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3巻
3-3
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「行きつけって、あやかしのための店じゃないよな?」
「ええ。このじじいは、人間のふりをするのが得意でございましてな」
そう言って、僕を見上げてニィッと笑う。
「ここ三十年ほど、通い詰めとる店なんですよ」
「へぇ! 三十年も?」
「ええ、なん言うても肴が美味うてですな。――さ、こちらです」
大きい通りから一本裏に入ったところで、ぬらりひょんが足を止める。
岡山市の中心街も中心街。オフィスビルがひしめき合う、その一角。こじんまりとした、小さな四階建てのビルの一階店舗。
三十年前から通っているということで、古めかしい外観を想像していたけれど、どこかで一度改装しているのだろう。とても綺麗で、かつおしゃれだった。
瓦葺きの庇に漆喰の塗り壁。その白さに映える、紅殻塗りの千本格子引き戸。その前には、渋い海老茶色の暖簾がヒラリと風に揺れる。
壁にかけられた透明のアクリル看板には、ひどく流麗な文字で『粋』とだけ書かれている。
町家風でありながら、スッキリとモダン。たしかに、粋な店構えだった。
「いらっしゃいませ」
カラカラと引き戸を開けると、七十歳手前ぐらいの老夫婦が笑顔で迎えてくれる。
ゆったりと八人座れるカウンターに座敷の四人席が二つ。店内は木の温もりが感じられる和モダンなデザインで、暖色系の明かりになんだかホッとさせられる。
「まぁ、瀬戸のおじいちゃん、いつもありがとうございます」
「今日は連れがおりましてな。座敷席でお願いできますかな」
「はい、大丈夫でございますよ。みなさま、奥へどうぞ」
にっこり笑顔で案内された席に座る。僕の隣に太常が、僕の正面に座ったぬらりひょん、その隣に朔。
いい匂いのする熱々のおしぼりで手を拭きながら、僕は奥さんが卓の上に置いた手書きの『本日のおすすめ』を覗き込んだ。
「岡山の山海の幸って言っても、ピンとこないな。フルーツが有名なのは知ってるけど」
「なんと! ブランド牛だけでも有名なもんがなんぼもありますけんのぉ。千屋牛は全国の和牛のルーツとも言われる歴史が深い黒毛和種じゃし、備中牛も明治時代から続く伝統と歴史に裏打ちされたたしかな品質の和牛じゃ。ほかに、つやま和牛になぎビーフも……。牛だけじゃありゃあせんで。岡山ピーチポークに森林どりなんかもありますけん。温暖な気候は、農作だけじゃのうて畜産にもとても向いとります」
「ああ、そっか。言われてみれば、そうだよな」
「津山には独特な肉食文化もありますよね。そずり鍋とかヨメナカセとか。あ、マキちゃん、ホルモンうどんは知ってるんじゃないですか? 二〇一一年の『B級ご当地グルメの祭典 B‐1グランプリ』で二位になってるんですけど。俺、実は好きなんですよ」
「あ、聞いたことある」
食べたことはないけど。
「それより、ヨメナカセが気になったんだけど。嫁を泣かせるって名前なのか?」
なんか物騒だな。
「心臓近くの大動脈のことで、一般的にはコリコリとかタケノコとかハツモトって呼ばれる部位なんですけど、こちらではヨメナカセって言うんですよ」
「ああ、コリコリは聞いたことあるかも? でも、なんでヨメナカセなんだ?」
「いろんな説がありますね。下処理が大変だから嫁が泣くとか、誰が調理しても美味いので嫁の仕事を奪ってしまい、泣かせる。美味すぎるので嫁に食べさせようとしないため、嫁が泣くとか……。あとは、滋養強壮効果で夜が強くなり、別の意味で嫁が泣くとか」
「へぇ~」
「興味がおありなようじゃけぇ、それを頼みましょうか」
「え? 焼肉を?」
初っ端からそれはキツくないか?
っていうか、名前が違うだけで東京にもあるなら、別にここで食べる必要もなくないか?
