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第一章 ミュージカル界へ
第十三話 競争原理
しおりを挟むその日から本格的な稽古が始まった。
演出助手の桜井は、二週間でミザンスを仕上げるべく、鬼の形相で陣頭指揮をとった。
小柄で色白、ぽっちゃり体型の彼は、滝沢の前では常に愛想笑いを浮かべてペコペコし、子犬のようにおとなしいが、いざ滝沢がいなくなると途端に人が変わったように居丈高になる。
まるで滝沢が乗り移ったかのような怒号を連発した。
「動きがバラバラだぞ!」
「アンザンブル。手の角度を合わせて!」
「そこはターン、ターンでしゃがむ!」
「違う。ミミが歌い始めてから移動。そうだ!」
「頭からもう一回!」
桜井もまた、審査されている身なのだ。
滝沢が稽古場入りする日までにミザンスが完璧に仕上がっていなければ、翌日から別の人間が彼の席に座ることになる。ここではあらゆるところに競争原理が導入されている。
桜井はむきになって同じ場面を何度もしつこく繰り返し、ダメ出しを浴びせ続けた。それも休憩なしに――。
真面目で熱心なのはいいことだ。しかし、私としては堪ったものではなかった。
繰り返す度に、何度も歌わなければならない。台詞もしかりだ。これでは喉がもたないと、三日目にたまらず声をセーブした。小さな声で、声帯に負担をかけない唱法に変えたのだ。
すると――、
「徳大寺さん。常に百パーセントの力で臨んでください。一人でも気を抜く人がいると、全員に伝わりますよ」
桜井にすかさず指摘された。言葉遣いこそ丁寧だが、棘のある嫌味な言い方だった。
「でも、今はアンサンブルの動きが問題なんでしょう。だったら……」
「歌声に合わせてアンサンブルは動いているんです」
「少しくらいトーンを落としたって……」
「駄目です。士気にかかわります」
こういう体育会系の人間は大嫌いだ。融通性がなく、杓子定規にしか物事を考えられない。上の人間の言うことには絶対服従で、すべては気合や根性で解決すると思っている。以前の私だったら即座に噛み付いているところだ。
しかしこの日は怒りを呑みこみ、彼の指示に従った。自分はここでは異邦人だという思いが反論を躊躇させた。嫌われたくなかった。なんとしてもこの役を掴みとらなければならないという強い気持ちがあった。
だがその二日後、朝起きた時、喉に微かな違和感を覚えた私は、これ以上の酷使はまずいと直感的に判断した。声帯付近が少し腫れている感覚があった。
慣れない地声やミックスの歌を歌った影響に違いない。
本番になれば、一週間に七、八回の公演をこなさなければならないのは仕方がない。プロとして、たとえ喉が壊れようと務め上げねばならないだろう。だが稽古は別だ。本番前に潰されてはたまらない。
そもそもオペラでは、二日連続公演であればダブルキャストを組むのが当たり前で、同じ人間が二日続けて歌うことなど、まずありえない。それだけ喉を大切にしているのだ。
自分の喉は自分で守るしかない。そう覚悟を決めてその日の稽古に臨んだ。
「手を抜いている人がいますよ。すぐに分かりますよ」
名指しはせずに桜井は言った。
無視してセーブした歌い方を続けていると、
「徳大寺さん」
ついに桜井は私を睨みつけた。
「何度言ったら分かるんですか。ここでは劇団のやり方に従っていただきます」
「喉の調子が悪いんです」
彼の目を見て、はっきりと言った。
「え」
と一瞬心配そうな顔があらわれたが、すぐに訝るような表情に変わった。
「そんな風には見えませんけどね」
「本人が言ってるんですよ」
「まだ稽古が始まって一週間も経っていませんよ」
「念のため、大事をとりたいんです」
「みんな同じです。でも全力でやっている」
「本当に違和感があるんです」
「たった六日間の稽古で喉に違和感が出るなんて、発声法が間違っているんじゃないですか」
「はあ?」
信じられない発言だった。許し難い侮辱である。
一体誰に向かって口を利いているの?
「腹背筋をしっかり使って、喉に負担をかけない歌い方をすれば、そんなことにならないはずです」
「私に歌い方の講釈をする気ですか?」
「だって他の人はまったく異常がないんですよ。それなのにあなたは……」
「失礼ですけど、どちらの音楽大学をご卒業なさってます?」
怒りのスイッチが突如オンになった。こんなド素人に馬鹿にされて、黙っているわけにはいかない。
「え?」
「歌の経験はどれくらいおあり?」
「そんなことは今関係ないでしょう。何を言ってるんだ、あなたは!」
桜井が激昂して立ち上がった。
その時、
「すいません」
後方で稽古を見守っていた水原琴美が突然飛び出してきて、桜井に向かって上半身を折り曲げた。
なぜ頭なんか下げるのよ、と言おうとする私をさえぎって、彼女は続ける。
「百合亜さんはまだミュージカルや劇団の方法に慣れていないんです。それに彼女はオーディションの最中で、喉に人一倍ナーバスになる気持ちを分かってあげてください」
「でも手抜きの演技をされたら、稽古場の士気にかかわる。滝沢先生だって絶対お許しにならない」
「だったら私が百合亜さんの代役を務めます」
「え」
桜井が怪訝な顔で目をぱちくりさせた。
「百合亜さんに問題がないシーンは、私が代わって演じますから。そうすれば、稽古場の士気を損なうことなく、アンサンブルの稽古ができるでしょう」
「演じるったって、歌や台詞やミザンスは……」
「全部、入ってます」
「なに」
桜井が目を大きくした。私も驚いて琴美を見る。
琴美は照れたように微笑し、
「見ているうちに自然に覚えちゃったんです。もちろん、百合亜さんのように上手には歌えませんけど、全身全霊を込めて代役を務めさせていただきます。それでしたら、問題ないんじゃありませんか」
「……」
桜井は言葉に詰まったように黙り込み、右手で頬のあたりを撫でている。
「どうか百合亜さんを休ませてあげてください。慣れない地声やミックスの歌が喉に負担をかけたんだと思います。彼女はなにもわがままで言ってるわけじゃありません。最高の歌声を本番の舞台で披露するために今は無理をしたくないと言っているだけです。それだけは、わかってあげてください」
「んん……」
桜井は唸るように言うと、しぶしぶ提案を受け入れた。
「百合亜さん、どうぞ休んでいてください」
琴美は嬉々とした声で言うと、それまで私が立っていた位置にスタンバイし、周囲のメンバーに、
「よろしくお願いします」
と頭を下げた。
私はホッとした気持ちが半分と、何か釈然としない気持ち半分で窓際の観覧席に向かう。
鮫島の横を通り過ぎた時、彼が耳元で囁いた。
「やるね」
悪戯っぽい瞳でウィンクを投げてくる。
私が桜井に楯突いたことを言っているらしい。
苦笑して視線を切ると、窓際に歩を進め、席に座って琴美が演じるミミを黙って見つめた。
彼女が言うように、台詞もミザンスも完璧に身体に入っている。一体いつの間に練習したのだろう。
油断も隙もないものだと、心中で思わず苦笑するような気持ちになった。
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