ショートドラマ劇場

小木田十(おぎたみつる)

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リキとリカ

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 ミツルはその日の夕方、青い首輪をリードにつないだ柴犬ふうのオスの雑種犬、リキを連れて歩きながら、ため息をついていた。
 ミツルは高齢者用のおむつや手押し台車などの介護用品を販売する会社で営業の仕事をしている。今日、その仕事で世話になっている老人ホームの館長さんから「一か月ほどの間、このコを預かってくれる人はいないだろうか」と相談されて、つい「任せてください、何とかします」と答えてしまい、リキを預かることになってしまったのだった。
 館長さんは何年も前からまとまった注文をしてくれている恩人である。それだけでなく、「もう三十なのに彼女もいないのなら、知り合いに頼んでいいお嬢さんを探してやろう」などとお節介を焼いてくれたりもする人で、シングルマザーの家庭で育ったミツルにとっては、父親のように感じる人でもあった。その館長さんの友人が病気で倒れてしまい、飼い犬のことで困っているとあってはさすがに知らん顔をできなかったのだ。
 しかし、引き受けはしたものの、ミツルは1Kの賃貸マンション暮らしの身である。小動物以外のペットを飼うことは禁止されている。
 それでもリキを預かったのは、一人だけアテがあったからだった。一昨年に母親が乳がんで他界した後、唯一といっていい近い親戚である母親の姉、リカ伯母である。彼女は長年市役所職員として働き、今年の春に退職して、今は市の外郭団体で嘱託職員をやっている。結婚には興味がなかったようで独身を貫いており、こつこつと溜めたおカネで庭付きの一軒家を所有している。しかもミツルのアパートからは一キロ程度の距離。子どもの頃からミツルはリカ伯母に宿題の判らないところを教えてもらったり、母親と三人で動物園や遊園地に行ったりした仲である。
 だだ一つ問題なのは、ミツルが社会人になってからは何となく疎遠になってしまったことをリカ伯母はよく思っていないようで、母親の葬儀のときも話しかけてこなかったし、ショッピングモールでばったり会ったときには冷めた顔で「あら」と言われただけだった。そのため、リキを預かってくれるかどうかは未知数だった。
 歩きながら、ミツルはリキに「リカ伯母さんに会ったら、愛想よくしろよ。お前をしばらく預かってもらえそうな人、他にもういないんだからな」と声をかけたが、リキは電柱や民家の壁などをあちこちに鼻先を近づけて匂ぐばかりで、現状を理解しているとは思えなかった。リキはおとなしい性格で、しつけも一応はできているらしいが、十二歳を超えた老犬で、視力も低下している。そこも不安要素だった。

 ほどなくしてリカ伯母宅に到着した。既に午後六時を過ぎているので、嘱託職員の仕事を定時に終えて帰宅しているはずだった。
 幸い、窓からは明かりが漏れていた。チャイムを鳴らすと「はい」とインターフォンの応答があり、「こんにちは、ミツルです、ご無沙汰してます」と言うと、少し待たされてリカ伯母が玄関ドアを開けた。白髪が目立つ髪を後ろでまとめ、化粧気のない顔。もともと表情に乏しいところがあるリカ伯母はリキを見ると、明らかに顔を曇らせて警戒心を露わにした。
 ミツルが事情を説明する間、リカ伯母は黙って聞いてくれていたが、話が終わると「だからって、何で私なのよ」と眉間にしわを寄せた。
 ミツルは、仕事で世話になっている人から頼まれたので何とかしたいこと、しかし自分が住むアパートはペット禁止であること、リカ伯母さんしか頼れる人がいないこと、散歩やウンチの始末、エサやりなどは自分が責任を持ってやるので、一か月ぐらいの間だけ寝泊まりさせてやってもらえないかと何度も頭を下げながら頼んだ。
 リカ伯母は盛大なため息をついて、いかにも不機嫌そうに舌打ちをしたが、しゃがんでリキの首周りを両手でなでながら「かわいそうにねえ」とつぶやき、「じゃあ、とりあえずは預かってやるけど、本当にあんたがちゃんと世話しなさいよ」と言った。
 ミツルは「ありがとう、リカ伯母さんっ」と頭を深く下げた。リカ伯母さんはつっけんどんな態度を取りがちだが、情にもろいところがあり、頼めば何とかなるという期待は持っていたのである。ミツルは心の中でちょろっと舌を出した。
 リキの当面の寝床は、リカ伯母宅の玄関の靴脱ぎ場に敷かれたダンボールの上になった。ミツルはすぐにその足でホームセンターに行き、ドッグフードとそれを入れる容器などを買い、リカ伯母にそれらを渡して、「本当にすみませんが、よろしくお願いします」とあらためて頭を下げた。リキの散歩は、ミツルが出勤前と退勤後にするということで了解してもらった。

