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第一章 ミュージカル界へ
第十六話 暗闇の恐怖
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「駅まで送っていこうか」
店を出たところで鮫島が言った。
乾いた心地の良い春風が頬をかすめて吹き抜けていく。私はワインを四杯飲んで、すっかりいい気持ちになっていた。稽古に入って以来、お酒は断っていたので、久しぶりのほろ酔い気分だった。
貝原の出現で、一時は不愉快な気持ちに襲われたけれど、その後、鮫島との間で会話が弾み、お酒もすすみ、時間を忘れて語り合った。音楽に関する深い話を共有できる仲間というのはやはり良いものだ。この数年、私にはそんな友達すらいなかったのだと改めて思った。
「大丈夫。道分かるから」
彼の申し出を丁重にお断りした。本当はもう少し一緒にいたかったけれど、これ以上一緒にいたら、恋に落ちてしまいそうだった。
駅への道は公園の脇を通らなければならない。灯りがほとんどない暗がりで、逆にいえば若い男女にとってはこの上なくロマンチックな場所でもある。
もしも暗がりで彼にいきなり抱きしめられでもしたら、ほろ酔い気分の私は迷わずその胸に顔を埋め、熱い口づけさえ交わしてしまいかねない。
あぶない。あぶない。
今の私には恋などしている暇はないのだ。ミミ役をゲットするまでは、あらゆる誘惑を遮断し、ストイックに役に向き合わなければならない。恋などもってのほかだ。
「そっか、残念」
と鮫島が笑った。その目に、未練じみた色っぽい光がともっている。男がこういう目をする時は、こちらに好意がある証拠だ。
「でも、都内から通うのは大変でしょう。百合亜もこっちにアパートを借りればいいのに」
鮫島はオーディションに合格した後、劇団近くに居を移している。公演はロングランシステムのため、客が入る限り何ヶ月も何年も続くことになる。ラ・ボエームの場合、最低でも二年は客足が途絶えることはないだろうと言われている。
「引っ越すお金ないもん」
私は肩をすくめて言った。
「それに鮫島さんは合格してすでにキャスティングも決定しているでしょう。こっちはまだオーディションの身よ。一ヶ月後にお払い箱になるかもしれない」
「まあ、そうだね」
と鮫島は言った。
「百合亜なら絶対大丈夫だよ」
と言って欲しかったが、彼は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
彼は右手を上げ、千鳥足でアパートの方へ帰っていった。
ふと時計を見ると午後十一時三十分。代々木の自宅までは一時間以上かかる。私は駅への道を急いだ。
川を渡り、住宅街を抜けて、公園に差し掛かると、急にあたりは薄暗くなる。街灯以外の明かりがほとんど届かないのだ。さきほど通った時は人通りも多く、鮫島と一緒だったこともあり恐怖や不安を感じることはなかったが、一人になるとやはり心細い。
私は昔から暗がりが苦手だ。闇の中にいると窒息しそうになる。
子供の頃、毎日母から声楽のレッスンを受けていたが、母の思うようにうまく歌えない時など、母はヒステリーを起こして、よく私を真っ暗な小部屋に閉じ込めた。父が帰宅して救出してくれるまで、暗闇の中でひとり震えていた。
今でも私は、自分の部屋で電気を消して眠ることができない。必ず小さな明かりを残しておく。
やっぱり鮫島さんに送ってもらえばよかったかな。
そんなことを考えながら、早くこの暗がりを抜けてしまおうと、身を固くして歩を進めていた時だった。
後方から、コツ、コツ、という微かな靴音が耳朶に届いた。
数メートル後ろを誰かが歩いている。
それも私が地面を踏みしめるのと同じタイミングで、まるで調子を合わせるかのようにぴたりと靴音が一致している。
背筋がぞくっとした。
単なる偶然だろうが、気味が悪い。しかし振り返るのははばかられた。
試しに歩く速度を上げてみる。
すると後続者も同じ速さで靴音を合わせてきた。
故意であることは明らかだった。
――なんなのよ、いったい。
振りかえって相手の顔を確かめたいが、その瞬間、飛びかかられそうな気がして恐怖で振り向くことができない。我ながら、ヘタレの極みだ。
その時ふと、先ほどレストランの外の植え込みに消えた貝原の姿が脳裏をよぎった。
貝原かもしれないと思った。
あれからずっと私の後を尾けてきたに違いない。
なんとしつこい男だろう。
私は意を決し、突然立ち止まると、くるりとうしろを振り返った。
五メートルほど後方で、黒い人影が逃げるようにサッと草むらに消えるのが分かった。
私は目を凝らした。
貝原だろうか。それとも――。
いずれにしても恐ろしい。
まともな人間の所業とはとても思えない。
前方に視線を戻し、迷わず駆け出した。
早くこの暗闇を抜けなければ――。
後方から再び足音が迫ってくるのが分かった。
猛烈な勢いで接近してくる。
――いったい、何なのよ。
敵の正体が分からないだけに、恐怖心がより増幅される。
必死で手を振り、両足を前へ運んだ。
「助けて!」
思わず悲鳴のような声を発していた。
叫びながら、緩い傾斜を全力で駈けくだる。
バキッと音がして右の靴のヒールが折れるのが分かった。
あっ、と思う間もなく、顔面からアスファルトに叩きつけられる。
左の頬骨に激痛が走った。胸部にも鈍い痛みを覚える。
すぐに立ち上がり、靴を脱ぎ捨てて疾駆する。
自分の吐く息の音だけが聞こえる。
前方に住宅街の明かりが見えてきた。
あそこまで辿り着けば、助けを求められる。必死に地面を蹴った。
あと少しで公園脇の暗がりを抜けられる。
そう思った次の瞬間――、
ふいに左の脇道から黒い人影が飛び出してきた。
加速のついた身体によける余裕はなく、人影とまともにぶつかって車道へと大きく跳ね飛ばされる。
ブーーーーーーーッ!
尾を引くようなクラクションの音が夜のとばりを切り裂いて鳴り響く。
白いセダンの車体がまっすぐ自分に向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
私は思わず目を閉じて、死を覚悟した。
店を出たところで鮫島が言った。
乾いた心地の良い春風が頬をかすめて吹き抜けていく。私はワインを四杯飲んで、すっかりいい気持ちになっていた。稽古に入って以来、お酒は断っていたので、久しぶりのほろ酔い気分だった。
貝原の出現で、一時は不愉快な気持ちに襲われたけれど、その後、鮫島との間で会話が弾み、お酒もすすみ、時間を忘れて語り合った。音楽に関する深い話を共有できる仲間というのはやはり良いものだ。この数年、私にはそんな友達すらいなかったのだと改めて思った。
「大丈夫。道分かるから」
彼の申し出を丁重にお断りした。本当はもう少し一緒にいたかったけれど、これ以上一緒にいたら、恋に落ちてしまいそうだった。
駅への道は公園の脇を通らなければならない。灯りがほとんどない暗がりで、逆にいえば若い男女にとってはこの上なくロマンチックな場所でもある。
もしも暗がりで彼にいきなり抱きしめられでもしたら、ほろ酔い気分の私は迷わずその胸に顔を埋め、熱い口づけさえ交わしてしまいかねない。
あぶない。あぶない。
今の私には恋などしている暇はないのだ。ミミ役をゲットするまでは、あらゆる誘惑を遮断し、ストイックに役に向き合わなければならない。恋などもってのほかだ。
「そっか、残念」
と鮫島が笑った。その目に、未練じみた色っぽい光がともっている。男がこういう目をする時は、こちらに好意がある証拠だ。
「でも、都内から通うのは大変でしょう。百合亜もこっちにアパートを借りればいいのに」
鮫島はオーディションに合格した後、劇団近くに居を移している。公演はロングランシステムのため、客が入る限り何ヶ月も何年も続くことになる。ラ・ボエームの場合、最低でも二年は客足が途絶えることはないだろうと言われている。
「引っ越すお金ないもん」
私は肩をすくめて言った。
「それに鮫島さんは合格してすでにキャスティングも決定しているでしょう。こっちはまだオーディションの身よ。一ヶ月後にお払い箱になるかもしれない」
