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追いかけてきた攻めにつかまった受けの話

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「おはようございます、直巳くん」
「おはようございます、マスター」

 俺の新しい職場は喫茶店だ。学生時代にバイトしていた喫茶店のマスターの紹介で、半年前にオープンした純喫茶の店員として働いている。大学を卒業後すぐに結婚が決まっていた俺は就職活動らしい就職活動をしていなかったから本当に運が良かった。実家を頼る気はなかったし、しばらくは学生時代の貯金で食い繋いで行こうと思っていたからここを紹介してくれたマスターにも、雇ってくれたマスターにも頭が上がらない。

「今日も素敵な服ですね」

 特にそのジャケットが最高、とマスター。

「そうですか? ありがとうございます」

 笑顔が引き攣らないよう意識しながら俺はさりげなくジャケットを脱いだ。マスターは質の良い物しか身に付けないオシャレな初老の男性だ。良い物は長く使えるから、と手入れも欠かさない人で、俺も手入れが面倒なイメージがあって持て余していた革靴の手入れの仕方を教わったことがある。そんな人に毎日のように身なりを褒めてもらえるのは嬉しいけど、実のところ素直に喜べていなかった。
 何を隠そう俺の身につける物のほとんどが恵さんからプレゼントされたものなのだ。今褒められたジャケットだって3年前のクリスマスに贈られた物だ。引っ越しの荷造りをする際に恵さんから貰ったものは全部置いていこうとしたら、持っていける物がほとんど無くて驚いたのも記憶に新しい。驚いたけど、確かに思い出す限りこの7年で自分で服を買った記憶がなかった。
 引っ越しの荷造りをするまでそのことに気づかない自分に呆れたし、当然のように恵さんに甘えきっていたことも情けなかった。恵さんは俺の事どう思っていたんだろう。本当に離れて正解だったと思う。
 そんな訳だから俺はマスターが服を褒める度に恵さんのことを思い出す羽目になっていた。彼を忘れるために一人暮らしまで始めたはずなのに、忘れる所かそれを貰った時のことまで一緒に思い出して毎回惚れ直している始末だ。おかげで最近俺の口癖がこんなはずじゃなかった、になりつつある。
 とはいえ、本当に忘れたいのなら手持ちの服を全て買い直せばいい。それをまだ着れる服を買い直せるほど懐に余裕があるわけじゃないから、といもしない誰かに言い訳して買い直すことをしないのは俺自身だ。
 だって、俺はこの先、直巳に似合うと思って、と垂れ目気味の目尻をさらに下げて紙袋を差し出されることはもうないのだ。自分から捨てたくせに女々しすぎるのはわかっているけど、これ以上彼との思い出を捨てることはできなかった。

 自分用のロッカーに置いてあるハンガーにジャケットを丁寧に掛けながら俺は小さなため息を吐いて、小さく首を振った。こんな調子じゃいつかグラスでも割ってしまう。ジャケットを視界から消すようにロッカーの扉を閉めた。

「直巳くん」

 マスターが顔だけ覗かせて俺を呼んだ。後ろ手でエプロンのリボンを結びながら俺は首を傾げた。

「どうしました?」
「ドリア食べますか?」
「食べますっ」

 言ってから、勢いが良すぎた、と顔が熱くなる。何とか取り繕おうと口を開いたらタイミングよくぐぅぅと腹が鳴った。どうして俺は昨日卵を使い切っちゃったんだ。
 腹を押さえて真っ赤な顔でチラリとマスターを伺うと、穏やかな顔でパンもありますよ、と付け加えられた。マスターの孫を見るような目が居た堪れない。

「いえ大丈夫です…」
「そう?」
「そ、それより、ドリアってメニューになかったですよね?」
「はい。軽食メニューを増やそうと思って」

 マスターは、試食したいんだけど私はもう食べたくなくて、と苦笑した。そういうことなら俺の出番だ。

「あ、でも床掃除がまだなので、ドリアはその後で食べます」
「そう言えばまだでしたね」
「すぐ終わらせます!」

 ドリアに想いを馳せながら俺は箒を手に取った。マスターが笑いを噛み殺しながら直巳くん、と俺の名前を呼ぶ。

「先にドリア食べませんか?」
「え」
「出来たてを食べて欲しくて」
「出来たて…」

 時間は十分あるから大丈夫だよ、と言うマスターの言葉に俺は呆気なく陥落した。マスターの作るご飯はとてもおいしいのだ。


「おいしい!」
「それは良かった」

 日を追うごとにマスターの中で俺の扱いがどんどん小さな子供に対するそれになっている気がする。特に不満はないけど少し恥ずかしい。

「味が濃いとかないですか?」  

 と、マスター。俺は口いっぱいに頬張っていたドリアを飲み込むと、大丈夫です、と首を横に振った。

「でもドリアだから結構お腹に溜まりますね」

 珈琲を求めてきたお客さんにとっては少し重めのメニューだ。俺の言葉にマスターが頷いた。

「思ったより学生のお客さんが多かったので腹持ちのいいメニューがいいかと思って」
「それなら丁度いいと思います」
「本当に足りました? パン食べる?」
「大丈夫です…」

 マスターは俺のことをいつも腹を空かせている高校生か何かだと思っているとこがあると思う。


「それじゃあお店開けましょうか」

 マスターの言葉に皿洗いをしていた俺はパッと顔を上げた。

「俺、プレート変えてきます」

 そう言って手を拭きながら外に出ると、扉に掛かっているプレートをくるりとひっくり返した。店の中に戻り伝票を手に取ると、途端にカランカランとドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」
「マスター、暖かい珈琲お願い~」

 入ってきたのは朝の時間帯によく来る40代くらいの男性だった。いつものようにカウンターに座った彼の元にお手拭きを置く。

「いつものブレンドですね。畏まりました」

 と、マスター。

「そうブレンド。あ、直巳くんもおはよう。今日寒いねえ」
「おはようございます。朝が辛いですよね」
「そうなんだよ」

 エアコンじゃ追いつかなくて、と俺と同じことを言うお客さんに深く頷いていると、またドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ!」
「直巳くんおはよ~」
「おはようございます」

 最近よく来るお客さんに挨拶をして、軽く世間話をしているとすぐにまたドアベルが鳴った。小さく会釈してその場を離れる。
 そうこうしている間にあっという間に店内の7割がお客さんで埋まった。その様子に今日も忙しくなることを確信する。俺は気合を入れるようにエプロンを結び直した。

 マスターは年寄りの道楽だよ、と笑うけど彼の珈琲を求めてこの喫茶店にはたくさんの人が訪れる。オープンからまだ半年しか経ってないけど、既にリピーターも多い人気店だ。つまり、普通に忙しい。
 俺は毎日忙しくて悲しみに浸る余裕もなかったからちょうど良かったけど、マスターは人を増やさないとなあとボヤいていた。確かに日曜なんかは忙しすぎて猫の手も借りたいくらいだから人が増えるのは俺も賛成だ。

「直巳くん後ろから牛乳持ってこれますか?」

 現に今も少し余裕がなくなってきた。手早く注文を取り終えた俺はせめて明るくいようと元気よく返事をした。
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