17 / 55
第一章 ミュージカル界へ
第十六話 暗闇の恐怖
しおりを挟む
「駅まで送っていこうか」
店を出たところで鮫島が言った。
乾いた心地の良い春風が頬をかすめて吹き抜けていく。私はワインを四杯飲んで、すっかりいい気持ちになっていた。稽古に入って以来、お酒は断っていたので、久しぶりのほろ酔い気分だった。
貝原の出現で、一時は不愉快な気持ちに襲われたけれど、その後、鮫島との間で会話が弾み、お酒もすすみ、時間を忘れて語り合った。音楽に関する深い話を共有できる仲間というのはやはり良いものだ。この数年、私にはそんな友達すらいなかったのだと改めて思った。
「大丈夫。道分かるから」
彼の申し出を丁重にお断りした。本当はもう少し一緒にいたかったけれど、これ以上一緒にいたら、恋に落ちてしまいそうだった。
駅への道は公園の脇を通らなければならない。灯りがほとんどない暗がりで、逆にいえば若い男女にとってはこの上なくロマンチックな場所でもある。
もしも暗がりで彼にいきなり抱きしめられでもしたら、ほろ酔い気分の私は迷わずその胸に顔を埋め、熱い口づけさえ交わしてしまいかねない。
あぶない。あぶない。
今の私には恋などしている暇はないのだ。ミミ役をゲットするまでは、あらゆる誘惑を遮断し、ストイックに役に向き合わなければならない。恋などもってのほかだ。
「そっか、残念」
と鮫島が笑った。その目に、未練じみた色っぽい光がともっている。男がこういう目をする時は、こちらに好意がある証拠だ。
「でも、都内から通うのは大変でしょう。百合亜もこっちにアパートを借りればいいのに」
鮫島はオーディションに合格した後、劇団近くに居を移している。公演はロングランシステムのため、客が入る限り何ヶ月も何年も続くことになる。ラ・ボエームの場合、最低でも二年は客足が途絶えることはないだろうと言われている。
「引っ越すお金ないもん」
私は肩をすくめて言った。
「それに鮫島さんは合格してすでにキャスティングも決定しているでしょう。こっちはまだオーディションの身よ。一ヶ月後にお払い箱になるかもしれない」
「まあ、そうだね」
と鮫島は言った。
「百合亜なら絶対大丈夫だよ」
と言って欲しかったが、彼は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
彼は右手を上げ、千鳥足でアパートの方へ帰っていった。
ふと時計を見ると午後十一時三十分。代々木の自宅までは一時間以上かかる。私は駅への道を急いだ。
川を渡り、住宅街を抜けて、公園に差し掛かると、急にあたりは薄暗くなる。街灯以外の明かりがほとんど届かないのだ。さきほど通った時は人通りも多く、鮫島と一緒だったこともあり恐怖や不安を感じることはなかったが、一人になるとやはり心細い。
私は昔から暗がりが苦手だ。闇の中にいると窒息しそうになる。
子供の頃、毎日母から声楽のレッスンを受けていたが、母の思うようにうまく歌えない時など、母はヒステリーを起こして、よく私を真っ暗な小部屋に閉じ込めた。父が帰宅して救出してくれるまで、暗闇の中でひとり震えていた。
今でも私は、自分の部屋で電気を消して眠ることができない。必ず小さな明かりを残しておく。
やっぱり鮫島さんに送ってもらえばよかったかな。
そんなことを考えながら、早くこの暗がりを抜けてしまおうと、身を固くして歩を進めていた時だった。
後方から、コツ、コツ、という微かな靴音が耳朶に届いた。
数メートル後ろを誰かが歩いている。
それも私が地面を踏みしめるのと同じタイミングで、まるで調子を合わせるかのようにぴたりと靴音が一致している。
背筋がぞくっとした。
単なる偶然だろうが、気味が悪い。しかし振り返るのははばかられた。
試しに歩く速度を上げてみる。
すると後続者も同じ速さで靴音を合わせてきた。
故意であることは明らかだった。
――なんなのよ、いったい。
振りかえって相手の顔を確かめたいが、その瞬間、飛びかかられそうな気がして恐怖で振り向くことができない。我ながら、ヘタレの極みだ。