「まあ、そうだね」
と鮫島は言った。
「百合亜なら絶対大丈夫だよ」
と言って欲しかったが、彼は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
彼は右手を上げ、千鳥足でアパートの方へ帰っていった。
ふと時計を見ると午後十一時三十分。代々木の自宅までは一時間以上かかる。私は駅への道を急いだ。
川を渡り、住宅街を抜けて、公園に差し掛かると、急にあたりは薄暗くなる。街灯以外の明かりがほとんど届かないのだ。さきほど通った時は人通りも多く、鮫島と一緒だったこともあり恐怖や不安を感じることはなかったが、一人になるとやはり心細い。
私は昔から暗がりが苦手だ。闇の中にいると窒息しそうになる。
子供の頃、毎日母から声楽のレッスンを受けていたが、母の思うようにうまく歌えない時など、母はヒステリーを起こして、よく私を真っ暗な小部屋に閉じ込めた。父が帰宅して救出してくれるまで、暗闇の中でひとり震えていた。
今でも私は、自分の部屋で電気を消して眠ることができない。必ず小さな明かりを残しておく。
やっぱり鮫島さんに送ってもらえばよかったかな。
そんなことを考えながら、早くこの暗がりを抜けてしまおうと、身を固くして歩を進めていた時だった。
後方から、コツ、コツ、という微かな靴音が耳朶に届いた。
数メートル後ろを誰かが歩いている。
それも私が地面を踏みしめるのと同じタイミングで、まるで調子を合わせるかのようにぴたりと靴音が一致している。
背筋がぞくっとした。
単なる偶然だろうが、気味が悪い。しかし振り返るのははばかられた。
試しに歩く速度を上げてみる。
すると後続者も同じ速さで靴音を合わせてきた。
故意であることは明らかだった。
――なんなのよ、いったい。
振りかえって相手の顔を確かめたいが、その瞬間、飛びかかられそうな気がして恐怖で振り向くことができない。我ながら、ヘタレの極みだ。
その時ふと、先ほどレストランの外の植え込みに消えた貝原の姿が脳裏をよぎった。
貝原かもしれないと思った。
あれからずっと私の後を尾けてきたに違いない。
なんとしつこい男だろう。
私は意を決し、突然立ち止まると、くるりとうしろを振り返った。
五メートルほど後方で、黒い人影が逃げるようにサッと草むらに消えるのが分かった。
私は目を凝らした。
貝原だろうか。それとも――。
いずれにしても恐ろしい。
まともな人間の所業とはとても思えない。
前方に視線を戻し、迷わず駆け出した。
早くこの暗闇を抜けなければ――。
後方から再び足音が迫ってくるのが分かった。
猛烈な勢いで接近してくる。
――いったい、何なのよ。
敵の正体が分からないだけに、恐怖心がより増幅される。
必死で手を振り、両足を前へ運んだ。
「助けて!」
思わず悲鳴のような声を発していた。
叫びながら、緩い傾斜を全力で駈けくだる。
バキッと音がして右の靴のヒールが折れるのが分かった。
あっ、と思う間もなく、顔面からアスファルトに叩きつけられる。
左の頬骨に激痛が走った。胸部にも鈍い痛みを覚える。
すぐに立ち上がり、靴を脱ぎ捨てて疾駆する。
自分の吐く息の音だけが聞こえる。
前方に住宅街の明かりが見えてきた。
あそこまで辿り着けば、助けを求められる。必死に地面を蹴った。
あと少しで公園脇の暗がりを抜けられる。
そう思った次の瞬間――、
ふいに左の脇道から黒い人影が飛び出してきた。
加速のついた身体によける余裕はなく、人影とまともにぶつかって車道へと大きく跳ね飛ばされる。
ブーーーーーーーッ!
尾を引くようなクラクションの音が夜のとばりを切り裂いて鳴り響く。
白いセダンの車体がまっすぐ自分に向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
私は思わず目を閉じて、死を覚悟した。
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