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第二章 殺人
第六話 逃げ出したい
しおりを挟む――百合亜、起きなさい。百合亜。
耳元で懐かしい声が聞こえる。
――いつまで寝てるの。遅れるわよ。
学生時代、いつもこうして母に起こされていた。低血圧に加え、毎日夜遅くまで続くレッスンの疲れもあって、朝はめっぽう弱かった。それは今も変わっていない。
――百合亜。
カーテンが開く音がする。
窓から差し込む強い陽射しに、閉じていた目を一瞬見開くが、あまりの眩しさに顔をしかめて寝返りを打った。
「劇団に行くんでしょ」
「劇団?」
再びうっすらと細い目を開く。窓外の太陽はすでに高い位置にのぼっている。私は目をこすりながら母を見た。
昨夜のことが蘇ってくる。
あの後、都内の自宅アパートに帰ろうとしたが、途中で思い直し、電車を乗り換えて実家へ向かったのだ。一人で不安な夜を過ごすことに耐えられなかった。
母は蒼白な顔で帰宅した娘を見て、「どうしたの」と心配そうに訊いてきた。
「最終オーディションに落ちたの。歌の下手くそなミュージカル女優に負けた」
そう言って泣いた。母の前で泣くのは何年ぶりのことだろう。
「ミュージカルの連中に、百合亜の価値は分からないのさ」
母は私を抱きしめ慰めてくれた。
「またオペラの世界へ戻ればいい。お前の居場所はあそこしかないんだよ」
母の優しさが、心に沁みた。昔から確執の絶えなかった二人だが、裏を返せばそれだけ分かちがたい密着した関係にあったのだ。
周囲からは一卵性母娘とよく言われ、昔はそれに反発を覚えたものだが、今となっては素直に認めざるをえない。好むと好まざるとに関わらず、私は母の人生を背負って生きてきたのだ。
久しぶりにかつての自室で一夜を過ごした私は、父や母に守られて暮らしていた時代の懐かしい匂いやぬくもりを五感に蘇らせた。
スマホの電源をオフにし、テレビもパソコンも一切見なかった。
そうして一夜が明ければ、全てはなかったことになるような気がしていた。
「顔を洗って、はやく着替えなさい」
母は私の毛布を剥ぎ取ると、昨夜とは一転した尖り声を発した。
「いいのよ」とけだるく答える。
「いいことないだろ」
「だってオーディションに落ちたのよ。お母さんだって昨日、オペラの世界へ戻れって言ったじゃない」
「状況が変わったんだよ」
「え?」
母の顔は蒼ざめている。
「ミミ役の片桐あずさが殺されたのよ」
「なんですって」
驚きが口を衝いて出た。我ながら自然な声だった。
「本当なの?」
「今、ニュースでやってる」
母はテレビの電源を入れた。しかしニュースはすでに別の話題に切り替わっていた。
「お前……本当に知らなかったんだね」
その声が微妙に震えているのが分かる。
「知るわけないじゃない」
私はとぼけて答えた。
「テレビもパソコンも見てないのよ。スマホもずっと電源切ってたし」
「そう……」
母は安堵するように息を吐くと、「とにかく、急いで劇団へ行くんだよ」と急かすように言った。
「どうしてよ」
「どうしてって……今休んだりしたら、怪しまれるだろ」
「怪しまれる?」
私は眉根を寄せて母を見た。
「どういう意味?」
「どういうって……」
母の視線が泳いでいる。
「私が片桐あずさを殺して、行方をくらませたと思われるってこと?」
「そう受け取る人もいるかもしれないよ」
「冗談じゃないわ。私は不正なオーディションによって落とされたから、二度と劇団には戻りたくないの」
「分かってるよ。でも他人がどう思うか考えてごらん。すぐ電話して、急いで劇団へ行きなさい。あずさが死んだことは今朝聞いてびっくりしたって、ちゃんと言うんだよ」
母は私の犯行を心のどこかで疑っているのかもしれない。そうでなければ大嫌いなミュージカルの世界に戻れなどと言うはずがない。六年前の前科があるから、当然といえば当然だろう。
「分かったわ」
私は素直に頷いた。
急いで着替えてノーメイクのまま家を出る。
玉川学園駅へ向かう急坂を下りながらスマホの電源を入れると、琴美から二十件近いラインや留守電が入っていた。劇団の制作部からのメールも数件ある。あとは見知らぬ電話番号が三件入っていた。
「何してたんですか、百合亜さん」
電話をかけると、すぐに琴美の叱りつけるような鋭い声が聞こえてきた。
「今、留守電を聞いたの。昨日からずっと電源を切っていて……」
「すぐ劇団に来てください。朝から警察が大勢来て、みんな事情聴取を受けているんです。百合亜さんだけ連絡がつかないって、大騒ぎだったんですよ」
あの見知らぬ電話番号は、どうやら警察のものらしい。
「今、そっちに向かってるところ」
「制作部に伝えておきます」
「状況はどんな感じ?」
「百合亜さんにとってはかなりまずいことになっています。とにかく一刻も早く来てください」
電話を切った後、胃の腑が締め付けられるような恐怖が襲ってきた。
やはり何もなかったことにはできないのだ。甘い幻想はもろくも打ち砕かれる。
冷静に考えれば当然だろう。あずさの楽屋に残してきた指紋や、昨夜から連絡を遮断して今日の昼過ぎまで行方をくらましたことで、警察は私に目星をつけているに違いない。そもそも片桐あずさを殺害して利益を得る人間は私以外にいないのだから。
のこのこ劇団へ出かけていって、俳優たちの前で逮捕される醜態を想像してみた。
まったくもって屈辱的だ。
いっそ、このままどこかへ逃走してしまおうか。駅の改札をくぐったところでふいにそんな考えが浮かんだ。刑務所に入れられ、歌う機会を奪われるくらいなら、死んだほうがましだ。
歌うことでしか、私は人生に意味を見出すことができない。
そういう人間に、仕立てられてしまったのだ、母の手によって――。
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