「どうせなら岡山ならではのものが食べたいんだけど。そして、最初はやっぱり生ものとか、あっさりしたものからはじめたい」
もちろん、ここには話し合いをするために来たんだよ。それは、ちゃんとわかってるよ。でも、やっぱり食事は食事で楽しみたいじゃんか。
「関東ではホルモンと言えば焼肉かもしれませんけど、こっちではそんなことないんですよ、マキちゃん。あっさりしたホルモン料理もあります」
「あ、そうなんだ?」
「ほうじゃのぉ、ほんならまず下津井のタコのぶつ切り、ママカリの刺身、岡山と言えばの鰆の塩たたき、黄ニラの刺身、桃太郎トマトのスライス、ヨメナカセの湯引きポン酢といきましょうか」
ぬらりひょんがそう言って、そのとおり注文する。
「飲みもんは、わしはいつものを。『鬼神』を冷やで」
「あ、俺は『吉備津彦命』でお願いします」
「岡山の地ビールか……。それもいいけど、僕は岡山総社産の白桃のリキュールを二つ」
「わたくしは、『阿曽媛』を。冷やで」
鬼神も阿曽媛も岡山の地酒――日本酒だ。
接客担当の奥さんが「かしこまりました」と元気よく言って戻っていく。僕は眉を寄せて、太常をにらみつけた。
「おい、お前運転……」
「神が一杯や二杯で酔うとでも? 三日三晩呑んでようやくという酒量なのは、身をもって知られたはずですが」
「いや、酔うかどうかって話じゃなくて」
「あ、コンプライアンス的なお話ですか? 神に法律が適用されるとは思いませんが」
「今、お前は『鴨方さん』してるじゃないか。人間のふりをするなら、人間の法に従えよ」
「では帰りは車には乗らず、空間を繋ぎましょう。それならよろしいですか?」
「…………」
つまり、どうしても呑みたいのか。
僕はそっと肩をすくめて、あらためてぬらりひょんを見た。
「ママカリってアレだろ? 『御飯を借りに行くほど美味しい』っていう、魚の酢漬け」
「……少し違うのぉ」
「ニアピンです。マキちゃん」
「えっ!? ち、違うのか!?」
マジでそういう認識だったんだけど!?
「ママカリは料理名じゃなくて、魚自体の名前なんですよ」
「あ、そうなんだ!? 小魚を酢漬けにした料理をママカリと言うもんだとばかり……」
「まぁ、東京で『ママカリ』の名で売ってるのは、たしかに酢漬けばかりでしょうけどね」
へぇ、そうなのか。
「なんか、めちゃくちゃ楽しみになってきたな」
その地方独特の――東京にはない色を知れるのは、面白い。
そもそも、僕が知らない日本を、そして世界を知りたくて、旅行会社を選んで就職したんだよな。入社する前に倒産したけど。
「…………」
かつて、太常は言った。
『ここ備中は、日の本の陰陽道の祖――吉備真備を生んだ土地。その末裔である賀茂忠行、その息子であり、安倍晴明の師でもある賀茂保憲もこの地で修業を積みました。この地は、陰陽道に携わる者の聖地とも呼べる場所』
安倍晴明は、霊験あらたかな岡山の地に、己の原点とも言える阿部山に、国の礎として、国を守る結界として、十二天将をはじめ最強の布陣を敷いた。それが、あの幽世の屋敷だ。
神やあやかしについてももちろんだけど、この土地についても僕はもっと知るべきだな。名物料理一つ、知らないなんて。
そんなことを考えていると、注文したものが運ばれてくる。
「お~っ!」
思わず、感嘆の声が漏れてしまう。器も盛りつけも、ひどく美しい。
「ほんなら、まずは乾杯しましょうかのぉ」
「あ、ちょっと待って。――華」
傍らに置いたボディバッグをトントンと優しく叩く。
「出ておいで。――ああ、人に見せようとしなくていいよ。そのままでいいから」
小声でそう言うと、華がふわりと姿を現す。
その小さな身体を抱き留めて、僕はにっこりと笑った。
「ヌシさま、よいのか? 我は本体の中で待機でもよかったのだぞ?」
「でも、せっかくだからさ。僕と太常の間に座っていれば、太常が壁になってあっちからはそうそう見えないから」
