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第一章 ミュージカル界へ
第十話 切り裂かれたシューズ
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翌朝、私は朝八時半に劇団の門を潜った。
九時からのバレエレッスンに参加するためだ。
ミュージカルの場合、オペラとは違って舞台上での俊敏な立ち居振る舞いが求められる。簡単ではあるがダンスシーンも数箇所ある。これらをこなすには、ダンスレッスンが欠かせないのだ。役を獲得するためなら、どんな試練にも耐えてみせるという気持ちだった。昨日一日の稽古を終えて、ミュージカルに人生をかける気持ちが固まりつつあった。
だが、意気揚々とした気分は、靴箱を開けた途端に粉砕される。
「きゃあぁぁぁ!」
相当な大声を発していたのだろう。受付の女性が、「どうしました」と慌ててやってきた。靴箱の中を見て彼女も「あっ」と声を発する。
室内履きのスニーカーが、刃物でずたずたに切り裂かれている。手に取ると、蛇腹のようにぱらぱらと広がった。
――一体、誰がこんなことを。
受付から連絡を受けた制作部の女性が飛んできた。
「申し訳ございません。二度とこのようなことが起こらないよう厳重に注意いたします」
「即刻犯人を捜してください。これじゃ恐ろしくて稽古に集中できません」
私は激昂して叫んだ。心臓が激しく鼓動している。
「本当に申し訳ございません」
制作部の女性は平謝りに謝り続けた。
その誠実な態度に徐々に興奮が鎮まっていく。この女性に怒りをぶつけても仕方がない。
「百合亜さん」
そこへ水原琴美が血相を変えてやってきた。すでに更衣室でも話題になっているようだ。
「私のシューズを使ってください」
彼女は自分の運動靴を脱ごうとする。
「大丈夫。受付でスリッパを借りたから」
と足元を示した。
午前のダンスレッスンはダンスシューズに履きかえるし、昼休みになればお店も開くだろうから近所の靴屋で新しいものを買い求めればいい。
「それよりレッスンが始まるわ。急ぎましょう」
気持ちを奮い立たせ、琴美を急かして更衣室へと急いだ。
卑劣な犯人の脅迫に屈してなるものか、という気持ちだった。自分が顔色一つ変えず平然とレッスンに参加することが、犯人に対する最大の復讐になるのだ。
だが、バレエレッスンが始まって三十分が過ぎた頃、突如として過呼吸が襲ってきた。
最初は多少の息苦しさを覚えただけだった。慣れないバレエの動きに息が乱れただけで、すぐに治まるだろうと考え、誤魔化しながらレッスンを続けていたが、やがて手足や唇が意思に反して震え出し、ついには水を張ったバケツに顔を突っ込まれたような窒息感が襲ってきた。
「徳大寺さん、大丈夫?」
と女性教師から声をかけられた時には、返事もできない状況だった。
琴美に付き添われて地下の医務室へと運ばれる。
極度の緊張や不安に見舞われた時、私は抗いがたい発作に襲われることがよくある。医者からはパニック障害だと告げられた。ここ一年ほどは薬のおかげで発作に襲われることはなかったものの、やはりスニーカーを切り裂かれたことが影響しているのだろうか――。
三十分ほどベッドで横になっていると、徐々に呼吸が落ち着き、血流も平常時の状態に戻っていった。と同時に、心の底から悔しさが込み上げてきた。
「情けない」
大勢の前で精神的弱さを露呈した自分が許せなかった。運動靴を切り裂いた犯人は、思う壺だとあざ笑っていることだろう。
それにしても、一体誰があんな真似をしたというのか。普通に考えれば、私の存在が邪魔な者――すなわちミミ役を争う片桐あずさ――ということになる。先程バレエの稽古場にはピンクのレオタードに身を包んだあずさの姿もあった。私が過呼吸に陥った時、彼女はどんな様子でこちらを見ていただろうか。思い出そうと脳を働かせるが、記憶が蘇ってこない。
「情けなくなんかないですよ」
琴美が笑って口を開いた。彼女は先程からずっとベッド脇の椅子に座って付き添ってくれている。
