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第二章 殺人

第九話 脅し

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 二十分後、ユリイカにつくと、貝原の姿はまだなかった。
 昭和を想起させるレトロな店内で、客はほとんどいない。私は奥まった四人掛けテーブル席に座り、ミルクティーを注文した。

 電話を切った直後から、ずっと心臓が早鐘を打っている。なぜ貝原が象の置物のことを知っているのだろうか。彼はあの場にはいなかったはずだ。

 それとも私が忘れているだけで、あの時貝原と何らかのコンタクトがあったのだろうか。覚えているのは、あずさの楽屋を出て曲がりくねった廊下を進み、一階に上がろうと階段を上りかけたときに彼とぶつかったことだけだ。

 運ばれてきたミルクティーを一口飲んだところで、喫茶店の玄関ドアに取り付けられたドアベルがチャラチャラと音を立てた。
 貝原が軽快な足取りで入ってくる。顔が心なしかにやけている。
 向かいの席に座り込むなり、彼は小声で言った。

「やはり、尾行されていましたよ」
「え」
「二人組です。今も外からこちらを窺っています。おそらく刑事でしょう」

 私が窓の外に視線を向けようとすると、「見ないで!」と貝原は叱責した。

「コーヒー」

 彼は手を挙げてウェイターに注文した。

「まあ、気にせず普通にしていましょう」
「でも……私たちがこうして会っているところを見られるのは、まずいんじゃないですか」
「どうしてです?」
「どうしてって……」
「同じミュージカル作品にかかわる者同士が喫茶店でお茶を飲むくらい、どうってことないでしょう」
「でも、貝原さんの自宅は劇団の近くでしょう。だいぶ離れてるわ」
「そうですね」

 貝原はふと考える仕草をした後、

「では、もし明日の取り調べで訊かれたら、こう答えてください。『私たちは、お付き合いしているんです』って」
「そんな……」
「それが一番自然でしょう」

 貝原はこちらの反応を探るように見て、悪戯っぽく笑った。なんだかこの状況を楽しんでいるように見える。

「さてと、そろそろ本題に入りましょうか」

 運ばれてきたコーヒーを美味しそうにすすり、背もたれにふんぞり返って体重を預けると、おもむろに切り出した。

「もちろん、例の象の置物の件です」
「ちょっと待ってください」

 私は即座に言った。

「電話でも仰っていましたが、私には一体何のことだか……」
「とぼけるのはやめましょう。時間の無駄です」
「本当に意味が分からないんです」
「分からないはずないでしょう。昨夜、あなたがあずさの頭部を殴打した際に使用した凶器ですよ」
「……」

 思わず言葉に詰まった。やはり貝原は全てを知っているのだ。でも、なぜ?

「あの時、百合亜さんと階段の下ですれ違ったじゃないですか。ご自分では気付いていなかったかもしれませんが、あなたの様子は尋常じゃありませんでしたよ。顔面は蒼白というより紫色に近く、視線は宙をさまよい、手先もぶるぶる震えていた。オーディションに落ちただけで、あそこまで人相が変わるとは思えない」

 私は黙って彼の言葉に耳を傾けた。

「その後、片桐あずさの楽屋前を通りかかると、中から明かりが漏れていたので、合格のお祝いを言おうと思ってドアをノックしたんです。ところが返事がない。開けてみると、彼女が床に倒れ、すぐそばに象の置物が落ちていました。私はすぐに、百合亜さんの犯行だと気づきました」
「誤解です。私はやっていません。あずささんの楽屋にも入っていない」
「この期に及んで嘘はやめましょう。象の置物に付着した指紋を調べれば、はっきりすることです」
「……え?」

 私は息を呑んだ。

「あの置物は、私が大切に保管しています」
「保管……って」
「百合亜さんの犯行だと直感した私は、室内のドアノブなどの指紋を拭き取り、象の置物を持ち去ったんです。すべてあなたのためにやったことですよ」

