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二章
35話 憩いの湖
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また、やってしまった。
ピングは大空を泳ぐ巨大なシャチに咥えられたペンギンを見て頭を抱える。
原因は分かっている。ピングが呪文を唱えるときに集中していなかったせいだ。
昼休みにティーグレの恋愛対象が女性であると知った、それだけのことが気になって。
なんだか騙されたような気持ちになってしまって、気が散っていた。
おかげでいつもより巨大化したペンギンが、校庭を一直線に腹で滑って横切り、一番遠いところで授業を受けていたはずのアトヴァルに向かっていってしまったのだ。
幸いアトヴァルがすぐに気がついて、シャチがペンギンを止めてくれたため大事にはならなかった。
でも、ペンギンがアトヴァルに襲いかかる回数が多すぎて周囲の視線が痛い。
アトヴァルにはその場で謝罪できたピングだったが、それだけでは気持ちが収まらなかった。
「なんでアトヴァルの方に滑っていくんだこいつは!」
緑に囲まれた美しい湖に水紋ができるほどの音量でピングの声が響き渡る。
学園内にある皆の憩いの場にいるのは、今はピングとアトヴァル、ティーグレと、リョウイチの四人だけであった。
命令した覚えもないのにアトヴァルを襲う原因を相談しようと、恥を忍んで本人にも来てもらったのだ。
相変わらずペンギンは他人事のような惚け顔で見上げてきているのが腹立たしい。
「お前は一体どういう感情なんだ今!」
「ペンギンだからねぇ……」
「皇太子殿下、使い魔に感情はありません。あるとしたら使い手の感情が魔力に乗ってしまっているのです」
声を荒げるピングに対し、リョウイチは困ったように眉を下げ、アトヴァルは淡々と現実的な理由を述べてくる。感情の読めないアイスブルーの瞳から目を逸らして、ピングは俯いた。
「そんなことは……」
使い手の感情なのだとしたら、ピングがアトヴァルを傷つけたいと思っているということになる。おそらく、アトヴァルはそう思っているんだろう。
だがそれは誤解だ。
確かに常々、アトヴァルが羨ましいとか妬ましいとかいう感情でピングの頭は埋め尽くされているが、だからといって攻撃したいわけではない。
否定したくとも、上手い言葉が見つからなかった。
心安らぐはずの木の葉と葉が触れ合う音が、やけに耳につく空間になってしまう。
黙ってしまったピングの肩を、温かい手が助け舟を出すように後ろからポンと叩いた。
「アトヴァル殿下みたいになりたいって気持ちが暴走してるんでしょうね」
「思ってない!」
ピングはとんでもないことを言い出したティーグレの手を跳ね除け、勢いのまま黒いローブの胸ぐらを掴んでしまった。
顔に熱が昇って、わなわなと唇が震える。
ティーグレの言葉はデタラメでもなんでもなく、ピングのそばにいて感じていることそのものなんだろう。それでも本人に知られるのはピングのプライドに触れた。
図星を突かれて真っ赤な顔のピングを、ティーグレは涼しい顔で見下ろし頭を撫でてくる。
全てわかっているとでも言いたげな余裕が悔しかった。
更には、リョウイチがティーグレの言葉に納得して頷いてくる。
「つまりピングがアトヴァルのことを大好きだから、ペンギンはアトヴァルに構ってもらおうとしてるってこと?」
「とんだ勘違いだ!」
無意味に大きな声を出して否定してしまった。
ティーグレはともかく、リョウイチの解釈は絶対に頷くわけにはいかない。
必死で否定すればするほど真実味を帯びてしまうことにはピングは気がつかず、他の原因を考えようと頭を巡らせる。
「皇太子殿下」
「な、なんだ」
静やかな声で呼ばれて、ティーグレの胸を掴んでガクガクと揺さぶっていたピングは手を止める。
慌てているピングをじっと見つめていたアトヴァルは、一歩近づいてきた。
「ずっと気に掛かっておりました。その、なかなか言い出せなかったのですが」
白くなるまで握りしめた手も、引き攣った口元も、アトヴァルが緊張しているのが伝わってくる。
ピングはティーグレから離れて姿勢を正した。
アトヴァルからピングに言いたいこと。
心当たりがありすぎて、胸を強く叩かれているような息苦しさを感じる。
視線を一瞬だけリョウイチと交わしてから、アトヴァルは重々しく口を開いた。
「以前の、食堂でのことです」
「ホワイトベリーの?」
「はい。申し訳ございません。私としたことが、あのように騒ぎ立ててしまい」
以前、食堂でアトヴァルのコップに毒果のジュースが入っていた時のことだろう。
珍しくアトヴァルがピングに攻撃的な態度をとっていた。そうでなければもう少しあの場は穏便に終わっていた可能性はある。
しかしもうとっくに終わったことだ。ピングは全く気にしていなかったし、疑われても仕方がなかったとすら思っている。
「大したことじゃないだろう。結局、疑いは晴れたんだから」
自分の中で決着がついていたことだったので、ピングはホッとして冷静に返事をすることができた。口元に弧を描くことが出来るくらいだ。
