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第一章 ミュージカル界へ
第十九話 滝沢の評価
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滝沢はアンサンブルから始まって、端役、準主役という順番で寸評を述べていき、最後にヒロイン候補二人についての評価をくだした。
「あずさは短期間でずいぶん腕を上げたな。特に歌がよくなった」
まずはあずさの上達を褒めた。異論はない。確かに読み合わせの時より格段に向上している。しかしその半分以上はマイクの力によるものだ。
「プレビューまでに、もっと向上しないとな」
「はい」
あずさは目を輝かせて首肯した。
「桜井。徹底的に鍛えあげろ」
「はい」
桜井は忠犬よろしく直立不動の姿勢で返事をした。その顔には安堵と歓喜が湧いている。彼は今回、通しの出来によっては演出助手を外される恐れもあったのだ。滝沢が求める水準に達していなければ、明日からは別の人間が取って代わる。それが劇団のルールである。稽古の続行を指示したということは、通しの出来にそれなりに満足したという証左である。
「最後に徳大寺くんだが……」
滝沢は低い声で言うと、キャスト表に視線を落としたまま、しばし沈黙した。
いよいよ来た、と身震いするような気持ちだった。
「はい」
少し声が上擦っているのが自分でも分かる。
一体どんな評価がくだされるのだろう。絶対的な自信を持ってはいても、こういう時は不安が胸をかすめるものだ。
「少し……勘違いをしているかもしれないな」
滝沢が、首をかしげながら言った。
「勘違い?」
一瞬意味が分からなかった。褒められたのか、けなされたのか。普通に考えれば、褒められたはずがない。
「これはリサイタルじゃないよ」
滝沢は憮然とした表情で続けた。
「君のやり方は、ただ歌を見せびらかしているに過ぎない。自分のうまさをひけらかしているんだ」
「そんなことありません」
反射的に言い返した。心外だった。とんでもない言いがかりだ。歌を見せびらかそうだなんて、一瞬たりとも考えたことはない。
「だったらなぜ相手役に歌いかけない。相手は目の前にいるんだよ。まるで十メートルも向こうの人に歌っているようだ」
「大きく表現しようとしているんです」
「相手に届いていない。それは観客に届いていないのと同じだ」
「では、蚊の鳴くような小声で歌えというんですか」
「そういうことじゃない」
「じゃあどうしろと言うんです。具体的に指示してください」
私は激昂していた。完璧だと思った歌唱を否定され、我を失っていた。
「芝居は交流なんだ。観客は歌のうまさを聴きにくるのではなく、ドラマに感動するためにやってくる」
「だったら歌が下手でもいいんですか」
「誰もそんなことは言っていない」
「不公平じゃないですか!」
思わず大声で叫んでいだ。叫ばずにいられなかった。
「私にばっかり文句を言って。あずささんは褒めて」
意図せぬ涙が湧き上がる。
歌を勘違いしているのはあずさの方じゃないか。ただ腹背筋に力を入れてがなり立てているだけだ。
「あずさにだって欠点はある」
「だったらなぜそれを指摘しないんです。失礼ですけど、あずささんは最低二十回は音程を外していましたよ。語尾を伸ばすところはことごとくフラット(音が下がる)している。なぜそれを指摘しないんです」
「それはこれから追い追い……」
「えこひいきするのはやめてください!」
私は自制が利かなくなっていた。全身が怒りでふつふつと震え始める。
「何だと」
「滝沢さん、あなたには歌というものが根本的に分かっていません」
言ってしまった――。
ついに言ってはならない一言を発してしまった。
「百合亜さん」
琴美がたまらぬ様子で飛び出してきて私の左腕を強く引っぱった。
「誰に向かって口を利いているんだ!」
滝沢は顔を真っ赤にして立ち上がると、私に向かって突進してきた。
怒りで沸騰した顔が目の前まで迫ってくる。
一瞬、殴られるかと思って両手で顔を覆う。
彼は目前で立ち止まり、吊り上がったまなこで私を一瞥すると、ぷいと顔をそむけ、そのまま稽古場を後にした。
彼の姿が消えた途端、森閑としていた場の空気が乱れ、騒がしくなる。劇団員たちはオロオロした様子で顔を見合わせ、あるいは何やら囁き合っている。私に向かって露骨に射るような視線を浴びせてくる者もいる。
「今日の稽古はここまでにします。マイクを音響に戻してすみやかに退室してください」
混乱を鎮めるように桜井が言った。
「あずさは短期間でずいぶん腕を上げたな。特に歌がよくなった」
まずはあずさの上達を褒めた。異論はない。確かに読み合わせの時より格段に向上している。しかしその半分以上はマイクの力によるものだ。
「プレビューまでに、もっと向上しないとな」
「はい」
あずさは目を輝かせて首肯した。
「桜井。徹底的に鍛えあげろ」
「はい」
桜井は忠犬よろしく直立不動の姿勢で返事をした。その顔には安堵と歓喜が湧いている。彼は今回、通しの出来によっては演出助手を外される恐れもあったのだ。滝沢が求める水準に達していなければ、明日からは別の人間が取って代わる。それが劇団のルールである。稽古の続行を指示したということは、通しの出来にそれなりに満足したという証左である。
「最後に徳大寺くんだが……」
滝沢は低い声で言うと、キャスト表に視線を落としたまま、しばし沈黙した。
いよいよ来た、と身震いするような気持ちだった。
「はい」
少し声が上擦っているのが自分でも分かる。
一体どんな評価がくだされるのだろう。絶対的な自信を持ってはいても、こういう時は不安が胸をかすめるものだ。
「少し……勘違いをしているかもしれないな」
滝沢が、首をかしげながら言った。
「勘違い?」
一瞬意味が分からなかった。褒められたのか、けなされたのか。普通に考えれば、褒められたはずがない。
「これはリサイタルじゃないよ」
滝沢は憮然とした表情で続けた。
「君のやり方は、ただ歌を見せびらかしているに過ぎない。自分のうまさをひけらかしているんだ」
「そんなことありません」
反射的に言い返した。心外だった。とんでもない言いがかりだ。歌を見せびらかそうだなんて、一瞬たりとも考えたことはない。
「だったらなぜ相手役に歌いかけない。相手は目の前にいるんだよ。まるで十メートルも向こうの人に歌っているようだ」
「大きく表現しようとしているんです」
「相手に届いていない。それは観客に届いていないのと同じだ」
「では、蚊の鳴くような小声で歌えというんですか」
「そういうことじゃない」
「じゃあどうしろと言うんです。具体的に指示してください」
私は激昂していた。完璧だと思った歌唱を否定され、我を失っていた。
「芝居は交流なんだ。観客は歌のうまさを聴きにくるのではなく、ドラマに感動するためにやってくる」
「だったら歌が下手でもいいんですか」
「誰もそんなことは言っていない」
「不公平じゃないですか!」
思わず大声で叫んでいだ。叫ばずにいられなかった。
「私にばっかり文句を言って。あずささんは褒めて」
意図せぬ涙が湧き上がる。
歌を勘違いしているのはあずさの方じゃないか。ただ腹背筋に力を入れてがなり立てているだけだ。
「あずさにだって欠点はある」
「だったらなぜそれを指摘しないんです。失礼ですけど、あずささんは最低二十回は音程を外していましたよ。語尾を伸ばすところはことごとくフラット(音が下がる)している。なぜそれを指摘しないんです」
「それはこれから追い追い……」
「えこひいきするのはやめてください!」
私は自制が利かなくなっていた。全身が怒りでふつふつと震え始める。
「何だと」
「滝沢さん、あなたには歌というものが根本的に分かっていません」
言ってしまった――。
ついに言ってはならない一言を発してしまった。
「百合亜さん」
琴美がたまらぬ様子で飛び出してきて私の左腕を強く引っぱった。
「誰に向かって口を利いているんだ!」
滝沢は顔を真っ赤にして立ち上がると、私に向かって突進してきた。
怒りで沸騰した顔が目の前まで迫ってくる。
一瞬、殴られるかと思って両手で顔を覆う。
彼は目前で立ち止まり、吊り上がったまなこで私を一瞥すると、ぷいと顔をそむけ、そのまま稽古場を後にした。
彼の姿が消えた途端、森閑としていた場の空気が乱れ、騒がしくなる。劇団員たちはオロオロした様子で顔を見合わせ、あるいは何やら囁き合っている。私に向かって露骨に射るような視線を浴びせてくる者もいる。
「今日の稽古はここまでにします。マイクを音響に戻してすみやかに退室してください」
混乱を鎮めるように桜井が言った。
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