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第三章 指につばを吐いて描く
第一話 アリバイ
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西條敦子は、三日後に稽古に復帰した。
犯行時刻のアリバイが立証され、無罪放免となったのだ。
「まいったわよ、まったく。とんだ災難」
劇団内の食堂でハンバーグ定食を食べながら、彼女は溜息まじりに言った。
私たちは、琴美と鮫島を交えた四人でテラスのテーブル席に座っている。
「警察の連中、私のアリバイがあまりに完璧で用意周到すぎるって言って、なかなか信用しようとしなかったの。裏があるんじゃないかと疑って、ねちねち、ねちねち」
検死の結果、片桐あずさの死亡時刻は午後九時半から十一時の間と推定されている。
その間、敦子は劇場近くのバーで一人で飲んでいたという。従業員を始め多くの客が敦子のことを明確に覚えていた。普通、一見の客を従業員はともかく、他の客たちまでが記憶していることはまずありえない。敦子は劇団の看板女優とはいえ、マスコミの露出がほとんどなく一般的な知名度は低い。暗いバーの中でそれと気付く者はほぼ皆無に近いだろう。
にもかかわず多数の目撃者が現れたのは、ちょっとした事件があったからだ。
入店して三十分ほど経過した時、敦子の元へ料理を運んだウェイターが、誤って彼女のスカートに中身をぶちまけてしまったのだ。敦子が騒ぎ出し、店長まで現れて謝罪する事態となった。
敦子は事情聴取の際に真っ先にそのことを話し、警察は従業員や当日の客から聞き取りをして事実が裏づけられた。
しかし、一つだけ食い違う点があった。
料理を運んだ従業員によると、皿をひっくり返したのは彼ではなく、敦子の方だという。テーブルに置こうとしたのを敦子が無理やり受け取ろうとして、落としてしまった。しかし敦子に騒がれ、大事にしないため店側が謝罪したのだという。
「それを警察は、私のアリバイ工作と見たわけよ。自分の存在を派手に印象づけておいて、一時間半の間にこっそり店を抜け出してあずさを殺したのではないかと。それこそ一分ごとのアリバイをこまかく聞いてくるわけ。従業員の証言を持ち出して、席を離れた時が何度かあったでしょうって。当たり前じゃない、トイレくらい行くわよ」
「大変でしたね」
鮫島が同情するように言った。
「大変なんてもんじゃないわよ」
「でも良かったじゃないですか。こうして疑いが晴れて」
「当たり前よ。やっていないんだもの」
同じく取り調べを受けた身として、敦子の心境が手に取るようにわかった。
「私の時も大変でした。ねちねち、ねちねち」
「でしょう。何時間も責め立てられていると、頭がボーっとなって、ひょっとしたら自分がやってしまったのかもって気にすらなってくる」
「ほんとに」
「よく無実の人が厳しい取調べに閉口して、やってもいないのに自白してしまうって話を聞くじゃない。分かる気がしたわね」
敦子が無実の罪に問われなくて、内心ほっとしていた。
「今回は、琴美にも助けられたわね」
と、敦子は琴美の方を見た。
「なに?」
私も琴美を見る。
「実は私、十時半ごろに十五分ほど席を外してるの。トイレに入って汚れを落とそうとしたんだけど、油やらケチャップやらがこびりついてて、どうにも取れない。だから店の外へ出て若手の子たちに片っ端から電話をかけたわけ。まだ劇場にいるなら、衣装部屋からスカートかパンツを持ってきてって。とりあえずそれに着替えて急場をしのごうとしたのよ。夜だしお店も開いてないでしょ。ほとんどみんな帰ってたんだけど、琴美だけがたまたま残ってたの。で、持ってきてもらったってわけ」