華の姿は見えなくても、華が触って動かす箸やグラスは見えるからな。注意が必要だけど、ここなら大丈夫だろう。
隣に座らせて、その目の前に白桃のリキュールを差し出す。
「飲みたいだろ? 華の好きな甘いお酒だから」
「……うむ」
華が嬉しそうに頬を染め、それを受け取る。――可愛い。
「……幼女にお酒を飲ませるのはよいのですか?」
「華はあやかしだから」
太常がなんだか不満そうに眉を寄せたけれど、それは無視する。
「では、あらためまして」
それぞれ飲みものを軽く持ち上げて、乾杯する。
甘いお酒で喉を潤して――僕は卓の上に並ぶ料理を見回した。
朔が、ピンク色の岩塩プレートに乗ったトマトと黄色いニラを小皿に取り分けてくれる。
「桃太郎トマトはゼリーにもなってるから知ってるんだけど、食べるのははじめてだな……って、薄っ! えっ!? 薄っ!」
まずは一切れと、箸をつけてみて驚く。切れ目がよく見えてなかったんだけど、居酒屋で普通に出てくるスライストマトの三分の一ほどの厚さしかない。
「向こうが透けてるじゃん……」
「まぁまぁ、食べてみられえ」
ぬらりひょんに言われるまま、一切れ口に入れて――さらに驚く。
「……! うっま! ちょ、ちょっと待て。この薄さで、なんて味の濃厚さだよ……!」
「そうじゃろう?」
ぬらりひょんが嬉しそうに何度も頷いて、ひどく誇らしげに胸を張る。
「桃太郎トマトの美味しさは言うまでもありゃあせんが、完熟したトマトをここまで薄う切る大将の腕もまた素晴らしいもんじゃ。さぁ、黄ニラの刺身もどうぞ。明治期から岡山での生産が本格化し、今や生産量全国一位! 全体の七割が岡山県産なんじゃけぇ!」
「……ニラって刺身で食えるもんだっけ?」
ぬらりひょんの熱いプレゼンを聞きながら、恐々箸を伸ばす。
「あ、甘くて美味しい。ニラ特有のクセはほんのりあるけど、逆にそれがいいアクセントになってる感じ。シャキシャキ食感もいい。僕、これ好きだな」
「おお、そりゃ嬉しいのぉ。黄ニラは大半を県内で消費してしまうもんじゃけぇ、なかなかほかの土地じゃあ手に入らんと聞く、知らん人も多い食材なんじゃ」
僕の反応にぬらりひょんが満足げに頷いて、手を上げて奥さんを呼ぶ。
「千屋牛のステーキにヨメナカセの唐揚げ、牛窓マッシュルームのフライ。そうめん南瓜の天ぷらを。ああ、ママカリの天ぷらも」
え? めっちゃ頼むじゃん。
「ちょ、ちょっと待て、ぬらりひょん。太常はもの食べないんだから、加減してくれよ? 頼んでおいて残すのは嫌いなんだ」
奥さんが戻っていくのを確認して、慌てて釘を刺す。――遅かったかもしれないけれど。
「ああ、心配いりません。一品一品の量はそねぇ多くないけぇ。その分お安いじゃろう?」
「それならいいんだけど……」
「テイクアウトもしとりますけん、余ったら持ち帰ることもできますけぇ、ご安心を」
「……詳しいな」
「そりゃ、もう! 惚れ込んどるけぇのぉ!」
ぬらりひょんがニィッと笑う。
どこか得意げな――ひどく嬉しそうな邪気のない笑顔に、そして気を許してくれたのか、どんどん砕けてゆく口調に、僕もつられて微笑んだ。
「そんな感じだ。でなきゃ、三十年も通わないよな」
「そのとおりじゃ。主どの。寿命は長くとも移り気で飽き性なあやかしにとって、三十年は伊達じゃありゃあせんで。――ささ、こっちも。ママカリは美味いど」
皿が空になったらすぐに引いて、サッとテーブルを拭いて、すかさず次を目の前に出す。実に甲斐甲斐しく世話してくれる。あやかしに接待してもらったのははじめてだな。
でも、僕をもてなすためというよりは、大将の料理を食べてほしくてしかたないといった感じだ。どんどん食べてほしいから、箸を止めさせないようにお世話に徹していると。
「…………」
カウンターの奥で黙々と作業をしている大将を見る。
もしかして――?
