歌姫の罪と罰

琉莉派

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第二章 殺人

十三話  もう一人の容疑者

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「どうしたんですか?」

 翌日の稽古終了後、琴美が心配そうに話しかけてきた。

「様子が変ですよ。稽古中も心ここにあらずって感じで。何かあったんですか?」

 さすがに鋭い。朝から空元気からげんきを出して無理やり陽気に振舞っていたが、琴美にはお見通しだったらしい。

「お芝居、おかしかった?」
「いえ、演技は大丈夫でしたけど、合間合間にぞっとするほど暗い目をされていて、いつもの百合亜さんとは明らかに違うなと思って」
「疲れてるのよ。連日、取り調べがあったでしょう」
「分かります」
「まだ警察は私への疑いを解いていないようだし」

 そう釈明したが、憂鬱の真の原因はもちろん別のところにあった。
 昨夜、車内でのセックスが終わった後、貝原は穏やかな表情に戻り、「行きましょう」と車を発進させた。

「誤解しないでください。本来の私は優しい男です。百合亜さんが逆らいさえしなければ、愛情と尊敬を持って接します。約束します。あなたは私の女神ミューズなのですから」

 私は窓の外に視線を向けたまま、ぼんやり彼の言葉を聞いていた。早く帰ってシャワーを浴びたかった。貝原が私の身体に残した汚れを洗い落としたかった。

 しかし車は駅へ向かうことなく、近くのラブホテルの駐車場へと入っていく。

 ――嘘でしょ。

 信じられない思いだった。すでに充分すぎる屈辱を味わった身としては、これ以上の責め苦は心身ともに堪えられないと恐怖した。

 それから四時間にわたって、私はさらなる陵辱を受け続けた。
 彼のセックスは、その性格と同じように執拗で果てしがなく、いつまでも終わりが見えない。

「二十代の頃は、一晩に十回はできたんだよ」

 腰を激しく振りながら、全身を汗でぬるつかせて自慢気に言った。黄ばんだ歯の間から、にんにくと煙草を混ぜ合わせたような臭気が漏れ出てくる。

 私は叫び出したい気持ちを押さえつけて耐えた。耐えながら、こんなことが今後もずっと続くのかと思うと暗澹たる気持ちになった。

 私はこれまで、ラブホテルというものに入ったことすらない。セックスのみを目的とする施設に抵抗感があったのだ。お嬢様とは言わないが、それなりの家庭で育った私は、付き合う相手もそれなりの人ばかりだった。名の通ったシティホテルか相手の部屋以外で愛を交歓したことはない。もしラブホテルに誘われるようなことがあれば、そんな相手とは即座に別れていただろう。

 男女の性愛に関し、自分の中で明確なルールと規律が存在していた。

 その私が……一体、何というザマだ。
 これでは、まるで売春婦ではないか。

「心配しなくても大丈夫ですよ」

 琴美が笑顔で言った。

「え」

 ふいに現実に引き戻される。

「警察はもう百合亜さんを疑っていません。別の人間に容疑を切り替えたんです」
「どういうこと?」

 意味を測りかねて訊いた。
 琴美は周囲を用心深く見回した後、

「出ましょう」

 と耳元で囁いた。

「ま、明日になればみんなに知れ渡るでしょうから、隠すこともないんですけど」

 館内を出たところで彼女は誰もいないことを確かめてから口を開く。

「今日、西條敦子さんお休みだったでしょう」
「ええ、そういえば……」

 確かに稽古を欠席し、朝のダンスレッスンの時も姿を見かけなかった。滝沢が何も言わなかったので、風邪でも引いて休んだのだろうと思っていたのだが、

「横浜西署に呼ばれて任意の事情聴取を受けているんです。百合亜さんと同じですよ」
「まあ」
「制作部はみんな知ってますけど、俳優ではまだ幹部数人しかこの事実を知りません。私は昨日連絡があった時、たまたま滝沢先生と一緒にいて知ったのです――。どうやら警察は敦子さんがホンボシと睨んでいるようですね」
「そうなの?」

 意外な展開に驚きを禁じ得なかった。しかし冷静に考えてみれば、警察が敦子を疑うのは至極当然のことと言えた。殺人の動機として、男女関係のもつれは昔から最もポピュラーなものの一つだ。

「劇団員たちからの聞き取り調査で、敦子さんがあずさを憎んでいたことを掴んだようです。敦子さんは露骨な嫌がらせを繰り返していましたからね。夜中に無言電話を何度もかけたり、悪質メールを大量に送りつけたり。劇団内でも突っかかるように喧嘩をしかけていたし――。あずさは深刻に悩んで、何人もの同期の子たちに相談していたんです。警察はあずさのスマホから、脅迫的なメールをいくつも発見したようです」

「……そう」
「あずさの部屋からは盗聴器も発見されたようですよ」
「盗聴器?」
「ええ」
「敦子さんが仕掛けたっていうの?」
「警察はそう見ているようです。滝沢先生は敦子さんへの事情聴取をなんとか回避しようと警察と交渉したんですけど、それなら正式に逮捕状をとって取り調べると脅されて、しぶしぶ……」
「そうだったの」

 チクリと胸の奥に痛みが走った。このまま敦子が逮捕されて罪に問われるような事態になれば、自分は無実の人間を牢獄に送り込むことになる。

「でも、百合亜さんの疑いが解けてよかったです」

 琴美がこぼれるような笑みを見せた。

「今日、うちにいらっしゃいませんか。無罪放免のお祝いに、手料理をご馳走します」
「ありがとう。喜んで伺うわ」

 内心の杞憂をおくびにも出さず、二つ返事で彼女の好意に甘えることにした。

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