35 / 55
第二章 殺人
十三話 もう一人の容疑者
しおりを挟む「どうしたんですか?」
翌日の稽古終了後、琴美が心配そうに話しかけてきた。
「様子が変ですよ。稽古中も心ここにあらずって感じで。何かあったんですか?」
さすがに鋭い。朝から空元気を出して無理やり陽気に振舞っていたが、琴美にはお見通しだったらしい。
「お芝居、おかしかった?」
「いえ、演技は大丈夫でしたけど、合間合間にぞっとするほど暗い目をされていて、いつもの百合亜さんとは明らかに違うなと思って」
「疲れてるのよ。連日、取り調べがあったでしょう」
「分かります」
「まだ警察は私への疑いを解いていないようだし」
そう釈明したが、憂鬱の真の原因はもちろん別のところにあった。
昨夜、車内でのセックスが終わった後、貝原は穏やかな表情に戻り、「行きましょう」と車を発進させた。
「誤解しないでください。本来の私は優しい男です。百合亜さんが逆らいさえしなければ、愛情と尊敬を持って接します。約束します。あなたは私の女神なのですから」
私は窓の外に視線を向けたまま、ぼんやり彼の言葉を聞いていた。早く帰ってシャワーを浴びたかった。貝原が私の身体に残した汚れを洗い落としたかった。
しかし車は駅へ向かうことなく、近くのラブホテルの駐車場へと入っていく。
――嘘でしょ。
信じられない思いだった。すでに充分すぎる屈辱を味わった身としては、これ以上の責め苦は心身ともに堪えられないと恐怖した。
それから四時間にわたって、私はさらなる陵辱を受け続けた。
彼のセックスは、その性格と同じように執拗で果てしがなく、いつまでも終わりが見えない。
「二十代の頃は、一晩に十回はできたんだよ」
腰を激しく振りながら、全身を汗でぬるつかせて自慢気に言った。黄ばんだ歯の間から、にんにくと煙草を混ぜ合わせたような臭気が漏れ出てくる。
私は叫び出したい気持ちを押さえつけて耐えた。耐えながら、こんなことが今後もずっと続くのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
私はこれまで、ラブホテルというものに入ったことすらない。セックスのみを目的とする施設に抵抗感があったのだ。お嬢様とは言わないが、それなりの家庭で育った私は、付き合う相手もそれなりの人ばかりだった。名の通ったシティホテルか相手の部屋以外で愛を交歓したことはない。もしラブホテルに誘われるようなことがあれば、そんな相手とは即座に別れていただろう。
男女の性愛に関し、自分の中で明確なルールと規律が存在していた。
その私が……一体、何というザマだ。
これでは、まるで売春婦ではないか。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
琴美が笑顔で言った。
「え」
ふいに現実に引き戻される。
「警察はもう百合亜さんを疑っていません。別の人間に容疑を切り替えたんです」
「どういうこと?」
意味を測りかねて訊いた。
琴美は周囲を用心深く見回した後、
「出ましょう」
と耳元で囁いた。
「ま、明日になればみんなに知れ渡るでしょうから、隠すこともないんですけど」
館内を出たところで彼女は誰もいないことを確かめてから口を開く。
「今日、西條敦子さんお休みだったでしょう」
「ええ、そういえば……」
確かに稽古を欠席し、朝のダンスレッスンの時も姿を見かけなかった。滝沢が何も言わなかったので、風邪でも引いて休んだのだろうと思っていたのだが、
「横浜西署に呼ばれて任意の事情聴取を受けているんです。百合亜さんと同じですよ」
「まあ」
「制作部はみんな知ってますけど、俳優ではまだ幹部数人しかこの事実を知りません。私は昨日連絡があった時、たまたま滝沢先生と一緒にいて知ったのです――。どうやら警察は敦子さんがホンボシと睨んでいるようですね」
「そうなの?」
意外な展開に驚きを禁じ得なかった。しかし冷静に考えてみれば、警察が敦子を疑うのは至極当然のことと言えた。殺人の動機として、男女関係のもつれは昔から最もポピュラーなものの一つだ。
「劇団員たちからの聞き取り調査で、敦子さんがあずさを憎んでいたことを掴んだようです。敦子さんは露骨な嫌がらせを繰り返していましたからね。夜中に無言電話を何度もかけたり、悪質メールを大量に送りつけたり。劇団内でも突っかかるように喧嘩をしかけていたし――。あずさは深刻に悩んで、何人もの同期の子たちに相談していたんです。警察はあずさのスマホから、脅迫的なメールをいくつも発見したようです」
「……そう」
「あずさの部屋からは盗聴器も発見されたようですよ」
「盗聴器?」
「ええ」