「主どの、はじめてのママカリはどねぇな?」
ふと考え込んだ僕に、ぬらりひょんがすかさず声をかけてくる。
まるで、食事に集中してくれと言わんばかりだ。僕は苦笑して、彼に視線を戻した。
「美味しい。この魚を刺身にする技術がすごいよな。こんなに小さいのに、綺麗に開いて、小骨も完璧に取り除いて」
「そうじゃろう? そうじゃろう?」
「なぁ、そうめん南瓜ってなんだ? さっきの注文で気になったんだけど」
「火を通すと、そうめんみたいになる南瓜じゃ」
「そうめんみたいに? ええと……?」
全然想像がつかないんだけど。
思わず眉を寄せると、朔ペディアがすかさず補足説明してくれる。――便利だな。
「かぼちゃっていうより、瓜ですね。輪切りにして茹でると、果肉部分が……そうですねぇ、じゃがいもの千切りみたいな感じになるんですよ。細かい繊維にほぐれるって言うか」
「へぇ! 面白いな」
「ちょうど今ぐらいから夏終わりごろまでが旬ですね。かなりあっさりしてるんで、夏場は茹でて水に晒してほぐしたものを、本当にそうめんのようにつゆにつけて食べたりしますね。美味しいですよ」
「……お前はなんでも知ってるな」
「そんな大層なもんじゃありませんよ。あやかしに関することと、この地方に関すること、あとは女の子に関することは、マキちゃんより少し詳しいってだけです」
ニカッと笑って、カウンターのほうに声をかける。
「すみませ~ん! 桃太郎ハイボールください!」
「え? 桃太郎ハイボール?」
「岡山のご当地ハイボールっすよ。桃のシロップが入った角ハイです」
「え、何それ。美味そう」
「美味いっすよ。頼みます? あ、華姐さんはワインとかどうっすか? マスカット・オブ・アレキサンドリアの甘口ワインとかありますよ」
「ほう?」
頼んだ酒とともに、料理がやって来る。
「う、うわ~っ!」
鉄板の上でじゅうじゅういっているステーキの絵力は半端ない。美味そうっ!
「すみません、桃太郎ハイボールもう一杯と、マスカット・オブ・アレキサンドリアの甘口ワインをグラスで」
「はい」
「阿曽媛も、冷やでもう一杯」
太常もしれっと追加注文。――そうか、気に入ったのか。
「さぁさぁ、どうぞ。岡山が誇る和牛じゃあ」
ぬらりひょんに勧められて、千屋牛のステーキをパクリ。
瞬間、滝のような肉汁が溢れて、喉の奥へと流れ込んでゆく。肉質はひどく柔らかくて、月並みな表現だけれど、まさに『口の中で溶ける』だ。
「ここ週一で通うわ……」
あまりの美味しさにしみじみ言うと、太常が嫌そうに眉を寄せる。
「何を言ってるんです。そんな時間がどこにあるんですか?」
「空間を繋ぎゃいいだろ? っていうか、行きもそうすりゃよかったんだよ。そうすれば、移動時間はゼロなんだから」
「どこに人の目があるかわからないのにですか? 屋敷へ戻るのは、どこから繋げようとも出た先で目撃されることはございませんが、逆はそうではありません」
行き先の状況も考えずに下手なところに繋げたら、衆人環視の中にテレポートすることになっちゃうってことだろ? わかってるけど。
「ええ。このじじいは、人間のふりをするのが得意でございましてな」
そう言って、僕を見上げてニィッと笑う。
「ここ三十年ほど、通い詰めとる店なんですよ」
「へぇ! 三十年も?」
