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第三章 指につばを吐いて描く
第十一話 信じたい心
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「百合亜さん」
ドアを開けた琴美は、驚いた顔で私を見つめた。
「今日、泊めてもらおうと思って」
アポなしで、彼女のアパートに押しかけたのだ。
「え……ええ。どうぞ」引きつった顔で招き入れてくれた。
「何をそんなに驚いているの」
六畳間に腰を降ろすと、いまだ動揺している様子の琴美に笑いかける。
「だ、だって……」
琴美は俯き気味に言葉を発した。
「百合亜さんにすっかり嫌われてしまったと思ったものですから」
「どうして私が嫌うの?」
琴美は緊張したように目をしばたたかせた後、
「どうしてって……」
「別に嫌ってなんかいないわ」
「本当ですか」と上目遣いに見てきた。
「ただ、あなたにミミ役は無理だと思っているだけ。今日の稽古を見て確信した」
「ええ」
琴美は素直に頷いた。
「私もそう思います」
「だったら」
と私は言った。
「辞退したらどうなの。アンダースタディを」
「しました」
「え?」
「辞退しました」
「うそ」
彼女の顔をまじまじと見つめる。嘘をいっているとは思えない。
「さっき滝沢先生に電話して、アンダーを降ろしてほしいって」
「言ったの?」
「はい」
信じられぬ思いで琴美を見る。
「で、何だって、滝沢さん?」
「それが……」
琴美は迷うように視線を泳がせる。
「百合亜さんに……何か言われたのかって」
「えっ……?」
「百合亜さんに脅されたんじゃないかって――。だから私が、違います、自分で考えたことです、って申し上げたら、お前のアンダーは劇団が決定したことだから覆すことはできないって」
「……」
「それでもう私、何も言えなくなってしまって……」
琴美は身を縮めるようにしてうつむいた。その肩が小刻みに震えている。
私は腕組みし、彼女の内心を見極めるように、じっと見つめた。
「よく出来たお話だこと」
「え」
「二人で打ち合わせでもしたんでしょう。私が来たらそう言えって」
滝沢と琴美が電話で話している様子が目に浮かんだ。私が彼女の降板を直訴したことも、おそらく琴美は聞いているのだろう。
「違います」
「まあいいわ。とにかく、あなたはアンダーを降りる気はないってことね」
「私ではなく滝沢先生が……」
「分かった、分かった」
と手で制した。
「一つ訊いてもいいかしら」
改まって琴美に語りかけた。この際、彼女の正体を見定めてやろうという気持ちだった。
「何でしょうか」
「あなたはそもそも、どうして私の付き人に志願したの?」
琴美は脅えたような目で、
「それは、以前にも申し上げました通り……」
「歌を学びたかったから」
「そうです」
「で、ミミの歌を練習し、台詞を覚え、ついにはミザンまで完璧にした」
「……」
「そこへ片桐あずさが殺されるという事態が発生し、あなたはアンダーに抜擢される」
「でも、それは……」
「滝沢さんが勝手に決めたことよね」
私はほほ笑んで言った。琴美の口元が歪んだ。
「何が……仰りたいんですか」
「別に」
と琴美を冷たく見る。
琴美もまっすぐ見返してくる。
「私は、無実です」
「あら、誰も犯人だなんて言ってないわよ」
「でも疑ってらっしゃるんでしょう。私は純粋な気持ちで百合亜さんから本物の歌を学びたいと思っただけです。尊敬すればこそ、付き人に志願したんです。台詞やミザンまで覚えたのは、百合亜さんの方法論を盗みたいと、一挙手一投足に目を凝らしていたからです。私は、いい歌手に、いい女優になりたい。その思いしかありません。ミミ役なんて分不相応だと分かっていますし、出演なんて考えたこともありません。私はアンダーで稽古できるだけで幸せなんです」
私は琴美の目を覗き込んだ。
「でも、百合亜さんには信じていただけないでしょうね」
彼女は哀しそうに、自分の足元に視線を落とした。そのままじっと黙り込む。
「信じたいわよ」
ぽつりと言った。偽らざる本音だった。
「だから、今日こうして訪ねて来たんじゃない」
できることなら彼女の口から、私が心に抱く疑念を晴らしてほしかった。誤解だと証明してほしかった。
「……百合亜さん」
「あなたとの交流は、私にとってかけがえのないものだったの」
胸に込み上げる思いがあった。
「六年前の事件以来、心を開いて話せる相手は誰もいなかった。ずっと一人ぼっちだった。でも、あなたと出会って、まるで姉妹のように何でも打ち明けられた。あなたも私に誰にも話せないような暗い過去の秘密まで語ってくれたわよね。琴美とは真に心を許し合える関係になれたと思っていた。それがどれほど嬉しかったか分かる? 私にとって、どれほどかけがえのないものだったか分かる? 六年間、心の底で求め続けていたものを、あなたは私に与えてくれた。――真の友情という名の宝物――。だからこそ、そのあなたからもしも欺かれていたのだとしたら、あまりに悲しすぎるし、殺しても飽き足らないくらいの気持ちなのよ」
「私は百合亜さんを欺いてなどいません」
琴美は濁りのない瞳で言った。
「私、アンダースタディを降ります」
その目に涙が光っている。
「百合亜さんの付き人に戻ります。滝沢先生が何と言おうと、そうします」
「……琴美」
「本当の実力をつけてから、大きな役で勝負したいんです。今の私は、もっともっと下積みをすべきなんです。分不相応な役に色気など示すべきではありませんでした。百合亜さんの仰る通りです」
「……」
「その代わり、教えてください。私に歌を――本物の歌とは何かを――教えてください」
私の頭は混乱していた。
いったい何が真実で、何が虚偽なのか。
それを見極めるだけの心眼を、自分が持ち合わせていないことを痛切に感じた。
ドアを開けた琴美は、驚いた顔で私を見つめた。
「今日、泊めてもらおうと思って」
アポなしで、彼女のアパートに押しかけたのだ。
「え……ええ。どうぞ」引きつった顔で招き入れてくれた。
「何をそんなに驚いているの」
六畳間に腰を降ろすと、いまだ動揺している様子の琴美に笑いかける。
「だ、だって……」
琴美は俯き気味に言葉を発した。
「百合亜さんにすっかり嫌われてしまったと思ったものですから」
「どうして私が嫌うの?」
琴美は緊張したように目をしばたたかせた後、
「どうしてって……」
「別に嫌ってなんかいないわ」
「本当ですか」と上目遣いに見てきた。
「ただ、あなたにミミ役は無理だと思っているだけ。今日の稽古を見て確信した」
「ええ」
琴美は素直に頷いた。
「私もそう思います」
「だったら」
と私は言った。
「辞退したらどうなの。アンダースタディを」
「しました」
「え?」
「辞退しました」
「うそ」
彼女の顔をまじまじと見つめる。嘘をいっているとは思えない。
「さっき滝沢先生に電話して、アンダーを降ろしてほしいって」
「言ったの?」
「はい」
信じられぬ思いで琴美を見る。
「で、何だって、滝沢さん?」
「それが……」
琴美は迷うように視線を泳がせる。
「百合亜さんに……何か言われたのかって」
「えっ……?」
「百合亜さんに脅されたんじゃないかって――。だから私が、違います、自分で考えたことです、って申し上げたら、お前のアンダーは劇団が決定したことだから覆すことはできないって」
「……」
「それでもう私、何も言えなくなってしまって……」
琴美は身を縮めるようにしてうつむいた。その肩が小刻みに震えている。
私は腕組みし、彼女の内心を見極めるように、じっと見つめた。
「よく出来たお話だこと」
「え」
「二人で打ち合わせでもしたんでしょう。私が来たらそう言えって」
滝沢と琴美が電話で話している様子が目に浮かんだ。私が彼女の降板を直訴したことも、おそらく琴美は聞いているのだろう。
「違います」
「まあいいわ。とにかく、あなたはアンダーを降りる気はないってことね」
「私ではなく滝沢先生が……」
「分かった、分かった」
と手で制した。
「一つ訊いてもいいかしら」
改まって琴美に語りかけた。この際、彼女の正体を見定めてやろうという気持ちだった。
「何でしょうか」
「あなたはそもそも、どうして私の付き人に志願したの?」
琴美は脅えたような目で、
「それは、以前にも申し上げました通り……」
「歌を学びたかったから」
「そうです」
「で、ミミの歌を練習し、台詞を覚え、ついにはミザンまで完璧にした」
「……」
「そこへ片桐あずさが殺されるという事態が発生し、あなたはアンダーに抜擢される」
「でも、それは……」
「滝沢さんが勝手に決めたことよね」
私はほほ笑んで言った。琴美の口元が歪んだ。
「何が……仰りたいんですか」
「別に」
と琴美を冷たく見る。
琴美もまっすぐ見返してくる。
「私は、無実です」
「あら、誰も犯人だなんて言ってないわよ」
「でも疑ってらっしゃるんでしょう。私は純粋な気持ちで百合亜さんから本物の歌を学びたいと思っただけです。尊敬すればこそ、付き人に志願したんです。台詞やミザンまで覚えたのは、百合亜さんの方法論を盗みたいと、一挙手一投足に目を凝らしていたからです。私は、いい歌手に、いい女優になりたい。その思いしかありません。ミミ役なんて分不相応だと分かっていますし、出演なんて考えたこともありません。私はアンダーで稽古できるだけで幸せなんです」
私は琴美の目を覗き込んだ。
「でも、百合亜さんには信じていただけないでしょうね」
彼女は哀しそうに、自分の足元に視線を落とした。そのままじっと黙り込む。
「信じたいわよ」
ぽつりと言った。偽らざる本音だった。
「だから、今日こうして訪ねて来たんじゃない」
できることなら彼女の口から、私が心に抱く疑念を晴らしてほしかった。誤解だと証明してほしかった。
「……百合亜さん」
「あなたとの交流は、私にとってかけがえのないものだったの」
胸に込み上げる思いがあった。
「六年前の事件以来、心を開いて話せる相手は誰もいなかった。ずっと一人ぼっちだった。でも、あなたと出会って、まるで姉妹のように何でも打ち明けられた。あなたも私に誰にも話せないような暗い過去の秘密まで語ってくれたわよね。琴美とは真に心を許し合える関係になれたと思っていた。それがどれほど嬉しかったか分かる? 私にとって、どれほどかけがえのないものだったか分かる? 六年間、心の底で求め続けていたものを、あなたは私に与えてくれた。――真の友情という名の宝物――。だからこそ、そのあなたからもしも欺かれていたのだとしたら、あまりに悲しすぎるし、殺しても飽き足らないくらいの気持ちなのよ」
「私は百合亜さんを欺いてなどいません」
琴美は濁りのない瞳で言った。
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「……」
「その代わり、教えてください。私に歌を――本物の歌とは何かを――教えてください」
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