40 / 83
二章
39話 羨望
しおりを挟む
室内に見えない大岩が詰め込まれているかのようだ。
そのくらい重い沈黙が、夕陽が傾き始めてから沈み込むまで続いていた。
握りしめた手が白くなり、感覚を失っている気がする。
「……」
「……」
二つの少し色味の違う青い瞳が、ずっと見つめ合っていた。どちらも逸らしはしないが、だからといって口を開きもしない。
来客用のクッションのある椅子に座るピングと勉強机用の木製の椅子に腰掛けるアトヴァルは、ひたすら相手の出方を伺っていた。
部屋の主であるリョウイチは、
「二人っきりでちゃんと話してね」
と、アトヴァルの頭を撫でて出て行ってしまった。アトヴァルの手が「ここにいてくれ」とリョウイチのローブの裾を掴んだが、リョウイチは一瞬指を絡め、そして解いた。
アトヴァルに謝りに行くというのに、迷いなくリョウイチの部屋にピングを連れてきたティーグレは、
「悪さしないようにペンギン預かっときます」
と、ピングのペンギンを抱いた。部屋を出る直前には大袈裟に礼をとり、ピングの指先に口付けを落として。
ティーグレとリョウイチがこんなに背中を押してくれたのに、ピングとアトヴァルは一言も発することが出来ない。
静寂の中、ピングはティーグレの唇が触れた指をキュッと掴む。
「アトヴァル」
先に覚悟を決めたのはピングだった。
「すまなかった」
ピングが頭を下げたのを見て、アトヴァルの椅子がガタリと音を立てる。
「皇太子殿下、お待ちください」
「待たない。私は、謝りに来たんだ」
「……謝るのは、私の方です。先に余計なことを言ったのは私だ」
アトヴァルは立ち上がって、深々と謝罪する。長い金髪がサラリと背中から落ちた。ピングも椅子から腰を上げ、空中で片手を彷徨わせ、それから遠慮がちに広い肩に着地させた。
「アトヴァル、頭を上げてくれ。……正直なところ、お互い謝ったからもういいな、としたい。そうするのが簡単だからな」
「それで、よろしいかと」
「ダメなんだ。そんな形式的なんじゃ意味がない。せっかく、アトヴァルの本音が聞けたのに」
頑なに顔をベージュのカーペットに向けているアトヴァルの頭頂部に、ピングは言葉を落としていく。
氷のような薄青色の瞳と見つめ合っている間、ずっと考えていた。
自分は、アトヴァルとどうなりたいのか。
このまま極力お互いが目に入らないようにするのか。出来なくはないだろうが、ピングはどうしたってアトヴァルが気になってしまう。
ならば離れているというのは無駄だ。
「私はな、アトヴァル。お前が羨ましくて妬ましくてたまらないんだ」
「……伝わっておりました。いつも、貴方の目はそう言っている」
「そう言われると恥ずかしいな」
淡々とした声に対して、ピングは思わず咳払いする。ピングはアトヴァルの気持ちが全然分からなかったのに、アトヴァルにはお見通しだった。
羨望の眼差しを受けるのに慣れているからというのもあるだろうが、あっさり肯定するのは流石だ。
「天才だからという一言でお前の努力を否定してるわけじゃないんだ。ただ、努力したら実るのが羨ましくて」
努力に気がついたのは最近だったけど、考えてみれば当然のことだった。何もしていないわけがない。
「皇太子を辞めたいっていうのも……うん、お前の方が相応しいってみんなが思ってるのにって……分かるから嫌で」
「みんなって誰ですか」
「え?」
「皇帝になってくれと、私に言ったのは母上だけです」
顔を上げたアトヴァルの瞳を、ピングは妙な気持ちで見つめた。暗い色が差した空虚な淡青色は常の煌めきをなくしており、まるで底の見えぬ沼だ。
ピングは戸惑いながらも、自身が感じていることを正直に述べる。
「だって、みんながアトヴァルのことを褒めるだろう」
「ですが、本当に私に皇帝になって欲しいと思っていると思いますか? 皇后の祖国がそれを許すと?」
何も言うことが出来なかった。
皇后は同盟国の王族だ。当然、国を背負って嫁いできている。
「無理に皇帝にならなくてもいいのよ」
いつもそう言ってピングを抱き締めてくれていたが、本当にそれが許されるはずがないことは皇后もピングも承知していた。
「もし、私が先に生まれていたとしたら……もっとややこしいことになっていた。貴方が皇太子で正解なんです」
アトヴァルは分かっていて尚、「皇帝」になることを母親に求められている。側妃もまた「あわよくば」と考える家の重圧を背負い、全てを才能あるアトヴァルに押し付けていた。
どんなに優秀だろうとアトヴァルが皇帝になるにはピングが命を落とす以外にはあり得ない。だがもし本当にそうなった時、誰が一番に疑われるのか。
その危険を犯すほどの野心は、側妃にもその実家にもなかった。
アトヴァルはひたすら、なれもしない皇帝の座を目指して走らされている。
「分かって、いるんです」
凛々しく形の良い眉が歪む。
体の横で握っている拳が震えている。
「私は、貴方が羨ましかった」
そのくらい重い沈黙が、夕陽が傾き始めてから沈み込むまで続いていた。
握りしめた手が白くなり、感覚を失っている気がする。
「……」
「……」
二つの少し色味の違う青い瞳が、ずっと見つめ合っていた。どちらも逸らしはしないが、だからといって口を開きもしない。
来客用のクッションのある椅子に座るピングと勉強机用の木製の椅子に腰掛けるアトヴァルは、ひたすら相手の出方を伺っていた。
部屋の主であるリョウイチは、
「二人っきりでちゃんと話してね」