 しかし翌朝、リキに散歩をさせるためにリカ伯母宅を訪ねたところ、ちょうどリカ伯母がリードを持ってリキとの散歩から帰って来たところに出くわした。
「あれ、リキの散歩……」とミツルが言うと、リカ伯母はいかにも不機嫌そうに「朝早くからクンクンと声を出すから起こされちゃったわよ。散歩に連れて行ってくれる人がもうすぐ来るから待ってなさいって言っても犬に言葉は通じないし、狭い玄関スペースをぐるぐる回って、今にもウンチ出ます、みたいなアピールをしてくるし。あんた、もうちょっと早く来てよ。何で私が早起きして犬の散歩をしなきゃなんないのよっ」と文句を言った。
 ミツルは「ごめんなさい」と平謝りをし、「あの、リキ、ウンチとかは……」とおそるおそる尋ねてみると、リカ伯母は後ろ手に持っていた小さなポリ袋をぐいと前に出した。
「こん中に入ってるわよ。路上でしちゃったから、たたんだトイレットペーパーでくるんで、ポリ袋かぶせて。こういうこと、あんたがやるって言ったよね」
 ミツルは「すみません。後は俺が」とそのポリ袋を受け取り、リカ伯母宅のトイレで流し、ポリ袋はたたんでゴミ箱の奥に押し込んだ。
「で」とリカ伯母はミツルを睨みつけた。「後はドッグフードと水をやって、夕方の散歩までの時間は、放っておいていいのよね。私も仕事があるから、留守にするよ」
「あ、はい、大丈夫、大丈夫。リキはおとなしく留守番も慣れてるので」
「夕方の散歩は、あんたがちゃんとやってよね」
「はい、もちろん」ミツルは即座にうなずいた。
 しかしミツルがその日の仕事を終えてリカ伯母宅に行くと、既にリカ伯母はリキの散歩から帰って来ていて、エサをやっているところだった。ミツルを見てリカ伯母は「私が帰って来たら、散歩に連れて行けって、尻尾をさかんに振って、うるさくまとわりついてきたから、仕方なく行って来たよ。あんた、もうちょっと早く来られないの?」と恨みがましく言うので、ミツルは小さな声で「すみません……」と謝るしかなかった。

 だが、ミツルは早くも気づいていた。リカ伯母はリキのことが気に入ったらしいことに。長年続いていた独り暮らしの空間に突然やって来たリキというおとなしい犬は、リカ伯母に何らかの気持ちの変化をもたらしたようだった。
 実際、それからも、ミツルが朝に訪ねて来たときには既にリカ伯母はリキの散歩を終えていたし、夕方も同様だった。まるでミツルがやって来る前に何としてでも散歩をするのだというルールを定めてしまっているかのようだった。そしてリキがドッグフードを食べる様子をリカ伯母は目を細めて眺め、「そんなもんが美味しいのかねー」「今日は他の犬に吠えられちゃったねー」「信号待ちしてたときにお前をかわいいって言ってくれた人がいたねー」などと話しかけている。しかも、玄関の靴箱の上には、犬用のおやつや犬用のブラシが置かれてあった。リカ伯母が自腹で購入したらしい。
 やがて一週間が経つと、リカ伯母はすっかりリキを同居人だと認めたようで、ミツルに対して「もう散歩は私がやることにしたから、あんたはいちいち来なくていいよ。どうせあんたが来たときには終わってるんだから」と言った。ミツルが「伯母さん、ごめんね」と謝ると、「あんたも世話になった人から頼まれて困ってたんだから仕方ないよ。私の方はもう朝と夕方の散歩が習慣になりかけてるから、いちいち謝りなさんな」と返された。その口調は無愛想ではあったが、決して不機嫌そうでははなかった。
 その後も一応、ミツルは夕方の仕事終わりにリカ伯母宅に寄って、その日の散歩中の出来事やリキの様子について話を聞き、「今日もありがとう」とこまめに礼を言うようにした。営業職でこういうことは慣れているのでお手のものである。

 リキを預かってもらって二週間ほど経ったある日の夕方、いつものようにミツルが立ち寄ると、リカ伯母が「散歩中にリキが左の前足を怪我したみたいで、ちょっとかばうような歩き方をしてるのよ。見た目は判らないけど、怪我をしたのかも」と心配そうに言ってきた。さらに「動物病院に連れてった方がいいんじゃないかね」「まさか破傷風なんかにかかって死んだりはしないよね」などと言うので、まあまあと押しとどめ、リキの左前足をよく見ると、小さく尖ったガラス片が肉球に食い込んでいるのを見つけた。ミツルがそれを抜いてやり、リードにつなぎ直してて自宅周辺を少し歩かせてみると、痛そうな様子を見せなくなったため、リカ伯母は「あー、よかったー」と心から安堵した様子でリキを抱きしめ、「心配したじゃないの、こら」と両手でリキの首周りをこねくり回した。リキはちょっと迷惑そうに目を細くしていたが、されるがままな様子を見て、リカ伯母とリキとの間には既に強い関係ができていることが伝わってきた。
 その後、伯母が新たに買ったリキのドッグフードは、最初にミツルが用意したものより明らかに高価なものに変わっていた。さらにはリカ伯母の口から「犬はオオカミの子孫で、序列を大切にする生き物だから、ネコかわいがりはダメなのよ。ちゃんと上下関係は教えないと」「犬にとって人間の食べ物は塩分が多すぎて腎臓を悪くするから、欲しがっても与えたらダメなのよ」といった話が出てくるようになり、リカ伯母が犬の飼い方やしつけの方法などについてネットなどで調べて学んでいるいることが判った。

 そして――。
  リキの本来の飼い主さんが無事退院したのは、最初に聞いていたとおり、預かってから約一か月後のことだった。当然のこととして、リカ伯母とリキの別れのときがやってきた。
 その日の夕方、ミツルがリキを引き取りに行くと、リカ伯母は「ほんと、やれやれだよ。リキがいるときは友人と飲みに行くのも遠慮してたんだから。ほんと、これで肩の荷が下りたよ」と強がったことを言い、リキを軽く抱きしめてから「達者で暮らせよ」ぽんぽんと軽く首の後ろを叩いた。ミツルがあらためて礼を言って、「じゃあ連れて行くから」と告げると、リカ伯母は「はいはい、じゃあね」と背を向けたまま片手を振って、家の奥に消えてしまった。言葉とは裏腹に、その後ろ姿は何かをこらえているようだった。

 その後、リカ伯母は明らかに元気がなくなった。リキを預かってくれたお礼として、ちょっと奮発してリカ伯母が好きなアボカドと栗羊羹を持って行ったときは、「ああ、どうもね」と覇気のない表情で受け取り、世間話をしようとしても、どこか上の空だった。リカ伯母がそうなった理由は、彼女がリキをなでながら話しかけているときのあの幸せそうな表情を思い出すだけで、明らかだった。
  ミツルはおそるおそる、元の飼い主の人に打診してみた。すると、もう高齢で散歩に連れ出すことも正直なところしんどくて、リキにも申し訳ないと思っていたところなので、そんなにかわいがってくれる人がいるのなら是非託したい、との返事をもらった。ミツルはすぐさまリカ伯母宅に駆けつけて、飼い主さんはやっぱり体調不良でリキの面倒を見るのは難しいそうなので、引き取ってくれる人を探していると説明した。
 するリカ伯母は、ふーっと息を吐いてから、「そういうことなら仕方ないねえ、判ったよ、連れて来なさい」と少しうわずった声で言った。
  というわけで、リキは今、リカ伯母宅で暮らしている。とときどき様子を見に行くと、「この子は散歩の時間が長くて大変だよ」「寝ようとすると私の布団に入って来ようとするんで、困ってるんだよ」などと愚痴めいたことを口にするのだが、無理してしかめた表情は、でれっとたるんでいる。

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