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風に吹かれて

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  日曜日の昼前、自宅付近でサイレン音が聞こえ、みるみる近づいてきた。伊勢木ユタカがリビングの窓から外を見ると、ほんの十数メートル先の路上に救急車が止まった。
 普段から好奇心が旺盛な妻が「何があったのかしら」と言って様子を見に行ったが、すぐにあわてた様子で戻って来て、「橋下(はしもと)さんが倒れるっ」と叫んだ。
  ユタカは「えっ」と口にして、すぐに外に飛び出した。
  三人の救急隊員と、数人の近所の人たちがいた。橋下さんが、その小さくて弱々しい老体を路上に横たえていて、消防隊員が心臓マッサージをしていた。
  だが橋下さんは助からなかつた。数分後には死亡が確認された。
 死体はすぐには運ばれず、パトカーやワゴン型の警察車両がやって来て、橋下さんの様子をいろいろと調べた。やがて橋下さんは警察車両の中に消えた。
  事件性なし。急性心不全ですね。無線でそんな報告をする声が耳に届いた。
  刑事らしき男性が、「倒れていた男性をご存じの方はいらっしゃいませんか」と周囲に集まっていたご近所さんたちに尋ねたので、ユタカは手を上げた。みんながこちらを見た。
 ユタカは、亡くなったのは橋下という、ホームレスの人だと説明した。
 どういうご関係ですかと聞かれたので、ユタカは簡単に彼との関係を説明した。

 伊勢木ユタカは県庁の文化財保護課の係長で、地元で昨年発見された縄文時代の大型集落、黒鳥(こくちょう)遺跡にまつわるさまざまな事務や折衝を担当している。専門家らの意見を踏まえて、県議会などで、これは世界文化遺産の登録を目指すべきだということになり、最近発足した、黒鳥遺跡世界遺産登録準備室の室長代理も兼務している。
 橋下さんは七十代後半のホームレス男性で、その黒鳥遺跡の区画に含まれる大喜多川の橋の下に、ビニールシートやダンボールを持ち込んで暮らしていた。これから世界遺産登録を目指そうという区画内にホームレス男性が住んでいるとあっては、ややこしい話になる。法的には強制的に排除することも可能だが、それをすれば市民団体やマスコミが騒ぎ出して、世界遺産登録の手続きにも支障が出る。そこで、橋下さんには別の場所に移り住んでもらうよう、ユタカが交渉することになったのだった。
 幸い、彼は温厚な性格の人で、ユタカが自腹で差し入れたワンカップの日本酒を旨そうに飲み、「他にいい場所を探してくれたら、そっちに移ってもいいよ」と言ってくれた。だが、ホームレスの人が寝泊まりする場所というのは基本的に本来の権利者がいる。公務員として、ここに住んでください、などと勧めることは無理だった。
 結局、住む場所は自分で探して欲しいと伝えた上で、ユタカは自分の名刺に自宅の住所も書き込入れて「相談ごとがあれば連絡を」と渡し、一応は納得してもらったのだった。もっとも、そのときは本当に連絡してくるとは思っていなかった。後で橋下さんに何かがあったときに、「県の職員があそこから追い出したせいではないか」と責任追及されたくないので、親身になって話し合いをしました、というアリバイ作りでしかなかった。

 その後、彼は大喜多川の橋の下からいなくなり、ユタカに連絡してくることもなかったので、安堵する気持ちと、多少の心配を抱えていたところ、半年ほど前に突然、彼はユタカの自宅を訪ねて来た。カネがなくて困っているので小銭をくれないかと彼は言い、ユタカはいくらか渡そうかと思ったのだが、すぐに考え直して「それなら、庭の草むしり一時間千円ということでどうですか」と提案した。それならただの施しではなく、対等な関係を保てると思ったからだ。
 すると彼は一時間ほどかけて狭い庭のほとんどの雑草を抜き、ユタカから千円を受け取った。そのときに彼は、ここから五百メートルほど西の、美鶴川の橋の下で暮らしていることを教えてくれた。「最近、カラスみたいな黒い鳥が俺んところに住みついちまってねー、一緒に暮らしてんだよ」と、本当なのか冗談なのかよく判らないことも言っていた。
 以来、月に一度か二度ぐらいの割合で彼はやって来て、洗車や植え込みの剪定、溝の掃除などをしてもらうことになった。橋下という名前はその過程で教えてもらったのだ。

 二人の刑事にそんな説明をしながらユタカは、小二の娘が友達のところに遊びに出かけていてよかったと思った。橋下さんが倒れて、そのまま逝ってしまったところを見たらショックを受けただろう。
 若い方の刑事は「じゃあ、彼は今日もおたくに来ていたんですか」と聞いた。
「いえ、おそらく来る直前だったのだろうと」
「そうですか」二人の刑事は、ほとんどメモを取ることもなく、あまり興味のなさそうにうなずいた。「じゃあ、おたくを訪ねようとしたところで、急に倒れちゃった、と」
 事情聴取のような質問が終わって警察車両が引き上げ、野次馬も散り始めた。

 家に戻ったとき、妻が「橋下さん、気の毒ね」とつぶやいた。「あの曲、もう聴けなくなっちゃったのかぁ」
  橋下さんは、うちで雑用をこなしているとき、なぜかいつも口笛で、ボブ・ディランの『風に吹かれて』のメロディを吹いていた。音程がちょっと怪しい部分はご愛敬だった。
 ユタカはそのことに少し興味を覚えて「ボブ・ディランのファンなんですか?」と尋ねてみたところ、最初のうち彼は「まあねー」とはぐらかす感じだったのだが、後で報酬を渡したときに、「若い頃に知り合った女性の影響で、よく聴いた時期があったんだわ」と、少し照れたように笑って教えてくれた。
  そうか、あれがもう聴けなくなるのか。ユタカは薄情にも、彼の死そのものよりも、彼の口笛による『風に吹かれて』が聴けなくなることを寂しく思った。
  妻と二人で昼食のレトルトカレーを食べながらユタカはふと、橋下さんにもどこかに家族がいるのではないかと思い至り、気になってきた。彼が移り住んだと言っていた美鶴川の橋の下は川幅が広くてその下のスペースにはブルーシートやダンボールで作ったささやかな住まいがいくつか集まっていたはずだから、彼のねぐらがその中のどれなのかが判れば、家族への連絡先や遺品も見つかるかもしれない。

  食事後、ユタカは妻に「ちょっと近くの書店に行って来る」と言い置いて、徒歩で美鶴川に向かった。
  大きな橋の下は雑草があちこち生えていて、青いシートや段ボールでできたいくつかの小屋が並んでいた。その前に停まっているいくつかの自転車の荷台やハンドルには、空き缶などが詰まったポリ袋が積んであったりぶら下がっていたりした。
 辺りは異様に静かで、他人の介入を拒絶する雰囲気が漂っていた。
  そのときユタカは思い至った。橋下という彼の名前はきっと偽名だ。彼は橋の下に住んでいるから橋下と名乗ったのだ。本名なんて捨てたということなのだろうか……。
 ユタカは「すみません、お尋ねしたいんですけど」と声をかけてみたが、反応がなかった。誰も出て来ない。さらに声をかけると、ビニールシートの一つがめくられて五十代ぐらいの男性が顔を出し、「うるせえな、あっち行きやがれ」と怒鳴られた。
  ユタカは、橋下さんというホームレスの人が亡くなったことを話し、この辺に住まいがあるはずなので探していると説明したが、男性は「そんなもん知るか」と吐き捨て、中に消えた。めげずに他の人たちにも聞こえるよう、大きめの声で橋下さんの人相風体を説明してもみたが、誰も何も教えてくれなかった。
  仕方なく、その場を立ち去ろうとしたとき、別のダンボール小屋から、さっきの男性よりも年上と思われる前歯のない小柄な男性が顔を出した。
「兄さん、悪く思わんでな。ときどき、わしらの住んでるとこに火をつけたり、理由もなく石を投げてきたりするガキ共がおるんで、みんな気が立っとんのよ」
  ユタカは、お邪魔しました、と一礼して踵を返した。
  対岸側にもホームレスのテントがいくつかあるので行ってみたが、やはり誰も返事をしてくれなかった。ユタカはあきらめてため息をつき、家に戻ることにした。

  そのとき、信じられない音が耳に届いた。
  『風に吹かれて』のメロディ。橋下さんの口笛そのものだった。
  ユタカは耳を澄ませて、その口笛が左端の青いビニールシートで覆われたダンボール小屋から聞こえているらしいことに気づいた。
  近づいてみて、確信を持った。誰かがこの中で『風に吹かれて』を吹いている。
  外から「あの、すみません」と声をかけたとたん、メロディーが止んだ。
  ユタカはいても立ってもいられず、ブルーシートをめくって中を覗き込んだ。
  誰もいなかった。
 が、隅にあったダンボール箱のふたが開いていて、その中に黒い鳥が一羽いた。カラスかと思ったが、くちばしがオレンジ色で、後頭部に黄色い部分があった。九官鳥だ。
  テント内を調べたが、彼の身元や実家を知る手がかりになるものは何もなかった。ユタカは警察署に電話をかけて、彼の住まいと思われるテントを発見したことを伝えた。

 ユタカはスマホでボブ・ディランについて調べてみた。橋下さんは年齢が近く、同時代を生きた存在として何か思うところがあったのかもしれない。また、ボブ・ディランは若い頃にバイク事故で重傷を負った後、競争社会に嫌気が差して隠遁生活を送っていた時期があるという。そのことが橋下さんの人生と、妙に重なるものを感じた。
  ――その後もユタカは、黒鳥遺跡の世界遺産登録を目指して、地味な仕事に日々取り組んでいる。ただ、質素な住居で寝起きし、魚や小動物を捕らえたり木の実や野草を採集して暮らしていた先人たちの遺跡が貴重なものだとされて公費で保護される一方で、同じく質素なその日暮らしを続けていた橋下さんが遺跡の発見場所から追い出されなければならなかったことについて、複雑な気持ちがどうしてもぬぐえないでいる。
 そして伊勢木家では、橋下さんの口笛とそっくりな『風に吹かれて』のメロディを日々耳にすることとなった。小二の娘は、リビングで飼っているその九官鳥を、彼の生まれ変わりだと思い込んでいて、「橋下さん」と呼んでいる。

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