と、アトヴァルの頭を撫でて出て行ってしまった。アトヴァルの手が「ここにいてくれ」とリョウイチのローブの裾を掴んだが、リョウイチは一瞬指を絡め、そして解いた。
アトヴァルに謝りに行くというのに、迷いなくリョウイチの部屋にピングを連れてきたティーグレは、
「悪さしないようにペンギン預かっときます」
と、ピングのペンギンを抱いた。部屋を出る直前には大袈裟に礼をとり、ピングの指先に口付けを落として。
ティーグレとリョウイチがこんなに背中を押してくれたのに、ピングとアトヴァルは一言も発することが出来ない。
静寂の中、ピングはティーグレの唇が触れた指をキュッと掴む。
「アトヴァル」
先に覚悟を決めたのはピングだった。
「すまなかった」
ピングが頭を下げたのを見て、アトヴァルの椅子がガタリと音を立てる。
「皇太子殿下、お待ちください」
「待たない。私は、謝りに来たんだ」
「……謝るのは、私の方です。先に余計なことを言ったのは私だ」
アトヴァルは立ち上がって、深々と謝罪する。長い金髪がサラリと背中から落ちた。ピングも椅子から腰を上げ、空中で片手を彷徨わせ、それから遠慮がちに広い肩に着地させた。
「アトヴァル、頭を上げてくれ。……正直なところ、お互い謝ったからもういいな、としたい。そうするのが簡単だからな」
「それで、よろしいかと」
「ダメなんだ。そんな形式的なんじゃ意味がない。せっかく、アトヴァルの本音が聞けたのに」
頑なに顔をベージュのカーペットに向けているアトヴァルの頭頂部に、ピングは言葉を落としていく。
氷のような薄青色の瞳と見つめ合っている間、ずっと考えていた。
自分は、アトヴァルとどうなりたいのか。
このまま極力お互いが目に入らないようにするのか。出来なくはないだろうが、ピングはどうしたってアトヴァルが気になってしまう。
ならば離れているというのは無駄だ。
「私はな、アトヴァル。お前が羨ましくて妬ましくてたまらないんだ」
「……伝わっておりました。いつも、貴方の目はそう言っている」
「そう言われると恥ずかしいな」
淡々とした声に対して、ピングは思わず咳払いする。ピングはアトヴァルの気持ちが全然分からなかったのに、アトヴァルにはお見通しだった。
羨望の眼差しを受けるのに慣れているからというのもあるだろうが、あっさり肯定するのは流石だ。
「天才だからという一言でお前の努力を否定してるわけじゃないんだ。ただ、努力したら実るのが羨ましくて」
努力に気がついたのは最近だったけど、考えてみれば当然のことだった。何もしていないわけがない。
「皇太子を辞めたいっていうのも……うん、お前の方が相応しいってみんなが思ってるのにって……分かるから嫌で」
「みんなって誰ですか」
「え?」
「皇帝になってくれと、私に言ったのは母上だけです」
顔を上げたアトヴァルの瞳を、ピングは妙な気持ちで見つめた。暗い色が差した空虚な淡青色は常の煌めきをなくしており、まるで底の見えぬ沼だ。
ピングは戸惑いながらも、自身が感じていることを正直に述べる。
「だって、みんながアトヴァルのことを褒めるだろう」
「ですが、本当に私に皇帝になって欲しいと思っていると思いますか? 皇后の祖国がそれを許すと?」
何も言うことが出来なかった。
皇后は同盟国の王族だ。当然、国を背負って嫁いできている。
「無理に皇帝にならなくてもいいのよ」
いつもそう言ってピングを抱き締めてくれていたが、本当にそれが許されるはずがないことは皇后もピングも承知していた。
「もし、私が先に生まれていたとしたら……もっとややこしいことになっていた。貴方が皇太子で正解なんです」
アトヴァルは分かっていて尚、「皇帝」になることを母親に求められている。側妃もまた「あわよくば」と考える家の重圧を背負い、全てを才能あるアトヴァルに押し付けていた。
どんなに優秀だろうとアトヴァルが皇帝になるにはピングが命を落とす以外にはあり得ない。だがもし本当にそうなった時、誰が一番に疑われるのか。
その危険を犯すほどの野心は、側妃にもその実家にもなかった。
アトヴァルはひたすら、なれもしない皇帝の座を目指して走らされている。
「分かって、いるんです」
凛々しく形の良い眉が歪む。
体の横で握っている拳が震えている。
「私は、貴方が羨ましかった」
204
お気に入りに追加
536
あなたにおすすめの小説
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【BL】こんな恋、したくなかった
のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】
人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。
ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。
※ご都合主義、ハッピーエンド
傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。
石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。
そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。
新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。
初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる