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コールドエンジェル

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「ねえ、出勤前に悪いんだけど、屋根の雪かき、ちょっとだけでもやってもらえないかな」
 妻のエレンからそう言われたケントは、口に運びかけていたコーヒーカップを乱暴に皿に戻した。
「だったら、もっと早く言えよ。今日は午前中に大切なリモート商談があるんだぞ」
 エレンは一瞬、ひるんだ様子を見せたものの、キッと見返した。
「だって、雪がこんなに積もるなんて、天気予報では言ってなかったし。商談のことなんて私、聞いてないわ」
「そんなことをいちいちお前に言うかよ。とにかく雪かきは帰宅してからだ」
「かなり積もってるわよ。これ以上、降らなければいいけど」
「さっき、天気予報で言ってただろう。昼間はたいして降らないさ」
「でも……」
「しつこいな。玄関前だけはショベルでどかしとくから。屋根は帰宅してからでいいだろ」
  トーストをかじっていた四歳の娘ティナが、丸い目で父親と母親とを見比べていた。
  棘のある言い方をしてしまったせいか、エレンは黙って流し台で洗い物を始めた。
 ちょっと言い過ぎたか。だが、今さら謝る気にはなれなかった。
  昨夜のうちに、一帯は記録的な積雪に見舞われていた。この辺りでは、めったに使われることがなかった除雪車が出動して、一般道は通行できるようになっているらしいが、民家の一階部分は、半分ぐらいが雪に埋まっている。エレンが心配しているのは、屋根に積もった雪の重さで、家がどうにかなるのでは、ということだ。
 いや、この程度で潰れはしない。エレンはもともと、心配性が過ぎるところがある。
「お父さん、このままだと、家が潰れれちゃうよ」
  ティナが、妻の気持ちを代弁するかのように、父親の顔を覗き込むようにして言った。
「これぐらいで潰れたりはしないさ。大丈夫」
「お父さん、雪をバカにしたら、雪女に消されちゃうんだよ」
「何だ、雪女って」
「日系人のお友達のユキナちゃんが言ってた。ユキナちゃんのお母さんも言ってたよ」
「ほう、それは怖いね」
  ケントは苦笑して、コーヒーの残りを飲んだ。東洋の島国では、そんな昔話や言い伝えがあるらしい。ティナも幼稚園あたりで聞かされたのだろう。
  朝食を終えて、防寒コートを身にまとったケントは、ショベルを手にして玄関から外に出た。妻の機嫌を取って、少しは屋根の雪かきをしようかと思ったのだが、外を覆っている雪を見ると、たちまちその気が失せた。今は玄関から道路までの数メートルの雪をどかせるぐらいの時間しかない。
  家の中に「行って来る」と声つをかけたが、エレンからもティナからも返事はなかった。
  除雪車が出動してくれたお陰で道路は歩けたが、凍結している場所もあって、いつもより歩くのに時間がかかった。おまけに列車のダイヤも大幅に乱れていて出勤が遅れてしまったが、リモート商談には間に合ったので、ほっと胸をなでおろした。
  商談後、社員の一人が「ケントさん」と不安そうな表情で声をかけてきた。「あなたが住んでる辺りで、雪で民家が潰れたって報道してますよ」
  ケントは、あわてて席を立った。見回すと、スマホの画面を見ている社員の回りに何人かが集まっていた。
  覗き込むと、言われたとおり、積雪のせいで民家の一部が押し潰されたと報じていた。そして聞こえてきた地名は、まさしくケントの住所地だった。
  朝に、エレンと険悪な感じになってしまったことが頭によみがえった。仕事のストレスもあってか、このところ、彼女に対してはいつも、あんなとげとげしい接し方をしてしまっている。
  上司に断ってその場から離れ、自分のスマホを取り出し、妻にかけた。コール音が繰り返されるたびに、胸騒ぎと共にぞくぞくとする寒気が足もとからはい上がってきた。
  エレンのスマホにつながらない……。今度は自宅の固定電話にかけ直した。
  やっと通じた。娘ティナの声。「お母さんに代わって」と言うと、しばらく待たされてから「はい」とエレンが出た。聞き慣れた妻の声を聞いたとたん、ケントはため息をついた。
「ああ、無事か。家は大丈夫か」
「はあ? あの、どちら様でしょうか」
「おい、こんなときにふざけるな。家は大丈夫なのかと聞いてるんだ」
