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第三章 指につばを吐いて描く

第四話  指につばを吐いて壁に描く

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「何かあったんですか」

 琴美は私の乱れた着衣を見て、驚いたように言った。ブラウスが引き裂かれ、ほとんどのボタンがなくなっている。

「ちょっと道で転んじゃって」と嘘を言った。

 ラブホテルを出た後、自宅に戻る気がせず、琴美に電話してアパートに寄せてもらった。
 このところ、三日に一度は彼女の家に泊まっている。台詞レッスンが深夜に及ぶことも多く、終電がなくなってしまうためだが、一人きりの真っ暗な部屋に帰るより、彼女と一緒に過ごす方が楽しく心地良いという側面もある。
 劇団内で孤立しがちな私にとって、一貫して味方でいてくれる彼女といる時だけ、心の平穏を得ることができる。

 シャワーを借りて、スウェットの上下に着替え、琴美が台所で奏でる包丁の音色を聞きながら六畳間でくつろいでいると、貝原からスマホにメールが入ってきた。

 〈明日までにさっきの発言を取り消せ。さもないと俺はすべてを警察にバラす。お前と一緒にあずさを殺したことをな〉

 彼の蛇のように陰湿で薄気味悪い目つきを思い出して一瞬ひるむような思いになったが、それでも、もう後には引き返せない、いつわりの人生に終止符を打つのだ、と自らに言い聞かせた。

「最近の百合亜さん、ずっと様子がおかしかったから心配してたんですよ」

 料理を食べ終わって一段落した頃、琴美が暗い声で切り出した。部屋の隅に畳んで置いてある引き裂かれたブラウスをじっと見つめている。道で転んだなどという嘘を、とっくに見抜いているのだろう。

「異性関係ですね」

 琴美は断定するように言った。

「まあ、そんなとこ」

 私は苦笑して、食後のコーヒーに口をつける。

「暴力とか、ふるわれてるんじゃないですか?」
「ううん。そんなことない」とかぶりを振る。
「なんか変だと思ったんですよ。このまえ私が枕営業のことを話したら、妙に同情的なことを言ってきたじゃないですか。百合亜さんらしくないなと思って」

 そうだったかしら、ととぼけてみせた。

「それに、ミミの演技も以前とはだいぶ変わってしまったし。特に今日は、今まで見たことがないような出来でした」
「変だった?」

 一生懸命やったつもりだが、やはり心に心配事や懊悩おうのうがあると、演技に反映してしまうものらしい。

「いいえ」

 と琴美は首を横に振った。

「逆です。とても素晴らしかった。今まで見たことがないくらい表現に凄みがありました。特に二幕一場が圧巻でした」
「二幕一場?」

 それは、結核をわずらったミミがロドルフォと別れ、金持ちの貴族に囲われるシーンだ。ロドルフォは薬代すら払えない貧しい自分を責め、自ら身を引いたのだ。ミミは愛してもいない男との暮らしの中で次第に心を病み、後悔と自己嫌悪にさいなまれていく。

「あのシーンだけは、どこかリアリティーに欠けているとずっと感じていたんです。でも最近の百合亜さんは、あそこが最大の見せ場になっています。惹きつけられました」
「そうお?」

 自分では、まるで意識していなかった。

「だからこそ、何かあったのかなと思って」

 私は無言で苦笑を返した。
 女優とはつくづく不思議な職業だと、近ごろ、とみに考える。一般の人間ならば誰しも避けて通りたい、味わいたくない、死んでしまいたいと思うような熾烈な体験こそが、時に最高の財産となり、かけがえのない成長の糧となる。

「特に今日の演技は格別でした。瀕死の中、いつわりの愛から脱け出してロドルフォのもとを目指す場面は、鬼気迫るものがあって、全身に鳥肌が立ちました。とても演技とは思えなかった」
「他のみんなが手を抜いていたから、良く見えただけよ」
「いいえ。今の百合亜さんなら、片桐あずさに勝利できたはずです」
「ありがとう」

 お世辞だとしても嬉しかった。今の私にとっては最大の賛辞だ。

「公演が中止になるかもしれない状況で、それでも全力で演技している百合亜さんの姿に教えられるものがありました。本物の女優魂を見た思いです」
「そんなんじゃないのよ」
「いいえ。感動です。ほんとに……心から感動しました」

 琴美は目にいっぱいの涙を溜めた。

「これが、指につばを吐いて描くってことなんだなって思いました」
「指につばを吐いて……描く?」
「ええ」
「どういう意味?」

 琴美は振り返ると、後方の棚から一枚のDVDを取り出した。

「これです」

 と私に手渡す。
 見ると、『アクターズ・スタジオインタビュー ダスティン・ホフマン自らを語る』と書かれている。

「知ってます? NHKでやってたやつ」
「ええ。何度か見たことがあるわ」

 アメリカにはアクターズスタジオという有名な俳優養成所がある。稀代の演技教師リー・ストラスバーグが1947年に創設したこの学校は、マーロン・ブランドやジェームス・ディーン、ロバート・デ・ニーロなど、メソード役者と呼ばれるリアリズムの名優を数多く輩出し、アメリカの映画・演劇界に一時代を築いた。今やメソードの影響を受けていない俳優はアメリカでは皆無といわれるほどだ。
 この番組では、アクターズスタジオが毎回優れた俳優をゲストに呼んで、その演技論をインタビュー形式で解き明かしていく。NHKのBSで放映されていたものだ。