「あなた、そんな時間まで劇場にいたの?」
意外な気がして訊ねた。十時半といえば、私はすでに劇場を出ている。電車を乗り換えて玉川学園に向かっていた頃だ。
「ええ。百合亜さんには先に帰れって言われましたけど、心配で残っていたんです」
「どこにいたの?」
「ロビーです。そしたら滝沢先生が通りかかられて、部屋に呼ばれて、少し話し込んでいたんです……」
「そうなんだ」
「でも琴美の証言のおかげで、私のアリバイは鉄壁になったのよ。空白の十五分については、そりゃあしつこく訊かれたんだから。なんで店内から電話しなかったんだって。店内から電話したら他のお客の迷惑になるじゃない。ねえ」
「お役に立てて光栄です」
琴美はにっこり微笑んだ。
すると鮫島が怪訝そうに腕組みをする。
「でも、百合亜と敦子さんが容疑者から外れたとなると、ますます犯人像が見えなくなってきましたね」
敦子の眉間に深い縦皺が寄った。
「どういう意味よ」
険のある声だった。
「私たちのどちらかが犯人じゃなきゃ、おかしいって言いたいの」
「あ、いえ……そういう意味じゃなくて」
鮫島は自分の失言に気付いたのか、慌てて修正をはかる。
「お二人が無実なのはもちろんです。当然ですよ。それを疑っているんじゃなくて、真犯人は一体なぜ、あずさを殺したのだろうかと。その動機は何だろうかと」
「そんなこと、私が知るわけないじゃない」
「はい、そうですね。すいません」
鮫島は低頭して首の後ろをさすった。さすがの彼も、敦子の前ではひよっ子同然だ。
「でも警察は、絶対に劇団内に犯人がいると踏んでいるわ。何としても挙げるつもりよ。マスコミが注目しているし、検挙できなければそれこそ県警の沽券にかかわるからね。奴ら必死よ」
私たち三人は黙って頷いた。
「まあ、誰が犯人でもいいけど、公演が中止になる事態だけは絶対に避けたいわね」
敦子はそう言って、切り分けたハンバーグを口に運んだ。
だが二日後――、
敦子が危惧した最悪の事態が、現実味を帯びることになる。
犯行時刻のアリバイが立証され、無罪放免となったのだ。
「まいったわよ、まったく。とんだ災難」
劇団内の食堂でハンバーグ定食を食べながら、彼女は溜息まじりに言った。
私たちは、琴美と鮫島を交えた四人でテラスのテーブル席に座っている。
「警察の連中、私のアリバイがあまりに完璧で用意周到すぎるって言って、なかなか信用しようとしなかったの。裏があるんじゃないかと疑って、ねちねち、ねちねち」
検死の結果、片桐あずさの死亡時刻は午後九時半から十一時の間と推定されている。
その間、敦子は劇場近くのバーで一人で飲んでいたという。従業員を始め多くの客が敦子のことを明確に覚えていた。普通、一見の客を従業員はともかく、他の客たちまでが記憶していることはまずありえない。敦子は劇団の看板女優とはいえ、マスコミの露出がほとんどなく一般的な知名度は低い。暗いバーの中でそれと気付く者はほぼ皆無に近いだろう。
にもかかわず多数の目撃者が現れたのは、ちょっとした事件があったからだ。
入店して三十分ほど経過した時、敦子の元へ料理を運んだウェイターが、誤って彼女のスカートに中身をぶちまけてしまったのだ。敦子が騒ぎ出し、店長まで現れて謝罪する事態となった。
敦子は事情聴取の際に真っ先にそのことを話し、警察は従業員や当日の客から聞き取りをして事実が裏づけられた。
しかし、一つだけ食い違う点があった。
料理を運んだ従業員によると、皿をひっくり返したのは彼ではなく、敦子の方だという。テーブルに置こうとしたのを敦子が無理やり受け取ろうとして、落としてしまった。しかし敦子に騒がれ、大事にしないため店側が謝罪したのだという。