「ええ、なん言うても肴が美味うてですな。――さ、こちらです」
大きい通りから一本裏に入ったところで、ぬらりひょんが足を止める。
岡山市の中心街も中心街。オフィスビルがひしめき合う、その一角。こじんまりとした、小さな四階建てのビルの一階店舗。
三十年前から通っているということで、古めかしい外観を想像していたけれど、どこかで一度改装しているのだろう。とても綺麗で、かつおしゃれだった。
瓦葺きの庇に漆喰の塗り壁。その白さに映える、紅殻塗りの千本格子引き戸。その前には、渋い海老茶色の暖簾がヒラリと風に揺れる。
壁にかけられた透明のアクリル看板には、ひどく流麗な文字で『粋』とだけ書かれている。
町家風でありながら、スッキリとモダン。たしかに、粋な店構えだった。
「いらっしゃいませ」
カラカラと引き戸を開けると、七十歳手前ぐらいの老夫婦が笑顔で迎えてくれる。
ゆったりと八人座れるカウンターに座敷の四人席が二つ。店内は木の温もりが感じられる和モダンなデザインで、暖色系の明かりになんだかホッとさせられる。
「まぁ、瀬戸のおじいちゃん、いつもありがとうございます」
「今日は連れがおりましてな。座敷席でお願いできますかな」
「はい、大丈夫でございますよ。みなさま、奥へどうぞ」
にっこり笑顔で案内された席に座る。僕の隣に太常が、僕の正面に座ったぬらりひょん、その隣に朔。
いい匂いのする熱々のおしぼりで手を拭きながら、僕は奥さんが卓の上に置いた手書きの『本日のおすすめ』を覗き込んだ。
「岡山の山海の幸って言っても、ピンとこないな。フルーツが有名なのは知ってるけど」
「なんと! ブランド牛だけでも有名なもんがなんぼもありますけんのぉ。千屋牛は全国の和牛のルーツとも言われる歴史が深い黒毛和種じゃし、備中牛も明治時代から続く伝統と歴史に裏打ちされたたしかな品質の和牛じゃ。ほかに、つやま和牛になぎビーフも……。牛だけじゃありゃあせんで。岡山ピーチポークに森林どりなんかもありますけん。温暖な気候は、農作だけじゃのうて畜産にもとても向いとります」
「ああ、そっか。言われてみれば、そうだよな」
「津山には独特な肉食文化もありますよね。そずり鍋とかヨメナカセとか。あ、マキちゃん、ホルモンうどんは知ってるんじゃないですか? 二〇一一年の『B級ご当地グルメの祭典 B‐1グランプリ』で二位になってるんですけど。俺、実は好きなんですよ」
「あ、聞いたことある」
食べたことはないけど。
「それより、ヨメナカセが気になったんだけど。嫁を泣かせるって名前なのか?」
なんか物騒だな。
「心臓近くの大動脈のことで、一般的にはコリコリとかタケノコとかハツモトって呼ばれる部位なんですけど、こちらではヨメナカセって言うんですよ」
「ああ、コリコリは聞いたことあるかも? でも、なんでヨメナカセなんだ?」
「いろんな説がありますね。下処理が大変だから嫁が泣くとか、誰が調理しても美味いので嫁の仕事を奪ってしまい、泣かせる。美味すぎるので嫁に食べさせようとしないため、嫁が泣くとか……。あとは、滋養強壮効果で夜が強くなり、別の意味で嫁が泣くとか」
「へぇ~」
「興味がおありなようじゃけぇ、それを頼みましょうか」
「え? 焼肉を?」
初っ端からそれはキツくないか?
っていうか、名前が違うだけで東京にもあるなら、別にここで食べる必要もなくないか?