その時ふと、先ほどレストランの外の植え込みに消えた貝原の姿が脳裏をよぎった。
貝原かもしれないと思った。
あれからずっと私の後を尾けてきたに違いない。
なんとしつこい男だろう。
私は意を決し、突然立ち止まると、くるりとうしろを振り返った。
五メートルほど後方で、黒い人影が逃げるようにサッと草むらに消えるのが分かった。
私は目を凝らした。
貝原だろうか。それとも――。
いずれにしても恐ろしい。
まともな人間の所業とはとても思えない。
前方に視線を戻し、迷わず駆け出した。
早くこの暗闇を抜けなければ――。
後方から再び足音が迫ってくるのが分かった。
猛烈な勢いで接近してくる。
――いったい、何なのよ。
敵の正体が分からないだけに、恐怖心がより増幅される。
必死で手を振り、両足を前へ運んだ。
「助けて!」
思わず悲鳴のような声を発していた。
叫びながら、緩い傾斜を全力で駈けくだる。
バキッと音がして右の靴のヒールが折れるのが分かった。
あっ、と思う間もなく、顔面からアスファルトに叩きつけられる。
左の頬骨に激痛が走った。胸部にも鈍い痛みを覚える。
すぐに立ち上がり、靴を脱ぎ捨てて疾駆する。
自分の吐く息の音だけが聞こえる。
前方に住宅街の明かりが見えてきた。
あそこまで辿り着けば、助けを求められる。必死に地面を蹴った。
あと少しで公園脇の暗がりを抜けられる。
そう思った次の瞬間――、
ふいに左の脇道から黒い人影が飛び出してきた。
加速のついた身体によける余裕はなく、人影とまともにぶつかって車道へと大きく跳ね飛ばされる。
ブーーーーーーーッ!
尾を引くようなクラクションの音が夜のとばりを切り裂いて鳴り響く。
白いセダンの車体がまっすぐ自分に向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
私は思わず目を閉じて、死を覚悟した。
店を出たところで鮫島が言った。
乾いた心地の良い春風が頬をかすめて吹き抜けていく。私はワインを四杯飲んで、すっかりいい気持ちになっていた。稽古に入って以来、お酒は断っていたので、久しぶりのほろ酔い気分だった。
貝原の出現で、一時は不愉快な気持ちに襲われたけれど、その後、鮫島との間で会話が弾み、お酒もすすみ、時間を忘れて語り合った。音楽に関する深い話を共有できる仲間というのはやはり良いものだ。この数年、私にはそんな友達すらいなかったのだと改めて思った。
「大丈夫。道分かるから」
彼の申し出を丁重にお断りした。本当はもう少し一緒にいたかったけれど、これ以上一緒にいたら、恋に落ちてしまいそうだった。
駅への道は公園の脇を通らなければならない。灯りがほとんどない暗がりで、逆にいえば若い男女にとってはこの上なくロマンチックな場所でもある。
もしも暗がりで彼にいきなり抱きしめられでもしたら、ほろ酔い気分の私は迷わずその胸に顔を埋め、熱い口づけさえ交わしてしまいかねない。
あぶない。あぶない。
今の私には恋などしている暇はないのだ。ミミ役をゲットするまでは、あらゆる誘惑を遮断し、ストイックに役に向き合わなければならない。恋などもってのほかだ。
「そっか、残念」
と鮫島が笑った。その目に、未練じみた色っぽい光がともっている。男がこういう目をする時は、こちらに好意がある証拠だ。
「でも、都内から通うのは大変でしょう。百合亜もこっちにアパートを借りればいいのに」
鮫島はオーディションに合格した後、劇団近くに居を移している。公演はロングランシステムのため、客が入る限り何ヶ月も何年も続くことになる。ラ・ボエームの場合、最低でも二年は客足が途絶えることはないだろうと言われている。
「引っ越すお金ないもん」
私は肩をすくめて言った。
「それに鮫島さんは合格してすでにキャスティングも決定しているでしょう。こっちはまだオーディションの身よ。一ヶ月後にお払い箱になるかもしれない」
「まあ、そうだね」
と鮫島は言った。
「百合亜なら絶対大丈夫だよ」