「女優として迷ったり道を見失いそうになった時は、いつもこのDVDを見るんです。何度見たか知れません。私にとってはバイブルのようなものです」

 私は頷いて、DVDを彼女に返した。

「昔からダスティン・ホフマンが大好きなんです。好きというより尊敬かな」
「『レインマン』の人でしょ」
「ええ。『レインマン』とか『トッツィー』とか『クレーマー・クレーマー』とか」
「ええ」
「でも一番好きなのは、出世作となった『卒業』です」
「随分古い映画ね」
「はい。高校三年の時に見て、大感動して――。内容ももちろんですけど、ダスティン・ホフマンやアン・バンクロフトの演技にしびれました。こんな風に人の心を揺り動かせるなんて、俳優ってなんて凄い仕事だろうと思ったんです。私も彼らみたいになりたいって」

 琴美は当時のことを思い出すように目を細めた。

「その時、青森の食品会社に就職が決まってたんですけど、あとさき考えずに東京へ飛び出しました」
「お母様は反対したでしょう?」
「ええ、猛反対です。私が東京へ発つ日は朝からずっと泣いていました」

 琴美は壁に貼られた母親の写真をチラリと横目で見た。

「だから十代の頃は、絶対に映画女優として成功するんだって必死でした。かたくなっていうか、意固地っていうか……母を泣かせてまで上京したのだから絶対に失敗は許されない。枕営業の話がきた時も、内心は凄く嫌だったけど、我慢してやっていました。全ては映画女優として成功するためだと自分に言い聞かせて」
「……」
「ところがいつまで経っても芽が出ない。枕も次第に苦痛になってきて……。それでも、しがみつくしかなかった。他の道が見えなかったんです。そのうち自分が何をやっているのかすら分からなくなってしまって……」

 彼女の顔が苦しそうに歪み始める。

「そんな時、この番組を見たんです」

 DVDを私の方に向けた。

「番組の後半で、アクターズ・スタジオの生徒たちがゲストと質疑応答するコーナーがあるんですけど、そこで、一人の女優の卵がこう質問するんです。『あなたは、どうして演じるんですか?』って」

 琴美は思いつめた表情でつづける。

「あまりにも直球の質問だったせいか、ダスティンは少し戸惑ったような顔をして、『なぜそんなことを訊くんだい』と問い返す。すると女優の卵は、『常に自分に問いかけているんです』と答えます。当時の私も同じ心境だったから、彼女の気持ちが痛いほど分かった。先の見えない中で、苦しい思いをしてまで、なぜ私たちは演じ続けるのか――。彼の答えが知りたかった。するとダスティンは、少し考えてからこう言ったんです。『正気を失わないためだ』って」

「正気を……失わない?」

 私は意味をはかりかねて、小首をかしげた。

「はい。彼は続けてこう言いました。『今、僕は六十八歳だけど、この年になっても情熱が色あせないものは本物だと思う。そしてこれだけは確信している。何があろうと僕は演じ続ける。仕事がなくなれば素人劇団で演じればいい。たとえ非米活動委員会が復活して赤狩りのような弾圧を始めても、僕は決して協力しないだろう。それは勇敢だからじゃない。演技はどこでだろうとできるからだ。これほど心弾むものは他にない』」

 私は黙って聞いていた。

「そして彼はピカソの言葉を引用します」

 と琴美は言った。

「『ピカソのこんな名言がある。絵の具がなければパステルで描けばいい。パステルがなければクレヨンで。それもなければ鉛筆で。裸で牢屋に入れられたなら、指につばを吐いて壁に描く』」

「指に、つばを、吐いて……」
「はい」

 私は以前六本木の美術館で見たピカソの無邪気で自由な素描を思い出していた。

「本当に演じることを愛していれば、どこでだって演技はできるはず。成功することが全てじゃない。ダスティンは悩む学生たちにそう言いたかったんです。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走りました。翌日、私は事務所に辞表を提出しました。正気を失わないためです」

 私は黙って彼女の顔を見た。

「今日、公演が中止になるかもしれない中で、観客も演出家もいない中で、最高の演技を披露した百合亜さんを見ていて、この言葉を思い出したんです」

 私は苦笑してかぶりを振った。

「私の場合は、そんな格好いいものじゃないのよ」

 そう、ただの罪滅ぼしだ。私のせいで連行され罪に問われるかもしれない滝沢のために、手を抜くことができなかっただけだ。

「そんなことないです」

 琴美は涙の滲む目で言った。

「今日の百合亜さんは、ダスティンやピカソと同じく、本物の表現者でした」 


                 ☆        ☆

 
 その日の深夜、貝原から電話がかかってきた。
 スマホの振動音に目を覚ました私は、寝ている琴美を起こさないようにキッチンへと立つ。

「メールは読んだか」

 ドスの利いた声が受話口から流れてくる。

「本気だからな」
「分かってる」
「俺が警察に喋れば、お前は破滅だぞ」
「破滅なんかしないわ。ほんの少しの間、刑務所に入るだけのことよ。運がよければ執行猶予がつく」
「女優としては終わりだろうが」
「そうかしら」
「俺がタレこめないと高をくくっているなら大間違いだぞ。後で吠え面かいても知らねえからな。明日を楽しみに待ってろ」

 捨て台詞とともに電話は切られた。おそらく本気だろう。
 それでも、私の心は微塵も揺るがなかった。何があろうと貝原とは離れる。こんなただれた関係は一刻も早く清算しなければならない。

 正気を失わないために――。

 そう。歌はどこにいたって歌えるのだ。
 
 いざとなれば、指につばを吐いて、壁に描こう。










 
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