「どうせなら岡山ならではのものが食べたいんだけど。そして、最初はやっぱり生ものとか、あっさりしたものからはじめたい」
もちろん、ここには話し合いをするために来たんだよ。それは、ちゃんとわかってるよ。でも、やっぱり食事は食事で楽しみたいじゃんか。
「関東ではホルモンと言えば焼肉かもしれませんけど、こっちではそんなことないんですよ、マキちゃん。あっさりしたホルモン料理もあります」
「あ、そうなんだ?」
「ほうじゃのぉ、ほんならまず下津井のタコのぶつ切り、ママカリの刺身、岡山と言えばの鰆の塩たたき、黄ニラの刺身、桃太郎トマトのスライス、ヨメナカセの湯引きポン酢といきましょうか」
ぬらりひょんがそう言って、そのとおり注文する。
「飲みもんは、わしはいつものを。『鬼神』を冷やで」
「あ、俺は『吉備津彦命』でお願いします」
「岡山の地ビールか……。それもいいけど、僕は岡山総社産の白桃のリキュールを二つ」
「わたくしは、『阿曽媛』を。冷やで」
鬼神も阿曽媛も岡山の地酒――日本酒だ。
接客担当の奥さんが「かしこまりました」と元気よく言って戻っていく。僕は眉を寄せて、太常をにらみつけた。
「おい、お前運転……」
「神が一杯や二杯で酔うとでも? 三日三晩呑んでようやくという酒量なのは、身をもって知られたはずですが」
「いや、酔うかどうかって話じゃなくて」
「あ、コンプライアンス的なお話ですか? 神に法律が適用されるとは思いませんが」
「今、お前は『鴨方さん』してるじゃないか。人間のふりをするなら、人間の法に従えよ」
「では帰りは車には乗らず、空間を繋ぎましょう。それならよろしいですか?」
「…………」
つまり、どうしても呑みたいのか。
僕はそっと肩をすくめて、あらためてぬらりひょんを見た。
「ママカリってアレだろ? 『御飯を借りに行くほど美味しい』っていう、魚の酢漬け」
「……少し違うのぉ」
「ニアピンです。マキちゃん」
「えっ!? ち、違うのか!?」
マジでそういう認識だったんだけど!?
「ママカリは料理名じゃなくて、魚自体の名前なんですよ」
「あ、そうなんだ!? 小魚を酢漬けにした料理をママカリと言うもんだとばかり……」
「まぁ、東京で『ママカリ』の名で売ってるのは、たしかに酢漬けばかりでしょうけどね」
へぇ、そうなのか。
「なんか、めちゃくちゃ楽しみになってきたな」
その地方独特の――東京にはない色を知れるのは、面白い。
そもそも、僕が知らない日本を、そして世界を知りたくて、旅行会社を選んで就職したんだよな。入社する前に倒産したけど。
「…………」
かつて、太常は言った。
『ここ備中は、日の本の陰陽道の祖――吉備真備を生んだ土地。その末裔である賀茂忠行、その息子であり、安倍晴明の師でもある賀茂保憲もこの地で修業を積みました。この地は、陰陽道に携わる者の聖地とも呼べる場所』
安倍晴明は、霊験あらたかな岡山の地に、己の原点とも言える阿部山に、国の礎として、国を守る結界として、十二天将をはじめ最強の布陣を敷いた。それが、あの幽世の屋敷だ。
神やあやかしについてももちろんだけど、この土地についても僕はもっと知るべきだな。名物料理一つ、知らないなんて。
そんなことを考えていると、注文したものが運ばれてくる。
「お~っ!」
思わず、感嘆の声が漏れてしまう。器も盛りつけも、ひどく美しい。
「ほんなら、まずは乾杯しましょうかのぉ」
「あ、ちょっと待って。――華」
傍らに置いたボディバッグをトントンと優しく叩く。
「出ておいで。――ああ、人に見せようとしなくていいよ。そのままでいいから」
小声でそう言うと、華がふわりと姿を現す。
その小さな身体を抱き留めて、僕はにっこりと笑った。
「ヌシさま、よいのか? 我は本体の中で待機でもよかったのだぞ?」
「でも、せっかくだからさ。僕と太常の間に座っていれば、太常が壁になってあっちからはそうそう見えないから」
華の姿は見えなくても、華が触って動かす箸やグラスは見えるからな。注意が必要だけど、ここなら大丈夫だろう。
隣に座らせて、その目の前に白桃のリキュールを差し出す。
「飲みたいだろ? 華の好きな甘いお酒だから」
「……うむ」
華が嬉しそうに頬を染め、それを受け取る。――可愛い。
「……幼女にお酒を飲ませるのはよいのですか?」
「華はあやかしだから」
太常がなんだか不満そうに眉を寄せたけれど、それは無視する。
「では、あらためまして」
それぞれ飲みものを軽く持ち上げて、乾杯する。
甘いお酒で喉を潤して――僕は卓の上に並ぶ料理を見回した。
朔が、ピンク色の岩塩プレートに乗ったトマトと黄色いニラを小皿に取り分けてくれる。
「桃太郎トマトはゼリーにもなってるから知ってるんだけど、食べるのははじめてだな……って、薄っ! えっ!? 薄っ!」
まずは一切れと、箸をつけてみて驚く。切れ目がよく見えてなかったんだけど、居酒屋で普通に出てくるスライストマトの三分の一ほどの厚さしかない。
「向こうが透けてるじゃん……」
「まぁまぁ、食べてみられえ」
ぬらりひょんに言われるまま、一切れ口に入れて――さらに驚く。
「……! うっま! ちょ、ちょっと待て。この薄さで、なんて味の濃厚さだよ……!」
「そうじゃろう?」
ぬらりひょんが嬉しそうに何度も頷いて、ひどく誇らしげに胸を張る。
「桃太郎トマトの美味しさは言うまでもありゃあせんが、完熟したトマトをここまで薄う切る大将の腕もまた素晴らしいもんじゃ。さぁ、黄ニラの刺身もどうぞ。明治期から岡山での生産が本格化し、今や生産量全国一位! 全体の七割が岡山県産なんじゃけぇ!」
「……ニラって刺身で食えるもんだっけ?」
ぬらりひょんの熱いプレゼンを聞きながら、恐々箸を伸ばす。
「あ、甘くて美味しい。ニラ特有のクセはほんのりあるけど、逆にそれがいいアクセントになってる感じ。シャキシャキ食感もいい。僕、これ好きだな」
「おお、そりゃ嬉しいのぉ。黄ニラは大半を県内で消費してしまうもんじゃけぇ、なかなかほかの土地じゃあ手に入らんと聞く、知らん人も多い食材なんじゃ」
僕の反応にぬらりひょんが満足げに頷いて、手を上げて奥さんを呼ぶ。
「千屋牛のステーキにヨメナカセの唐揚げ、牛窓マッシュルームのフライ。そうめん南瓜の天ぷらを。ああ、ママカリの天ぷらも」
え? めっちゃ頼むじゃん。
「ちょ、ちょっと待て、ぬらりひょん。太常はもの食べないんだから、加減してくれよ? 頼んでおいて残すのは嫌いなんだ」
奥さんが戻っていくのを確認して、慌てて釘を刺す。――遅かったかもしれないけれど。
「ああ、心配いりません。一品一品の量はそねぇ多くないけぇ。その分お安いじゃろう?」
「それならいいんだけど……」
「テイクアウトもしとりますけん、余ったら持ち帰ることもできますけぇ、ご安心を」
「……詳しいな」
「そりゃ、もう! 惚れ込んどるけぇのぉ!」
ぬらりひょんがニィッと笑う。
どこか得意げな――ひどく嬉しそうな邪気のない笑顔に、そして気を許してくれたのか、どんどん砕けてゆく口調に、僕もつられて微笑んだ。
「そんな感じだ。でなきゃ、三十年も通わないよな」
「そのとおりじゃ。主どの。寿命は長くとも移り気で飽き性なあやかしにとって、三十年は伊達じゃありゃあせんで。――ささ、こっちも。ママカリは美味いど」
皿が空になったらすぐに引いて、サッとテーブルを拭いて、すかさず次を目の前に出す。実に甲斐甲斐しく世話してくれる。あやかしに接待してもらったのははじめてだな。
でも、僕をもてなすためというよりは、大将の料理を食べてほしくてしかたないといった感じだ。どんどん食べてほしいから、箸を止めさせないようにお世話に徹していると。
「…………」
カウンターの奥で黙々と作業をしている大将を見る。
もしかして――?