 私は呆然と貝原を見た。

「安心してください。証拠は全て隠滅しました。私が黙っている限り、あなたが捕まる心配はない」

 彼はにやりとほくそ笑んで黄ばんだ前歯をむき出しにした。

「逆にいうと、私が警察に届け出れば、あなたは犯人として逮捕されるということです。ミュージカルに出演することも、オペラ界に復帰することも今後一切叶わない。完全に破滅だ」
「脅してるつもり?」

 私は不快な気持ちになった。

「とんでもない。私はもっともっと百合亜さんとお近づきになりたいだけです。私の気持ちはお分かりでしょう。これを機に、さらに親密な関係に発展させていただければと思っています」

 貝塚は立ち上がって私の隣に座り込むと、右手で私の太腿をいやらしく撫でつけた。

「なんて人なの。恥を知りなさい」

 その手を払いのける。

「そんなことを言っていいんですか。私が象の置物を警察に持ち込めば、あなたの人生はその瞬間終わるんですよ」
「そんなことにはならないわ」

 毅然と言い返した。

「私はやってないのよ。確かに彼女の頭は殴ったけど、ナイフは使用していない。彼女を殺したのは私じゃないの」

 そうだ。自分は無実なのだ。貝原の話によってそれが逆に証明されたことになる。

「警察がそんなことを信じると思いますか。彼らは、頭部を殴打したのも果物ナイフで刺したのも同一犯と見ている。新聞やニュースでもそう言っているじゃないですか」
「でも実際は違うのよ」

 貝原はあざけるように、ふん、と鼻を鳴らすと、目を鋭く光らせ、次の瞬間、態度を豹変させた。

「実際がどうだろうと、俺が置物を届け出ればあんたが犯人だと警察は思うさ!」

 周囲に聞かれないように押し殺してはいるが、ドスの利いた荒々しい声だった。

「嘘だと思うなら、今から外へ出て、尾行している刑事たちに俺の知っていることを全て話そうか」
「……」
「愛する百合亜を守るために証拠を隠滅したけど、罪の意識に耐えきれなくなりましたと言って、指紋のついた象の置物を持って名乗り出る。刑事たちは果たしてどう思うかな。マスコミはこの事件をどう報じるかな」

 私はとっさに想像してみた。

「話してもいいのか?」
「……」
「いいんだな?」

 貝原はついに立ち上がった。

「待って」

 私は彼の袖口を掴んでいた。

「分かったわ。分かったから座って」

 悔しいけれど、現時点では全面降伏するしかない。
 貝原は口元を曲げてにたりと笑うと、再び椅子に腰を沈めた。

「分かればいいんだ」

 と私の左手を握ってきた。

「一つだけ教えてほしいんだけど」

 やんわりと振りほどき、彼の目を見据えた。警察であずさの真の死因を聞かされた時からずっと引っかかっている疑問だ。

「ひょっとして、片桐あずさを殺したのは、あなたなんじゃない?」

 時系列で捉えれば、そう考えるのがもっともしっくりくる。楽屋で気絶しているあずさを発見し、何らかのいきさつから、その場でナイフを用いて息の根を止めたのだ。ドアの把手の指紋を拭き取ったのも、私を救うためというよりも、自らの犯行を隠蔽する意図があったのではないか。

 貝原は一瞬、動揺したように片眉をぴくつかせるが、

「さあ、どうかな」

 と、肩をすくめてとぼけるように言った。

「あなた以外に考えられないわ」

 私はカマをかけてみた。

「だったら、どうだってんだ?」
「認めるのね」
「認めてもいいぜ」
「なんて男なの」
「すべては百合亜のためじゃないか。百合亜をミミ役にするためにやったことだ」
「誰もそんなこと頼んでないわ」
「いいか」

 貝原はぐいと身体を密着させてきた。

「あずさは俺とお前の二人で殺したんだ。お前が頭を殴って気絶させ、おれがとどめを刺す。見事な連携プレイさ。これで徳大寺百合亜のミミが晴れて誕生する。俺たちは共犯だ。運命共同体なんだ。もう俺からは逃れられないぜ。俺を裏切った時は地獄へ道連れにしてやるからな。よく覚えとけ」

 鋭利な眼光でギロリと睨むと、コーヒーを一気に飲み干した。


 
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