シニカルな話はいかが

小木田十(おぎたみつる)

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ポケットをめぐる戦争

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 佐衣子の夫は地味で実直な人間で、毒にも薬にもならないタイプの人間だった。実際、夫は就職した地元の洗浄剤メーカーでは経理畑一筋で働いてきたし、飲み会などがあっても羽目を外すことなどなく、少し顔を赤くしただけでその日のうちに帰宅するのが常だった。佐衣子が取引先企業の社員として彼と出会い、合コンを通じて伴侶に選んだのも、夫の真面目で堅実なところに安心感を得たからだった。
 そんな佐衣子が五十代後半になって、夫の浮気を疑うようになっのは、彼のスーツの胸ポケットから、ピンク色をした携帯用エチケットブラシを見つけたせいだった。エチケットブラシは服についた小さなゴミやフケなどを取り除くためのものだが、身だしなみにずっと無頓着だった夫がそんなものを持っていることにまず違和感を覚えた。仮に持つとしても夫なら黒系やグレー系を選ぶはずで、ピンクというのは明らかに奇妙だった。
 最近ヒットしたテレビドラマの影響で、おじさんブームが到来していることが、佐衣子の疑いを後押しした。地味で実直で、ファッションや最先端カルチャーとは全く無縁の地味なおじさんが、そのネガティブなキャラクターを生かして敵を油断させたり意外な人脈を駆使したりして、業績が傾いていた企業を盛り返すという内容のドラマで、原作小説もミリオンセラーになっていた。主役を演じたのが、憎めないキャラの人気芸人であることも、ブームの一因となったようである。

 佐衣子の夫は、その芸人のように面白いことを言うスキルはないが、それ以外の点では結構、ドラマの主人公と重なるところがあるように思えた。佐衣子とつき合いが長い近所のママ友たちからも、たまに夫のことをほめられることがあり、夫には意外とモテる要素があるらしいと気づかされもいた。
 そんなときに、ピンクのエチケットブラシが夫のスーツの胸ポケットから出てきたのである。もちろん佐衣子はこのときにはまだ、何か事情があってのことだろうと楽観していたし、気になるのであれば夫に事情を聞けばいいことだと思っていた。実際、エチケットブラシを見つけたときにそばに夫がいたら、普通に尋ねていただろうと思う。そして、それは自社か取引先が配布したもので、他の社員も同じものをもらったという話を聞いて、そういうことだったのね、と納得したはずだった。

 だが、そのエチケットブラシを手にして顔を近づけた瞬間、楽観的な見方が揺らいだ。香水らしき匂いが鼻腔をく
すぐったからだった。
 ドラマの影響による地味おじさんブーム。ママ友たちのほめ言葉。ずっと真面目に生きていた夫も人間であり男である。スケベ心はゼロではないはずだ。言い寄ってくる年下の女性社員や取引先の女性などがいたら、夫はきっぱりと拒絶できるだろうか。むしろ、温厚でお人好しな性格は、逆の方向に作用するのではないか。
 そして佐衣子は一つの仮説に達した。
 この香水ははもしかすると、見知らぬ女からの挑発のサインではないか。
 あら奥さん、もっと鈍感な人だと思ってたけど、気づいたのね。でも旦那さんは絶対に認めないわよ。私を失いたくないはずだから。それに、これ以上調べても無駄よ。私は簡単に尻尾をつかませるようなヘマはしないから。
 佐衣子は、夫に対してよりも、姿が見えないその女に怒りを覚えた。そして心の中で、絶対に許さない、必ず吠え面をかかせてやる、と毒づいた。
 夫は経理部長代理という立場の中間管理職である。その女は経理部内にいるのか、取引先なのか、それとも、行きつけのスナックにいる雇われママなのか。

 佐衣子は、敵のサインにはサインで応えることにした。そのエチケットブラシを捨てて、近所のホームセンターで買った、黒い携帯エチケットブラシをスーツの胸ポケットに仕込み直したのだ。あなたは夫の好みの色も知らないようね、というあざけりを込めて。
 すると数日後、今度はスーツの左ポケットからあぶらとり紙が出てきた。市販品と思われる厚紙のケースに入ったものだったが、ケースも中身も、淡いピンク色だった。
 中年になると、鼻の周りや額がてかるようになるものでしょ。あなたってほんと気の利かない妻ね。私が代わりに彼に持たせてあげたから――そう言われた気がした。
 佐衣子は頭に血が上り、そのあぶらとり紙を捨てて、ホームセンターでグレーのケース入りの、もっとグレードが高そうなものを買って、新たにポケットに入れ直した。

 その翌日、佐衣子が夫のスーツの右ポケットから発見したのは、インスタント味噌汁の袋だった。入っていたのは一つだけで、赤だしだった。
 女の意図は明らかだった。夫はもともと赤だし派だったのだが、白味噌で育った佐衣子は、結婚当初こそ夫の味覚に合わせて赤だしを作ることもあったのだが、徐々に白味噌を使う機会を増やして、やがて白味噌に定着した。夫もそのことについて、あからさまに不満を口にしたりはしなかった。
 女は、「旦那さんがかわいそうだから、これを飲ませてあげて」と言いたいのだ。佐衣子はスーパーに走り、白味噌のインスタントの袋と交換してポケットに入れ直した。
 すると、その後は女からのサインがぷつりと途絶えた。しばらくのうちは身構えてい佐衣子も、時間の経過と共に気持ちが落ち着いてゆき、やがて確信した。
 この戦いに、自分は勝ったのだ、相手は戦意喪失して、試合を放棄したのだ、と。

 そのまま数年が経過し、夫は退職のときを迎えた。赤ら顔で花束を抱えて帰宅した夫に、佐衣子は熱燗と、夫の好物であるきゃらぶきと里芋の煮っ転がしを出して、「お疲れ様でした」とねぎらった。
 すると、機嫌よく飲み食いし始めた夫が、急に変なことを言い出した。
「実は数日前に、社長から取締役への昇進を打診されたんだが、辞退したよ。代わりに、関連会社の課長職としてもうしばらく働かせてもらうことになった」
 佐衣子は、反射的に「どうして?」と聞き返した。取締役になれれば、収入は大幅アップ間違いなしである。関連会社への再就職なんて、これまでよりも給料が減るだけだし、立場が大幅に弱くなるではないか。佐衣子にはとても信じられない選択だった。
「いや、君を心配させてはいけないと思ってたから黙ってたんだけど」と夫は猪口の熱燗をきゅっと飲み干した。「数年前から、認知症の症状を自覚するようになっててね。記憶違いがひどくなってることが自分で判ったんで、取締役という大役を引き受けたりしたら、会社に迷惑をかけることになると思って」夫はそう言ってからさらに、「そういうわけだから、近いうちに精密検査を受けてみるよ」と続けた。
「認知症って、どういう症状があったの?」
「うん最初はスーツの胸ポケットに入れてあったエチケットブラシの色が変わったことだった。というか、僕が勝手に色が変わったと思い込んでただけなんだろうけど」
 佐衣子は胸騒ぎを覚えながら、「どういうこと?」と尋ねた。
「そのエチケットブラシは取引先が配ってくれたもので、香りつきのやつだったんだ。ところが、ピンク色だと思っていたのに、なぜか黒色に変わってて、香りもしない。同じものをもらった部下たちに聞いて確かめてみようと思ったけど、自分が認知症になったことが確定すると思うと怖くなって、聞けなくなっちゃって」
 佐衣子はどういう返事をすればいいか判らず、「あら、そんなことが……」と合わせた。
「それだけならちょっとした記憶違いってことで済ませていたかもしれないけど、会社施設の清掃を請け負ってくれてる業者さんからもらったあぶらとり紙もケースの色なんかが変わったとしか思えなくて、さすがに認知症を疑い始めてね。ネットで調べてみたところ、若年性アルツハイマー症に当てはまる項目が複数あったんだ」
「あらぁ……」
「さらに、職場で注文した仕出し弁当に、インスタント味噌汁の袋がついてたんだけど、弁当を食べ終わっててからそのことに気づいたもんで、ポケットに入れて帰ったことがあったんだけど……どういうわけか、味噌汁の種類が変わってたんだ。赤だしだったと思ってたのに、白味噌になってて。さすがにこれは認知症を疑わないわけにはいかないので、取締役就任の話は辞退させてもらうしかなかったよ。せっかくのチャンスをふいにしてしまい、申し訳ない」夫はそう言って頭を下げた。「でも、まだ軽度だと思うし、最近は進行を遅らせる薬もちゃんとあるみたいだから、しっかり向き合って治そうと今は気持ちを切り替えてるよ。その治療が落ち着いたら、温泉旅行でも行こう」
 佐衣子は自分の声がうわずっていることを認識しながら、「そんな悩みを抱えていたことに気づいてあげられなくて……ごめんなさい」と絞り出すように答えた。
 自分のあらぬ妄想のせいで夫は認知症の進行を疑い、取締役への昇進がフイになった。もし取締役になれていたら、収入は大幅に増えて、新婚旅行以来のハワイ旅行だって、余裕で何度も行けただろうに。
 許せない女なんて、本当は存在しなかったというのか。
 欲求不満を抱えたおばさんの妄想が暴走しただけ。
 本当のことを知ったら、夫は許してくれるだろうか。
 いやいや、とても言えない。夫は普段は温厚な性格だけに、余計に反応が怖い。
 佐衣子は無理して笑顔を作り、「ちゃんと治療すれば大丈夫よ。今まで頑張って働いてきたんだし、これからは気楽にやればいいよ」と無理して笑った。
 夫は手酌で熱燗を猪口に注ぎながら、「君ならそう言って許してくれると思ってたよ。ありがとう」と微笑んでうなずいた。
  佐衣子は、口にしたいことがたくさんあったが、それらを飲み込んで言った。
「今夜は私もお酒、いただこうかしら」
 飲み過ぎて悪酔いしたかった。明日の朝に目覚めたとき、ひどい頭痛と共に、あれはただの夢だったという結末に一縷の望みを託して。
 赤ら顔の夫は「じゃあ、一緒にもう少し飲むとしよう。君と一緒になってよかったと思ってるんだよ、俺は。本当に」と静かに笑った。怖すぎる笑顔だった。

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