「それを警察は、私のアリバイ工作と見たわけよ。自分の存在を派手に印象づけておいて、一時間半の間にこっそり店を抜け出してあずさを殺したのではないかと。それこそ一分ごとのアリバイをこまかく聞いてくるわけ。従業員の証言を持ち出して、席を離れた時が何度かあったでしょうって。当たり前じゃない、トイレくらい行くわよ」
「大変でしたね」
鮫島が同情するように言った。
「大変なんてもんじゃないわよ」
「でも良かったじゃないですか。こうして疑いが晴れて」
「当たり前よ。やっていないんだもの」
同じく取り調べを受けた身として、敦子の心境が手に取るようにわかった。
「私の時も大変でした。ねちねち、ねちねち」
「でしょう。何時間も責め立てられていると、頭がボーっとなって、ひょっとしたら自分がやってしまったのかもって気にすらなってくる」
「ほんとに」
「よく無実の人が厳しい取調べに閉口して、やってもいないのに自白してしまうって話を聞くじゃない。分かる気がしたわね」
敦子が無実の罪に問われなくて、内心ほっとしていた。
「今回は、琴美にも助けられたわね」
と、敦子は琴美の方を見た。
「なに?」
私も琴美を見る。
「実は私、十時半ごろに十五分ほど席を外してるの。トイレに入って汚れを落とそうとしたんだけど、油やらケチャップやらがこびりついてて、どうにも取れない。だから店の外へ出て若手の子たちに片っ端から電話をかけたわけ。まだ劇場にいるなら、衣装部屋からスカートかパンツを持ってきてって。とりあえずそれに着替えて急場をしのごうとしたのよ。夜だしお店も開いてないでしょ。ほとんどみんな帰ってたんだけど、琴美だけがたまたま残ってたの。で、持ってきてもらったってわけ」
「あなた、そんな時間まで劇場にいたの?」
意外な気がして訊ねた。十時半といえば、私はすでに劇場を出ている。電車を乗り換えて玉川学園に向かっていた頃だ。
「ええ。百合亜さんには先に帰れって言われましたけど、心配で残っていたんです」
「どこにいたの?」
「ロビーです。そしたら滝沢先生が通りかかられて、部屋に呼ばれて、少し話し込んでいたんです……」
「そうなんだ」
「でも琴美の証言のおかげで、私のアリバイは鉄壁になったのよ。空白の十五分については、そりゃあしつこく訊かれたんだから。なんで店内から電話しなかったんだって。店内から電話したら他のお客の迷惑になるじゃない。ねえ」
「お役に立てて光栄です」
琴美はにっこり微笑んだ。
すると鮫島が怪訝そうに腕組みをする。
「でも、百合亜と敦子さんが容疑者から外れたとなると、ますます犯人像が見えなくなってきましたね」
敦子の眉間に深い縦皺が寄った。
「どういう意味よ」
険のある声だった。
「私たちのどちらかが犯人じゃなきゃ、おかしいって言いたいの」
「あ、いえ……そういう意味じゃなくて」
鮫島は自分の失言に気付いたのか、慌てて修正をはかる。
「お二人が無実なのはもちろんです。当然ですよ。それを疑っているんじゃなくて、真犯人は一体なぜ、あずさを殺したのだろうかと。その動機は何だろうかと」
「そんなこと、私が知るわけないじゃない」
「はい、そうですね。すいません」
鮫島は低頭して首の後ろをさすった。さすがの彼も、敦子の前ではひよっ子同然だ。
「でも警察は、絶対に劇団内に犯人がいると踏んでいるわ。何としても挙げるつもりよ。マスコミが注目しているし、検挙できなければそれこそ県警の沽券にかかわるからね。奴ら必死よ」
私たち三人は黙って頷いた。
「まあ、誰が犯人でもいいけど、公演が中止になる事態だけは絶対に避けたいわね」
敦子はそう言って、切り分けたハンバーグを口に運んだ。
だが二日後――、
敦子が危惧した最悪の事態が、現実味を帯びることになる。
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