「敦子さんが仕掛けたっていうの?」
「警察はそう見ているようです。滝沢先生は敦子さんへの事情聴取をなんとか回避しようと警察と交渉したんですけど、それなら正式に逮捕状をとって取り調べると脅されて、しぶしぶ……」
「そうだったの」
チクリと胸の奥に痛みが走った。このまま敦子が逮捕されて罪に問われるような事態になれば、自分は無実の人間を牢獄に送り込むことになる。
「でも、百合亜さんの疑いが解けてよかったです」
琴美がこぼれるような笑みを見せた。
「今日、うちにいらっしゃいませんか。無罪放免のお祝いに、手料理をご馳走します」
「ありがとう。喜んで伺うわ」
内心の杞憂をおくびにも出さず、二つ返事で彼女の好意に甘えることにした。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
月夜のさや
蓮恭
ミステリー
いじめられっ子で喘息持ちの妹の療養の為、父の実家がある田舎へと引っ越した主人公「天野桐人(あまのきりと)」。
夏休み前に引っ越してきた桐人は、ある夜父親と喧嘩をして家出をする。向かう先は近くにある祖母の家。
近道をしようと林の中を通った際に転んでしまった桐人を助けてくれたのは、髪の長い綺麗な顔をした女の子だった。
夏休み中、何度もその女の子に会う為に夜になると林を見張る桐人は、一度だけ女の子と話す機会が持てたのだった。話してみればお互いが孤独な子どもなのだと分かり、親近感を持った桐人は女の子に名前を尋ねた。
彼女の名前は「さや」。
夏休み明けに早速転校生として村の学校で紹介された桐人。さやをクラスで見つけて話しかけるが、桐人に対してまるで初対面のように接する。
さやには『さや』と『紗陽』二つの人格があるのだと気づく桐人。日によって性格も、桐人に対する態度も全く変わるのだった。
その後に起こる事件と、村のおかしな神事……。
さやと紗陽、二人の秘密とは……?
※ こちらは【イヤミス】ジャンルの要素があります。どんでん返し好きな方へ。
「小説家になろう」にも掲載中。
双子協奏曲
渋川宙
ミステリー
物理学者の友部龍翔と天文学者の若宮天翔。二人は双子なのだが、つい最近までその事実を知らなかった。
そんな微妙な距離感の双子兄弟の周囲で問題発生!
しかも弟の天翔は事件に巻き込まれ――
退屈な日常に潜む謎
葉羽
ミステリー
神藤葉羽の鋭い観察眼が捉えた、学園祭準備委員会の不可解な動き。彼の推理力が冴え渡る中、望月彩由美との何気ない会話が思わぬ展開を見せる。葉羽の退屈な日常に、突如として訪れる予期せぬ事態。学園祭の資金が消失し、会計係の山田が失踪。葉羽の推理本能が目覚める瞬間だ。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
深淵の迷宮
葉羽
ミステリー
東京の豪邸に住む高校2年生の神藤葉羽は、天才的な頭脳を持ちながらも、推理小説の世界に没頭する日々を送っていた。彼の心の中には、幼馴染であり、恋愛漫画の大ファンである望月彩由美への淡い想いが秘められている。しかし、ある日、葉羽は謎のメッセージを受け取る。メッセージには、彼が憧れる推理小説のような事件が待ち受けていることが示唆されていた。
葉羽と彩由美は、廃墟と化した名家を訪れることに決めるが、そこには人間の心理を巧みに操る恐怖が潜んでいた。次々と襲いかかる心理的トラップ、そして、二人の間に生まれる不穏な空気。果たして彼らは真実に辿り着くことができるのか?葉羽は、自らの推理力を駆使しながら、恐怖の迷宮から脱出することを試みる。
審判【完結済】
桜坂詠恋
ミステリー
「神よ。何故あなたは私を怪物になさったのか──」
捜査一課の刑事・西島は、5年前、誤認逮捕による悲劇で全てを失った。
罪悪感と孤独に苛まれながらも、ひっそりと刑事として生きる西島。
そんな西島を、更なる闇に引きずり込むかのように、凄惨な連続殺人事件が立ちはだかる。
過去の失敗に囚われながらも立ち向かう西島。
彼を待ち受ける衝撃の真実とは──。
渦巻く絶望と再生、そして狂気のサスペンス!
物語のラストに、あなたはきっと愕然とする──。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
この目の前にあるぺちゃんこになった死体はどこからやってきた?
原口源太郎
ミステリー
しこたま酒を飲んだ帰り道、僕たちの目の前に何かが落ちてきた。それはぺちゃんこになった人間だった。僕たちは空を見上げた。この人はどこから落ちてきたんだ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる