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第二章 殺人
第三話 観客の反応
しおりを挟む「百合亜さん」
開演前に舞台袖で待機していると、後ろから声をかけられた。振り返ると、水原琴美が立っている。
「頑張ってくだ……」
そこまで言うと彼女ははっと息を呑み、脅えたように「す、すみません」と頭を下げて逃げるように走り去っていった。
よほど恐ろしい顔で睨みつけていたのだろう。ミミになりきっていた私は、百合亜に引き戻されることを嫌い、彼女を目で威圧した。
開演を告げる2ベルが鳴って、舞台の幕が上がる。
軽快な音楽とともにロドルフォたちのシーンが始まると、私は舞台袖で静かに横たわった。いや、舞台袖ではない。そこはロドルフォたちの階下のミミの部屋だ。貧しいお針子の私は、食べるものもなく、体調を崩してベッドで横になっているのだ。
上階がなにやら騒がしい。男たちが集まって大声で話している。
私は起き上がり、縫い物をしようとするが、火種がない。真っ暗の中では仕事もできない。どうしよう。
やがて上階が静かになった。友人たちが去ったようだ。私はロウソクを手に、手探りで上階へと向かう。
突然、光のシャワーが私に降り注いだ。千を超える人々の視線が向けられる。
だがそんなことより、ロウソクの火がないことが問題だった。
ロドルフォの部屋のドアをノックする。
「すみません。下の階の者ですが」
「あ、ちょっと待ってください。今、開けますから」
ロドルフォが招き入れてくれた。私と同じく着ているものはボロだけれど、優しそうで感じのいい人だ。
「火を貸していただけませんか」
「お安い御用ですよ」
彼は火のついた自分のロウソクを取りに奥へ入っていく。
だがその時、私は空腹のためにめまいを覚えて床に倒れこんでしまった。
「大丈夫ですか」
彼は必死に介抱してくれ、私は再び意識を取り戻した。
「今朝から何も食べていなくって」
「パンがあります。音楽家の友人が持ってきてくれたんです」
私はパンをごちそうになり、それから彼と色んな話をした。
貧しい暮らしの中でも芸術や自然の美に慰めを見出し、清く気高く生きようとしている姿勢に共感を覚えた。
なぜだろう。この人に急速に心惹かれていく。
私は帰ろうとしてドアを開けるが、鍵を落としたことに気付き、振り返る。
その時、戸口から風が吹き込んできてロウソクの炎が消えてしまう。暗闇に包まれた室内で、二人の手が触れ合う。
彼が歌い、つられて私も歌った。
歌声が重なり合い、二人の気持ちが一つになる。
ああ、なんて心地がいいんだろう。
こんな風に他の誰かと心を通わせ、溶けあうことができるなんて今まで考えたこともなかった。
えもいわれぬ快感が全身を貫いて、気付くと私は恋に落ちていた。
私は舞台上で、激流のような人生を生き切った。
ロドルフォとの甘い生活。
貧しさゆえの突然の別れ。
愛してもいない貴族の男性に囲われる虚しい日々。
やがて結核が悪化し、貴族から捨てられる。
ついには道端に倒れ、死を待つだけの私は、混濁する意識の中でロドルフォを思った。貧しかったけれど、あの日々にこそ人生の全てがあったのだ。
最後の力を振り絞って彼のアパートを目指した。
「ミミ」
彼は友人たちとともに部屋にいた。
私の顔を見て驚いている。
友人たちがお金を出し合って薬を買いに出かけていく。
二人きりになった私とロドルフォは、楽しかった日々を語り合った。
彼が歌い、私が歌う。
ああ、あの時と同じだ。幸せな日々を思い出し目から涙がこぼれ落ちる。
やがて意識がゆっくりと遠のいていった。
幸せに包まれながら、私の精神は静かに「無」へと帰っていく。
舞台上ではまだ他の役者たちによる演技が続いている。
私は死体を演じながら、ミミから徳大寺百合亜へとゆっくり戻っていった。完璧にやり遂げたという満足感で胸が一杯だった。
周囲に気付かれないようにうっすらと片目を開け、観客席に視線をやる。彼らの反応をいち早く知りたかった。あずさの回を遥かに凌駕する反応を心密かに期待した。号泣率も半端ではないはずた。
前列の方で、何人かの頭が揺れるのが分かった。あずさの時には微動だにしなかった観客席に、わずかながら動きがある。足を組み替えたり、後方をちらっと見たり、隣の人の耳元に何やら囁きかけたりしている。
明らかに舞台に集中していない証拠だった。
――嘘でしょ。
私は狼狽した。目の前の反応がにわかには理解できなかった。
観客にとっては二度目の鑑賞となるため、当然筋は分かっており、注意力が散漫になるのは仕方がない。しかしそれを差し引いても、感動が極に達するクライマックスでのこの反応はどう考えたらいいのだろう。
あの毛むくじゃらの熊のような男性を目で探した。あずさの回に泣きじゃくっていた彼ならば、今回も色よい反応を示してくれるはず。
六列目の中央に彼はいた。その目は充血しているどころか、舞台を見てさえいなかった。手にしたスマホを覗き込んでいるのだ。
やがて彼の口が突然大きく開いていった。大あくびを発したのだ。
脳天をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
屈辱と怒りで全身がぶるぶると震え始めた。
最前列の観客には、死んだはずのミミが動いているのが見えたかもしれない。
何が悪かったのだ。私がどんなミスを犯したというのだ。あずさに比べ演技面で遜色があったとはとても思えない。歌に関しては圧倒的な差異を見せつけたではないか。本物の歌とは何かを観客に教えてやったのだ。それなのに、それなのに、なぜ――。
いくら考えても分からない。
目を閉じて死体役に集中しようとするが、瞼をこじ開けて涙が溢れ出る。
「どうした?」
舞台上で友人役の俳優たちと演技を続けている鮫島が、観客に気付かれないように、小声で問いかけてきた。死んだはずのミミの目から涙が滂沱と流れ落ちるのだから驚くのも無理はない。
私は沈黙で返した。
涙をこらえようと必死に歯を食いしばるが、あとからあとから放り出る。
芝居が終わった。
万雷の拍手の中、私たちは客席に向かって何度もおじぎをする。その間も涙は噴き出し続けた。
きっと観客には、ミミ役を演じきった充実の涙だと映ったことだろう。
幕が降りた瞬間、私は頭の中が真空になるのを覚えた。
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