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第二章 殺人
第二話 変身
しおりを挟む楽屋に入ってメイクを直し、衣装に着替えてから、一人鏡を見つめた。
不安そうに表情をこわばらせ、犬のようにおびえた目をした自分が写っている。
――何をびびっているの。不世出の天才リリコと謳われたこの私が、あんな駆け出し女優に負けるはずがないじゃない。私はミミを演じるために生まれてきたのよ。
「見ていなさい、片桐あずさ。本物のミミがどんなものかをあなたに教えてあげるわ」
私はついに封印を解く時が来たのだと思った。
六年前、待望のミミ役に抜擢された私は、母とともに事前練習を重ね、プッチーニが思い描いたであろう理想のミミ像を完璧に作り上げた。
それは、繊細なガラス細工のように純粋すぎる魂をもって生まれたがゆえに、理不尽な世の中に翻弄され朽ち果てていく一人の哀れなお針子の姿である。
ミミとは、すなわち母自身であり、私そのものでもある。
舞台稽古に入った時には、私は完全にミミになりきっていた。身も心もミミそのものだった。
だから演出家の指示がいちいち的外れに感じ、何も分かっていないと無性に腹が立った。彼はミミとロドルフォの出会いのシーンで、ミミが手にしたロウソクが風で消えるのを、自らの意志で吹き消すよう指示をした。
「冗談じゃないわ。ロウソクの炎を自分で吹き消せですって!」
「ミミは最初からロドルフォに好意があったんだ。だから彼と一緒にいたくて自ら暗闇を作り出した」
「馬鹿なことを言わないで。ミミはそんな女じゃないわ」
「誰に向かって口を利いているんだ。俺は演出家だぞ」
「それを言うなら、私はミミよ。彼女のことは誰よりもよく知っているわ」
当然のように衝突が起こった。
それでも自分が間違っているとは露ほども思わなかった。
なぜなら、私こそがミミなのだから。ミミを演じるために母から生を受け、これまでの人生を声楽に捧げてきた。そしてようやく、念願の役柄に辿り着いたのだ。
だから降板を告げられた時には、頭の中が真空になった。
意味が分からなかった。なぜ私が辞めなければならないのか。何の権限があって私とミミを引き裂くのか。気がつくと、刃物を手に米田礼二の個室で彼と向き合っていた。そして悲劇は起こってしまった。
幸い米田は軽症で済み、私は犯行時心神喪失状態にあったとして実刑はまぬかれ、三年間の執行猶予と精神科での治療が義務づけられた。
担当の医師は、私の舞台復帰を容易に認めようとはしなかった。今回のオーディション参加についても彼は強硬に反対した。特に役柄にのめり込み、人物になりきって演じることは厳しく制限された。
「いいですか、あなたは病気なんですよ。それを忘れないでください」
と医師は繰り返した。
言いつけを守らなければ、再び精神の均衡が崩れ、入院を余儀なくされる恐れがあるという。
だから今回は稽古が始まっても、必要以上に役にのめり込むことは避けてきた。恐かったのだ。
いつまた、あの真っ白な頭の状態が再現するか分からない。あの発作が起これば、自分で自分を制御することは不可能だ。
しかし――。
先程のあずさの演技を目にしてしまった以上、もはやそんなことは言っていられない。
彼女の表現を凌駕するには、テクニックだけでは不可能だ。
やるしかない。封印を解くしかないのだ。
それで何が起ころうと、構うものか。
私はアーティストなのだ。
真の表現のためには、いかなる危険も恐れてはならない。
私は鏡の中の自分を見つめながら、ゆっくりと変身を開始した。
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