「主どの、はじめてのママカリはどねぇな?」
ふと考え込んだ僕に、ぬらりひょんがすかさず声をかけてくる。
まるで、食事に集中してくれと言わんばかりだ。僕は苦笑して、彼に視線を戻した。
「美味しい。この魚を刺身にする技術がすごいよな。こんなに小さいのに、綺麗に開いて、小骨も完璧に取り除いて」
「そうじゃろう? そうじゃろう?」
「なぁ、そうめん南瓜ってなんだ? さっきの注文で気になったんだけど」
「火を通すと、そうめんみたいになる南瓜じゃ」
「そうめんみたいに? ええと……?」
全然想像がつかないんだけど。
思わず眉を寄せると、朔ペディアがすかさず補足説明してくれる。――便利だな。
「かぼちゃっていうより、瓜ですね。輪切りにして茹でると、果肉部分が……そうですねぇ、じゃがいもの千切りみたいな感じになるんですよ。細かい繊維にほぐれるって言うか」
「へぇ! 面白いな」
「ちょうど今ぐらいから夏終わりごろまでが旬ですね。かなりあっさりしてるんで、夏場は茹でて水に晒してほぐしたものを、本当にそうめんのようにつゆにつけて食べたりしますね。美味しいですよ」
「……お前はなんでも知ってるな」
「そんな大層なもんじゃありませんよ。あやかしに関することと、この地方に関すること、あとは女の子に関することは、マキちゃんより少し詳しいってだけです」
ニカッと笑って、カウンターのほうに声をかける。
「すみませ~ん! 桃太郎ハイボールください!」
「え? 桃太郎ハイボール?」
「岡山のご当地ハイボールっすよ。桃のシロップが入った角ハイです」
「え、何それ。美味そう」
「美味いっすよ。頼みます? あ、華姐さんはワインとかどうっすか? マスカット・オブ・アレキサンドリアの甘口ワインとかありますよ」
「ほう?」
頼んだ酒とともに、料理がやって来る。
「う、うわ~っ!」
鉄板の上でじゅうじゅういっているステーキの絵力は半端ない。美味そうっ!
「すみません、桃太郎ハイボールもう一杯と、マスカット・オブ・アレキサンドリアの甘口ワインをグラスで」
「はい」
「阿曽媛も、冷やでもう一杯」
太常もしれっと追加注文。――そうか、気に入ったのか。
「さぁさぁ、どうぞ。岡山が誇る和牛じゃあ」
ぬらりひょんに勧められて、千屋牛のステーキをパクリ。
瞬間、滝のような肉汁が溢れて、喉の奥へと流れ込んでゆく。肉質はひどく柔らかくて、月並みな表現だけれど、まさに『口の中で溶ける』だ。
「ここ週一で通うわ……」
あまりの美味しさにしみじみ言うと、太常が嫌そうに眉を寄せる。
「何を言ってるんです。そんな時間がどこにあるんですか?」
「空間を繋ぎゃいいだろ? っていうか、行きもそうすりゃよかったんだよ。そうすれば、移動時間はゼロなんだから」
「どこに人の目があるかわからないのにですか? 屋敷へ戻るのは、どこから繋げようとも出た先で目撃されることはございませんが、逆はそうではありません」
行き先の状況も考えずに下手なところに繋げたら、衆人環視の中にテレポートすることになっちゃうってことだろ? わかってるけど。
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