「ええ、大丈夫ですけど」
「雪かきは? 俺が帰らなくても、持ちこたえられそうか」
「ええ……夫がやってくれてますから。あの、すみませんが、どちら様ですか」
「お前はエレンだろ。俺は夫のケントだ、おいっ」
  エレンが返事をしなくなった。代わりに「どうかしたのか」という男の声が聞こえた。それに対してエレンが「知らない男の人が、あなたを名乗ってるのよ」と言っている。
  ケントは「おいっ、おいっ」と怒鳴ったが、返事が聞こえなかった。だが、しばらくして、誰かが受話器を耳に当てているらしい気配が感じられた。
「おい、あんた何者だっ。俺の家で何をしてる」
  相手はしばらくの間、返事をしなかったが、やがて低い声でこう言った。
「家族をないがしろにする奴に、帰る場所はない。俺がエレンの夫だ。お前はもう不要だ」
  怒鳴り返す暇もなく、電話が切られた。すぐにかけ直したが、つながらない。
 何が起きてる? 怒りよりも、得体が知れない不安と困惑が、膨張していた。
  ケントは、会社を飛び出して自宅へと向かった。防寒コートや手袋を忘れたことに途中で気づいたが、そんなことに構っている余裕はなかった。
  列車のダイヤはまだ乱れていたが、自宅の最寄り駅に到着。家はここから約一キロ。
  駅を出ると、風は吹いていないのに大量の雪が降っていた。辺り一面、白、白、白。建物の形などで、何とか普段の街の姿が思い出せるという、異様な状態だった。
 天気予報では、日中は降らないと言っていたのに。ケントは、スーツの襟を立てて舌打ちし、首をすくめて歩き出した。
  家が見えてきた。二階の窓の明かりを見て、違和感を覚えた。
 あの部屋は蛍光灯が切れていたはずだ。ケントが買いに行くことになっていて、今はまだ照明は灯らないはずなのに……。
  あの謎の男が蛍光灯をつけ替えたのか? いったい何者なんだ? エレンはなぜ気づかない? 何が起きてるんだ?
  雪はますます激しくなり、自分の家が見えなくなった。周囲に人の姿はなく、回りの建物も雪が積もり過ぎてしまって、ただの白い壁のようにしか見えない。
 風がないのに空気が冷たい。ケントの耳や鼻は、ちぎれそうな痛みさえ遠のいて、感覚がなくなりつつあった。足も、スネ辺りから下が、麻酔にでもかかっているような、自分のものではないような気がした。
  雪に埋まっている足を引き上げてみた。雪の粉を払い落とす。
  スネから下が半透明に白くなっていた。ケントは、まばたきを繰り返し、目を凝らした。どう見ても、スネから下が、濁った氷のように半透明になっている。
  気がつくと雪は腰の辺りにまで積もっており、左右にあった雪の壁が、いつの間にか前後にもできて、行く手を塞いでいる。これは現実なのか?
 いつの間にか、一人の女が、目の前に立っていた。白装束で、長い髪が垂れ下がって、顔がよく見えない。風が吹いて髪が乱れ、そこに見えたのは、妻エレンの顔だった。
「エレンっ」と叫んだ次の瞬間、女はすーっと、小さくなった。
  そこにいたのは、娘のティナだった。口もとをゆがめて、不気味な笑い方をしている。
 まばたきをし、目をこすった次の瞬間には、ティナに見えた子どもも消えていた。
 周囲を見回すが、誰もどこにもいない。ケントは、白い空を見上げた。もう、積もっている雪の頂上がどこにあるのかさえ判らない。雪の壁はさらに狭くなり、動けなくなった。
 両手を見ると、やはり白く半透明になっていた。雪はみぞおちの辺りにまで達している。
 ケントは動くことができず、思考が鈍くなっていた。そのせいで恐怖感におののくことはなかったが、その代わりに、自分の終わりが近づいていることを、他人事のように悟った。世界から音が消えていた。
  両手の半透明化は、腕から肩にまで及んでいた。おそらく、首も顔もそうなってきているのだろう。自分の実体が消えて、雪と同化しつつあることを感じる。
 「あーっ」と叫んだ。だがその音は雪に吸収されたようだった。世界は無音だった。
  妻エレンと娘ティナと一緒にいる、もう一人の自分の様子が、頭をよぎった。暖かい部屋で、みんなで食事を取っている。三人とも笑っている。そして 娘ティナが口を開く。
 聞こえなかったが、口の形で理解できた。
 雪をバカにしたら、雪女に消されちゃうんだよ。

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