しかし、
「正直、疑っておりました」
アトヴァルの言葉に憩いの場は凍りつく。
ピングは大空を泳ぐ巨大なシャチに咥えられたペンギンを見て頭を抱える。
原因は分かっている。ピングが呪文を唱えるときに集中していなかったせいだ。
昼休みにティーグレの恋愛対象が女性であると知った、それだけのことが気になって。
なんだか騙されたような気持ちになってしまって、気が散っていた。
おかげでいつもより巨大化したペンギンが、校庭を一直線に腹で滑って横切り、一番遠いところで授業を受けていたはずのアトヴァルに向かっていってしまったのだ。
幸いアトヴァルがすぐに気がついて、シャチがペンギンを止めてくれたため大事にはならなかった。
でも、ペンギンがアトヴァルに襲いかかる回数が多すぎて周囲の視線が痛い。
アトヴァルにはその場で謝罪できたピングだったが、それだけでは気持ちが収まらなかった。
「なんでアトヴァルの方に滑っていくんだこいつは!」
緑に囲まれた美しい湖に水紋ができるほどの音量でピングの声が響き渡る。
学園内にある皆の憩いの場にいるのは、今はピングとアトヴァル、ティーグレと、リョウイチの四人だけであった。
命令した覚えもないのにアトヴァルを襲う原因を相談しようと、恥を忍んで本人にも来てもらったのだ。
相変わらずペンギンは他人事のような惚け顔で見上げてきているのが腹立たしい。
「お前は一体どういう感情なんだ今!」
「ペンギンだからねぇ……」
「皇太子殿下、使い魔に感情はありません。あるとしたら使い手の感情が魔力に乗ってしまっているのです」
声を荒げるピングに対し、リョウイチは困ったように眉を下げ、アトヴァルは淡々と現実的な理由を述べてくる。感情の読めないアイスブルーの瞳から目を逸らして、ピングは俯いた。
「そんなことは……」
使い手の感情なのだとしたら、ピングがアトヴァルを傷つけたいと思っているということになる。おそらく、アトヴァルはそう思っているんだろう。
だがそれは誤解だ。
確かに常々、アトヴァルが羨ましいとか妬ましいとかいう感情でピングの頭は埋め尽くされているが、だからといって攻撃したいわけではない。
否定したくとも、上手い言葉が見つからなかった。
心安らぐはずの木の葉と葉が触れ合う音が、やけに耳につく空間になってしまう。
黙ってしまったピングの肩を、温かい手が助け舟を出すように後ろからポンと叩いた。
「アトヴァル殿下みたいになりたいって気持ちが暴走してるんでしょうね」
「思ってない!」
ピングはとんでもないことを言い出したティーグレの手を跳ね除け、勢いのまま黒いローブの胸ぐらを掴んでしまった。
顔に熱が昇って、わなわなと唇が震える。
ティーグレの言葉はデタラメでもなんでもなく、ピングのそばにいて感じていることそのものなんだろう。それでも本人に知られるのはピングのプライドに触れた。
図星を突かれて真っ赤な顔のピングを、ティーグレは涼しい顔で見下ろし頭を撫でてくる。
全てわかっているとでも言いたげな余裕が悔しかった。
更には、リョウイチがティーグレの言葉に納得して頷いてくる。
「つまりピングがアトヴァルのことを大好きだから、ペンギンはアトヴァルに構ってもらおうとしてるってこと?」
「とんだ勘違いだ!」
無意味に大きな声を出して否定してしまった。
ティーグレはともかく、リョウイチの解釈は絶対に頷くわけにはいかない。
必死で否定すればするほど真実味を帯びてしまうことにはピングは気がつかず、他の原因を考えようと頭を巡らせる。
「皇太子殿下」
「な、なんだ」
静やかな声で呼ばれて、ティーグレの胸を掴んでガクガクと揺さぶっていたピングは手を止める。
慌てているピングをじっと見つめていたアトヴァルは、一歩近づいてきた。
「ずっと気に掛かっておりました。その、なかなか言い出せなかったのですが」
白くなるまで握りしめた手も、引き攣った口元も、アトヴァルが緊張しているのが伝わってくる。
ピングはティーグレから離れて姿勢を正した。
アトヴァルからピングに言いたいこと。
心当たりがありすぎて、胸を強く叩かれているような息苦しさを感じる。
視線を一瞬だけリョウイチと交わしてから、アトヴァルは重々しく口を開いた。
「以前の、食堂でのことです」
「ホワイトベリーの?」
「はい。申し訳ございません。私としたことが、あのように騒ぎ立ててしまい」
以前、食堂でアトヴァルのコップに毒果のジュースが入っていた時のことだろう。
珍しくアトヴァルがピングに攻撃的な態度をとっていた。そうでなければもう少しあの場は穏便に終わっていた可能性はある。
しかしもうとっくに終わったことだ。ピングは全く気にしていなかったし、疑われても仕方がなかったとすら思っている。
「大したことじゃないだろう。結局、疑いは晴れたんだから」
自分の中で決着がついていたことだったので、ピングはホッとして冷静に返事をすることができた。口元に弧を描くことが出来るくらいだ。
しかし、
「正直、疑っておりました」
アトヴァルの言葉に憩いの場は凍りつく。
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