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第三章 指につばを吐いて描く

第七話 未練

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 滝沢の部屋を辞し、玄関に向かって歩いていると、西條敦子が近づいてきた。
 彼女の目はまだ充血している。ずっと泣いていたのだろうか。

「何を話していたの?」

 探るように訊いてきた。その嫉妬じみた視線にどきまぎし、

「いえ、別に……」

 と誤魔化すように答えた。

「ダメ出しをいただいていただけです」
「そう」

 と安堵したように答える。それから怒りをたぎらせた目で、

「滝沢のやつ、稽古場ではえらく格好いいことを並べ立ててみんなの同情を買っていたけど、私は騙されないわよ。結局、あいつはただの女好きなのよ」

 私は、おやっ、と思った。
 昨日まで、どんなことをしてでも滝沢を守り抜くと息巻いていた姿とは別人のようだ。

「どういうことですか?」
「あずさを捨てたのは新しい女ができたからなの。その女のためにあずさと別れたのよ。あずさを殺してないって供述も信用できないわね」
「新しい女って?」

 気になって訊ねた。

「すぐに分かるわ。突然、分不相応な大役を与えられた女が次の相手よ。まったく昔から分かりやすいんだから、あの男のやることは」

 私には嫉妬に駆られた中年女の哀しい妄想としか思えなかった。滝沢は情実でキャスティングをするような人間ではない。先ほどの会話からもそれは明らかだ。

「思い過ごしじゃないですか」

 と私は言った。

「滝沢先生はもっと高潔な方だと思います」
「冗談じゃない」

 敦子は前歯をむき出して吠えかかってきた。

「本人が認めたのよ、問い詰めたら。新しい女に乗り換えたって」
「認めた?」
「彼が落ち込んでいると思ったから食事に誘ったの。慰めてあげようと思って。良かったら、しばらく身の回りの世話をしてあげてもいいと言ったわ。以前はやっていたわけだし――。そしたらあいつ、そういう相手はすでにいるから心配しないでくれって」

 敦子の目の縁の赤みが増した。

「誰よ、って訊いたら、お前には関係ないって」
「……」
「なんて奴なの。みんなで死ぬほど心配したっていうのに、当の本人は別の女を作って、よろしくやってたってわけよ」

 敦子はいまだに滝沢への未練が断ち切れないのだろう。傍から見ると痛々しいものがある。自分を捨てた男にいつまでも纏わりつくことほど、女として惨めなものはない。敦子ほどの自立した女優がなぜ――と不思議な気がした。

 一方で、その心情がまんざら分からないでもなかった。
 滝沢という人間は、それだけ男性としての魅力に溢れているのだ。仕事の面では、冷酷ともいえるほど他者にも自分にも厳しいくせに、その裏側にはやさしい気遣いと深い思いやりが隠れている。しかも演出家としてはすこぶる優秀ときている。女はみんな、そういう男に弱いのだ。

 先ほど滝沢の言葉に勇気づけられ、彼のためならどんな苦しみにも耐えようと決意した私だけれど、その気持ちの中に一片の恋情も含まれていないといえば嘘になる。女性を夢中にさせる魔力のようなものを、滝沢は秘めていた。

                   ☆


 「百合亜さん、ありがとうございます」

 琴美のアパートの玄関ドアを開けると、彼女が溢れんばかりの笑顔で抱きついてきた。今日は稽古が夜に変更になったこともあり、彼女の家に泊めてもらうことにした。

「なに? どうしたの」
「今、滝沢先生から電話があって、お前を正式なアンダースタディーに起用するって言っていただいたんです。セカンドキャストを兼ねたアンダースタディーです。明日、みんなの前で発表して、マスコミにも通知するそうです」

「……そう」

 無表情で言うと、靴を脱いで室内に入った。

「一時的な代役だとばかり思っていたので、本当にびっくりしました」
「良かったわね」

 笑顔で祝福した。

「ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合いはないわ」
「とんでもない。百合亜さんから歌を教えて頂いたおかげです。滝沢先生も、歌が格段によくなったって褒めてくださって」
「そう」

 確かにここ最近、琴美の歌はめきめき上達している。それは認めよう。だが現時点でもなお、あのあずさにさえ遠く及ばない。町のカラオケ女王レベルの歌唱である。劇団にはもっと優秀な若手女優が沢山いるだろうに、滝沢は何を考えているのだろう。少し不思議な気がした。

「それに、百合亜さんは以前、私がアンダーに入るのを快くオーケーしてくださったじゃないですか」
「別に快くなんかオーケーしてない」

 意図せず冷淡な口吻くちぶりになった。

「私が口をはさむ筋合いじゃないって言っただけよ」
「そうですけど……」

 琴美は一瞬口先を尖らせたが、すぐに笑顔に戻り、

「ワイン買ってきたんです。一緒に飲みましょう」

 嬉々としてキッチンへ向かう琴美の後ろ姿を、私は黙って見つめていた。彼女は鼻歌を奏でながらワインのコルクを開け、グラスに赤ワインを注いだ。

 そのはしゃぎっぷりがいつもの琴美とはなにか違うような気がして、ふと西條敦子の放った言葉が思い出された。                      


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