と言って欲しかったが、彼は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
彼は右手を上げ、千鳥足でアパートの方へ帰っていった。
ふと時計を見ると午後十一時三十分。代々木の自宅までは一時間以上かかる。私は駅への道を急いだ。
川を渡り、住宅街を抜けて、公園に差し掛かると、急にあたりは薄暗くなる。街灯以外の明かりがほとんど届かないのだ。さきほど通った時は人通りも多く、鮫島と一緒だったこともあり恐怖や不安を感じることはなかったが、一人になるとやはり心細い。
私は昔から暗がりが苦手だ。闇の中にいると窒息しそうになる。
子供の頃、毎日母から声楽のレッスンを受けていたが、母の思うようにうまく歌えない時など、母はヒステリーを起こして、よく私を真っ暗な小部屋に閉じ込めた。父が帰宅して救出してくれるまで、暗闇の中でひとり震えていた。
今でも私は、自分の部屋で電気を消して眠ることができない。必ず小さな明かりを残しておく。
やっぱり鮫島さんに送ってもらえばよかったかな。
そんなことを考えながら、早くこの暗がりを抜けてしまおうと、身を固くして歩を進めていた時だった。
後方から、コツ、コツ、という微かな靴音が耳朶に届いた。
数メートル後ろを誰かが歩いている。
それも私が地面を踏みしめるのと同じタイミングで、まるで調子を合わせるかのようにぴたりと靴音が一致している。
背筋がぞくっとした。
単なる偶然だろうが、気味が悪い。しかし振り返るのははばかられた。
試しに歩く速度を上げてみる。
すると後続者も同じ速さで靴音を合わせてきた。
故意であることは明らかだった。
――なんなのよ、いったい。
振りかえって相手の顔を確かめたいが、その瞬間、飛びかかられそうな気がして恐怖で振り向くことができない。我ながら、ヘタレの極みだ。
その時ふと、先ほどレストランの外の植え込みに消えた貝原の姿が脳裏をよぎった。
貝原かもしれないと思った。
あれからずっと私の後を尾けてきたに違いない。
なんとしつこい男だろう。
私は意を決し、突然立ち止まると、くるりとうしろを振り返った。
五メートルほど後方で、黒い人影が逃げるようにサッと草むらに消えるのが分かった。
私は目を凝らした。
貝原だろうか。それとも――。
いずれにしても恐ろしい。
まともな人間の所業とはとても思えない。
前方に視線を戻し、迷わず駆け出した。
早くこの暗闇を抜けなければ――。
後方から再び足音が迫ってくるのが分かった。
猛烈な勢いで接近してくる。
――いったい、何なのよ。
敵の正体が分からないだけに、恐怖心がより増幅される。
必死で手を振り、両足を前へ運んだ。
「助けて!」
思わず悲鳴のような声を発していた。
叫びながら、緩い傾斜を全力で駈けくだる。
バキッと音がして右の靴のヒールが折れるのが分かった。
あっ、と思う間もなく、顔面からアスファルトに叩きつけられる。
左の頬骨に激痛が走った。胸部にも鈍い痛みを覚える。
すぐに立ち上がり、靴を脱ぎ捨てて疾駆する。
自分の吐く息の音だけが聞こえる。
前方に住宅街の明かりが見えてきた。
あそこまで辿り着けば、助けを求められる。必死に地面を蹴った。
あと少しで公園脇の暗がりを抜けられる。
そう思った次の瞬間――、
ふいに左の脇道から黒い人影が飛び出してきた。
加速のついた身体によける余裕はなく、人影とまともにぶつかって車道へと大きく跳ね飛ばされる。
ブーーーーーーーッ!
尾を引くようなクラクションの音が夜のとばりを切り裂いて鳴り響く。
白いセダンの車体がまっすぐ自分に向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
私は思わず目を閉じて、死を覚悟した。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
ダブルネーム
しまおか
ミステリー
有名人となった藤子の弟が謎の死を遂げ、真相を探る内に事態が急変する!
四十五歳でうつ病により会社を退職した藤子は、五十歳で純文学の新人賞を獲得し白井真琴の筆名で芥山賞まで受賞し、人生が一気に変わる。容姿や珍しい経歴もあり、世間から注目を浴びテレビ出演した際、渡部亮と名乗る男の死についてコメント。それが後に別名義を使っていた弟の雄太と知らされ、騒動に巻き込まれる。さらに本人名義の土地建物を含めた多額の遺産は全て藤子にとの遺書も発見され、いくつもの謎を残して死んだ彼の過去を探り始めた。相続を巡り兄夫婦との確執が産まれる中、かつて雄太の同僚だったと名乗る同性愛者の女性が現れ、警察は事故と処理したが殺されたのではと言い出す。さらに刑事を紹介され裏で捜査すると告げられる。そうして真相を解明しようと動き出した藤子を待っていたのは、予想をはるかに超える事態だった。登場人物のそれぞれにおける人生や、藤子自身の過去を振り返りながら謎を解き明かす、どんでん返しありのミステリー&サスペンス&ヒューマンドラマ。
ヘリオポリスー九柱の神々ー
soltydog369
ミステリー
古代エジプト
名君オシリスが治めるその国は長らく平和な日々が続いていた——。
しかし「ある事件」によってその均衡は突如崩れた。
突如奪われた王の命。
取り残された兄弟は父の無念を晴らすべく熾烈な争いに身を投じていく。
それぞれの思いが交錯する中、2人が選ぶ未来とは——。
バトル×ミステリー
新感覚叙事詩、2人の復讐劇が幕を開ける。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
舞姫【中編】
友秋
ミステリー
天涯孤独の少女は、夜の歓楽街で二人の男に拾われた。
三人の運命を変えた過去の事故と事件。
そこには、三人を繋ぐ思いもかけない縁(えにし)が隠れていた。
剣崎星児
29歳。故郷を大火の家族も何もかもを失い、夜の街で強く生きてきた。
兵藤保
28歳。星児の幼馴染。同じく、実姉以外の家族を失った。明晰な頭脳を持って星児の抱く野望と復讐の計画をサポートしてきた。
津田みちる
20歳。両親を事故で亡くし孤児となり、夜の街を彷徨っていた16歳の時、星児と保に拾われた。ストリップダンサーとしてのデビューを控える。
桑名麗子
保の姉。星児の彼女で、ストリップ劇場香蘭の元ダンサー。みちるの師匠。
亀岡
みちるの両親が亡くなった事故の事を調べている刑事。
津田(郡司)武
星児と保が追う謎多き男。
切り札にするつもりで拾った少女は、彼らにとっての急所となる。
大人になった少女の背中には、羽根が生える。
与り知らないところで生まれた禍根の渦に三人は巻き込まれていく。
彼らの行く手に待つものは。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
時の呪縛
葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。
葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。
果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
舞姫【後編】
友秋
ミステリー
天涯孤独の少女は、夜の歓楽街で二人の男に拾われた。
三人の運命を変えた過去の事故と事件。
彼らには思いもかけない縁(えにし)があった。
巨大財閥を起点とする親と子の遺恨が幾多の歯車となる。
誰が幸せを掴むのか。
•剣崎星児
29歳。故郷を大火の家族も何もかもを失い、夜の街で強く生きてきた。
•兵藤保
28歳。星児の幼馴染。同じく、実姉以外の家族を失った。明晰な頭脳を持って星児の抱く野望と復讐の計画をサポートしてきた。
•津田みちる
20歳。両親を事故で亡くし孤児となり、夜の街を彷徨っていた16歳の時、星児と保に拾われ、ストリップダンサーとなる。
•桑名麗子
保の姉。星児の彼女で、ストリップ劇場香蘭の元ダンサー。みちるの師匠。
•津田(郡司)武
星児と保の故郷を残忍な形で消した男。星児と保は復讐の為に追う。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
それは奇妙な町でした
ねこしゃけ日和
ミステリー
売れない作家である有馬四迷は新作を目新しさが足りないと言われ、ボツにされた。
バイト先のオーナーであるアメリカ人のルドリックさんにそのことを告げるとちょうどいい町があると教えられた。
猫神町は誰もがねこを敬う奇妙な町だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる