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第三章 指につばを吐いて描く
第十三話 計画遂行
しおりを挟む翌日の稽古は夜七時に終了した。
他の者たちが居残り練習に散っていく中、琴美は足早に更衣室へと向かう。私はその後を追った。
「ねえ、これからどこかで食事でもしない?」
素知らぬふりで語りかける。
「すいません。今日は用事があって」
琴美はシャワールームに入ろうとして、ふと振り返った。
「すみませんでした」
「何が?」
「アンダースタディを降りるってお約束したのに、やっぱり滝沢先生に許していただけなくて」
今日も琴美はアンダーとして二幕の稽古を行っていた。
「いいのよ、そんなこと。気にしないで。――それより、大丈夫?」
「何がです?」
「顔が真っ青よ。何かあったんじゃない?」
「いえ、別に……」
誤魔化すように言うと、シャワールームへと消えた。
私は先回りして、貝原のマンション近くの木立の陰から琴美の到着を待った。彼のマンションは、劇団から南西へ十分ほど歩いた場所にある。付近に防犯カメラが設置されていないのはすでに確認済みだ。
――落ち着くのよ。
自分に言い聞かせる。これから起こる出来事を、頭の中でゆっくりシミュレーションしてみた。
絶対に失敗は許されない。
米田礼二や片桐あずさを襲った時のような、衝動に駆られた振る舞いは厳に慎まなければならない。
冷静沈着に、完全犯罪を遂行するのだ。決して自らが疑われるような失態を犯してはならない。
しかしそれが自分にとって最も苦手な分野であることも事実だった。
それでも、やるしかない。
蛇のように粘着質の貝原と、狡猾で邪悪な殺人鬼・琴美を同時に葬り去るには、この方法をおいて他にない。
二人さえいなくなれば、私は晴れて自由の身となれる。
この世には、殺されても仕方がない人間が確実に存在する。
それが、貝原と琴美だ。
貝原にはあの世へ行ってもらい、琴美には一生塀の中で過ごしてもらおう。
ごくりと生唾を呑み、両手に革の手袋をはめた。
「百合亜」
突然、前方から声をかけられ、うろたえた。見ると、西條敦子がこちらに向かって歩いてくる。
「何してるの、こんなところで」
「あ……いえ」
必死に言い訳を探すが、適当な言葉が出てこない。
「西條さんこそ」
相手に話題を振って、束の間、時間を稼ぐ。
「私の家、この先なのよ」
と、敦子は前方を指差した。
「そうなんですか」
「あなたは何をしてるの?」
「実は」
と落ち着きを取り戻した声で言った。
「琴美のところに泊めてもらおうと思ったんですけど、彼女が用事があるというものですから、散歩でもして時間を潰そうかと思って」
「ふーん」
敦子は怪訝そうに、手袋をした私の両手に視線を落とした。
「散歩するんなら東口の方がいいわよ」
屈託のない声で言った。
「そうですか」
「川沿いの道は気持ちいいわ。街灯がたくさんあって人通りも多いから危険じゃないし。この辺はけっこう物騒よ」
「是非、行ってみます。東口」
私は笑顔で言うと、敦子に謝意を述べ、東に進路をとった。振り返ることなくそのまま五十メートルほど歩き、しばらく時間を潰してから元の場所に戻った。
すでに敦子の姿はそこになかった。
貝原のマンションに目を向ける。時計を見ると八時五分を示している。約束の時間を五分オーバーしている。
琴美はすでに室内に入っただろうか。
外からでは中の様子は窺えない。貝原に電話しようかと考えたが、思いなおした。
すでに琴美がいるのなら貝原は出ないだろうし、下手に通信履歴を残して、後で警察から電話の内容を問われるのも煩わしい。彼との接触の痕跡は極力残すべきではない。
二十分が経過した。
琴美はやってこない。やはりすでに室内に入っているのだろう。
はたして一時間後、琴美がエントランスから出てくるのが見えた。顔を季節外れのマフラーで隠すようにして、周囲を用心深く窺った後、逃げるように自宅アパートの方へ走り去っていった。
私はすぐにマンションへ向かった。
三階の貝原の部屋の玄関ドアを開け、居間へと入る。
貝原はソファーの中央に座り、煙草をくゆらせていた。
「どうだった?」
荒い息とともに訊いた。
「ああ」
貝原はぼんやりとした表情で返した。どこか気が抜けているように見える。
「彼女、認めた? あずさを殺したことを」
貝原は少し首をかたむけ、それから、
「まあ……認めたんだと思う……」
とあいまいに言った。
「どういうこと?」
貝原は初めて、私をまっすぐに見た。
「彼女、家に入るとすぐに交渉を持ちかけてきたんだ。身体を許すから、見たことは黙っていてほしいって」
「……そう」
「レイプするまでもなかったよ。自分から服を脱ぎ始めた。たいしたタマだぜ、琴美は」
私は隣の寝室を覗いた。シーツが乱れ、無数の皺が寄って中央にくぼみができている。
「で、やったのね?」
「ああ。お望み通り、ゴムなしでな」
貝原の顔が醜く歪んだ。
「それにしてもあの女、相当手馴れてるよ。似たようなことを今までも繰り返してきたに違いない」
「そうね」
私は琴美から聞いた枕営業の話を思い出していた。あれは作り話ではなく実話だったのだろう。
ふとテーブルに視線を走らせる。飲みかけのコーヒーカップが二つ並んでいる。一つには琴美の指紋が充分についていることだろう。
貝原の隣に腰を降ろす。
「よくやってくれたわ」
「いやあ」
と照れたように笑った後、
「でも復讐にはならなかったな。あの女の悶え苦しむ姿が見たかったんだろう、百合亜は。だけど琴美にとっては何でもないことだったんだ」
「充分よ」
「警察に突き出すか」
「その必要はないわ」
「放っておいたら百合亜の命が狙われるぞ」
「そんなヘマはしないわ」
私は貝原の首に腕を回し、覆いかぶさるように唇を吸った。
「お、おい、何すんだよ」慌てたように顔を赤らめる。
「嫌なの?」
顔を離し、すねたように言った。
「嫌なわけねえだろ。だけど百合亜の方から迫ってくるなんて初めてだから、びっくりするじゃねえか」
「ご褒美よ。よくやってくれたから」
「たいしたことはしてねえ」
「いいえ。最高の仕事ぶりだった。頼もしいわ」
貝原はにやけた顔でしばらく抱擁を受け入れていたが、ふと私の両手を見て、怪訝な顔つきになった。
「どうして、手袋なんかはめてるんだい」
「え? ああ、これ?」
私は笑って両手を彼の目の前でひらひらさせた。
「指紋がつかないようにするためよ」
「指紋?」
「そう。指紋が残ったら、あとで面倒なことになるでしょう」
「どうして?」
「どうしてって……決まってるじゃない」
そう言いながら左手を彼の首に巻きつけ、右手をアウターの懐に突っ込む。
「それはね」
視界を塞ぐようにキスをする。
「こういうわけよ」
無防備な彼の心臓部めがけて、懐から取り出した刃渡り15センチのナイフを突き立てた。
ズブズブと力の限りねじ込んでいく。
貝原の顔が、ムンクの叫びのように捻じ曲がった。
「ゆ、ゆ、百合亜……」
その声は哀れなほどか細く弱々しかった。
彼は顔を朱に染め、私の首を絞めようと両手を伸ばしてくる。
一瞬早く、それをかわして立ち上がった。
貝原は両手を前に伸ばしたまま、前のめりに倒れ込み、床に転がる。
「ゆり、あ……おまえ……」
断末魔のうめき声を発し、二、三度ひくひくと痙攣《けいれん》するように全身を震わせた後、彼は一切の動きを停止した。
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