暮らしてきた。 近所付き合いはあったから孤独であったというわけではなかったがの、隣家の婆さんが孫自慢の話をする度にあの頃を思い出す。 妻が健在で、子らが居た、あの頃をな」
「お爺さまは、寂しかったのですね。 隣家のお婆さんが羨ましくて、過去を憧憬としているのですね」
「……そうか。 そうなのかもな………」
ナナシには、お爺さまの姿は見えません。
でも、気落ちした声の調子から、お爺さまが落胆なさっている事は伝わってきます。
ナナシには、気落ちするその気持ちなんて分かりません。 どんな言葉を掛ける事が正しいのかも分かりません。
でも、ナナシにだって思う事はあります。
それは羨望です。
だって、ナナシにはそうまで思えるような相手など既に居らず、故にナナシが望む過去などありはしないのですから。 そんな慰めも無いのですから。
それだけの希みがあるお爺さまは、まだ救われるのです。
ナナシとは違って。
だから、ナナシはお爺さまに救いをもたらすのです。
「お爺さま、お手をよろしいですか?」
「お嬢さん……?」
「どうか、お手を……はい、そうです。 温かいですか? この最果ての地は寒冷な場所で、だから屋敷の手入れで外作業をする時にはこの両手は重宝しているのです。 外で暖を取るのに、高い体温はとても手軽なものですから。 お爺さまも、こういう人の温もりは、きっとお久し振りでしょう?」
触れるお爺さまの手を、ナナシは両手で包み込みます。
孤独に打ち拉がれて、それを未練とする方への慰めには、生きた人間の体温こそが適していると、ナナシは知っています。 かつて、ナナシはそうして救われましたから。
ほんの少しの救済でも、心を開くには適した手法なのです。
それは、ナナシの仕事に必要な事だから。
目元を覆う布を取り去り、閉じられた瞼を開きます。 それでも、ナナシの視界に広がる暗闇は変わりませんけど。
「さあ、お爺さま。 ナナシの目を見て、目を離さないで。 あなたはナナシを見て、私はあなたの声と想いを遂げさせるわ……」
「何を。 いや、お嬢さん、目が……!」
「……だから、おやすみなさい」
ナナシの両目は、くり抜かれていて存在しません。 ただそこには昏い洞だけがあるのです。
この洞は、亡き魂の想念を掬い上げて、ナナシの義務感の元にその想いを遂げさせます。
お爺さまの未練を、ナナシが祓いましょう。
ーーー例えそれが、空虚な幻想であったとしても。
それもまた、紛れもなく、一つの救いなのですから。
少なくとも、ナナシはそう信じていますから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
寂れた町、その中にある小さな一軒家。
家主以外に人の寄らぬその家に、その日は多くの人が寄りました。
何故なら、家主の男が亡くなったから。
弔いのため、葬儀のため、多くの人が集まりました。
小さな町だからこそ、人々は密接に連なって、互いに寄り合って生きてきました。 それはまた、死さえも同義なのです。
遺体は清められ、棺へと納められ、教会の神父が祈り、手向けの生花を添えて、別れの言葉の後に墓地へと埋められます。
「まさか、あの親父が死んじまうとはな」
葬儀を執り仕切る男の一人が呟きました。
その声に男の声と女の声が一つずつ応じます。
「……そうだな」
「お母さんが亡くなってずっと会ってなかったけど、一度くらい帰ってくればよかった……」
声の主たる3人は、死した男の子供達。
声音は沈み、後悔が色濃く滲んでいました。
厳格で、喧嘩ばかりで、最後でさえ喧嘩別れであった父。
でも、彼らに父への情が無かったわけではないのです。
たとえ、喧嘩ばかりであったとしても、彼らの父である事に変わりはなく、血の縁と育ててくれた恩を忘れたわけでもありません。
彼らとて父を亡くして、心に在った父の存在の大きさに気付いたのです。
だから、父が死してから後悔をするのです。
思ったよりも、喧嘩ばかりしていた父を嫌っていなかったのですから。
今後、父の死は、彼らの心に楔となって突き刺さり続けるのでしょう。 故人を弔う心は、想う事こそが契機となるのです。
「ああ……。 そうか、そうか………」
死者を語るは、生者の権利。
生者に想われるは、死者の喜び。
死者にとってそれが愛する者の想いであれば、尚更の事でしょう。
父………いえ、お爺さまは、子らが自らを想い弔う姿に涙を零しています。 それは、きっと喜びの涙なのでしょう。
故に、その魂に残った未練は、ここに祓われました。
だから、おやすみなさい。
だから、お還りなさい。
そうして、未練を祓い、満たされたお爺さまの魂は、最果ての先へと還っていったのでした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
お爺さまの魂を還して、残された私は屋敷の自室、そのベッドの上で目を覚ましました。
「……ごめんなさいね。 お爺さま」
旅立った魂に一つ謝罪をして、ナナシは、わたしは、私は、吐き気を堪えてふらつく足に鞭打ち、日記を記します。
全てを書き記し、その場にぐらりと崩れ落ち………る前に、ナナシの体は誰かに受け止められました。
「まったく。 君はまた、無理をして」
呆れたような、聞き慣れた声。
それは、最果ての地に建つ屋敷を訪れるお客様とは違う、ナナシの知人。 いえ、神秘の存在のそれでした。
「ああ……妖精さん、なのね。 ごめんね、お出迎え出来なかったわ」
「そんな事は気にしなくてもいいよ、僕と君の仲だ。 それよりも、こんなにも顔を青褪めさせて、無理をし過ぎだろう。 こんな仕事くらい、休んだって誰も文句を言わないだろうに」
「駄目よ、私の、ナナシのお仕事だもの。 果たさなきゃならない、お役目だもの」
こんなナナシに、妖精さんはいつも優しいわ。
たまに口が悪くて、意地悪を言う時だってあるけれど、それはナナシを想っての事だって分かっているわ。
今だって、大きなため息を吐いて、でもナナシを横抱きにして運んで、ベッドに寝かせてくれるのだもの。
「君に、何を言っても聞かないのは知っているよ。 だったら、休める時は休め。 君が眠るまで、僕は君の傍を離れないからな」
「ええ、そうね。 私も、今日は疲れたから、もう休むわ……ふふふ。 ありがとう、妖精さん。 大好きよ」
「はいはい。 ………お休み、ナナシ」
「ええ、お休みなさい、妖精さん」
目の見えないナナシには、妖精さんの姿は見えません。
でも、ナナシが眠るまで傍に居てくれている事は知っています。
だって、瞼を閉じた暗闇の中でも、妖精さんの呼気の音と手に触れる感触だけは伝わってくるのですから。
ああ、ありがとう、こんなナナシの傍に居てくれて。
妖精さん。 ずっとずっと、大好きよ。
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