「あんな目に遭ったら、誰だって動揺します。この劇団内に卑劣な人間がいることが、私はとても恥ずかしいです」
「やったのは片桐あずさかしら。どう思う?」
「さあ、どうでしょう。その可能性はあると思います。でも、真っ先に疑われることが分かっていて、わざわざあんな真似をするでしょうか」
「でも他に考えられる?」
「百合亜さんの過去については、みんなよく知っているんです。中には、あんな事件を起こした人に劇団内に足を踏み入れて欲しくないと考えている者も大勢います」
「……そう」
私は小さく頷き、弱々しい視線を宙に結んだ。「嫌われてるもんね……私」
六年前の事件以降、世間から様々な悪意に満ちたレッテルを貼られ続けてきた。
――常軌を逸したソプラノ歌手。
――怒ると何を仕出かすか分からない天才気取りの女。
――彼女を起用する演出家は命がけ。
今回の復帰に際しても、すでに一部メディアやネット上で話題にのぼり始めている。
「あんな女を起用して大丈夫か?」
「また、やらかすんじゃないか」
など嘲笑と批判が入り混じった文言がSNS上に踊っている。
「気にしないことです」
琴美が言った。「って言っても無理でしょうけど、それ以上のエネルギーで稽古に意識を集中させるんです」
「そのつもりよ。こんなことで負けたりしない。半端な気持ちでミュージカル界に来たわけじゃないわ。残りの人生を全てかける覚悟で、これが最後のチャンスだと思って挑んでいるの。何があっても逃げるつもりはないし、絶対に役を掴みとってみせる」
自分に言い聞かせるように、結んだ右拳を胸にあてがいながら言った。
「全力で応援させていただきます」
琴美が、童顔をほころばせて白い歯を見せた。
九時からのバレエレッスンに参加するためだ。
ミュージカルの場合、オペラとは違って舞台上での俊敏な立ち居振る舞いが求められる。簡単ではあるがダンスシーンも数箇所ある。これらをこなすには、ダンスレッスンが欠かせないのだ。役を獲得するためなら、どんな試練にも耐えてみせるという気持ちだった。昨日一日の稽古を終えて、ミュージカルに人生をかける気持ちが固まりつつあった。
だが、意気揚々とした気分は、靴箱を開けた途端に粉砕される。
「きゃあぁぁぁ!」
相当な大声を発していたのだろう。受付の女性が、「どうしました」と慌ててやってきた。靴箱の中を見て彼女も「あっ」と声を発する。
室内履きのスニーカーが、刃物でずたずたに切り裂かれている。手に取ると、蛇腹のようにぱらぱらと広がった。
――一体、誰がこんなことを。
受付から連絡を受けた制作部の女性が飛んできた。
「申し訳ございません。二度とこのようなことが起こらないよう厳重に注意いたします」
「即刻犯人を捜してください。これじゃ恐ろしくて稽古に集中できません」
私は激昂して叫んだ。心臓が激しく鼓動している。
「本当に申し訳ございません」
制作部の女性は平謝りに謝り続けた。
その誠実な態度に徐々に興奮が鎮まっていく。この女性に怒りをぶつけても仕方がない。
「百合亜さん」
そこへ水原琴美が血相を変えてやってきた。すでに更衣室でも話題になっているようだ。
「私のシューズを使ってください」
彼女は自分の運動靴を脱ごうとする。
「大丈夫。受付でスリッパを借りたから」
と足元を示した。
午前のダンスレッスンはダンスシューズに履きかえるし、昼休みになればお店も開くだろうから近所の靴屋で新しいものを買い求めればいい。
「それよりレッスンが始まるわ。急ぎましょう」
気持ちを奮い立たせ、琴美を急かして更衣室へと急いだ。
卑劣な犯人の脅迫に屈してなるものか、という気持ちだった。自分が顔色一つ変えず平然とレッスンに参加することが、犯人に対する最大の復讐になるのだ。
だが、バレエレッスンが始まって三十分が過ぎた頃、突如として過呼吸が襲ってきた。
最初は多少の息苦しさを覚えただけだった。慣れないバレエの動きに息が乱れただけで、すぐに治まるだろうと考え、誤魔化しながらレッスンを続けていたが、やがて手足や唇が意思に反して震え出し、ついには水を張ったバケツに顔を突っ込まれたような窒息感が襲ってきた。
「徳大寺さん、大丈夫?」
と女性教師から声をかけられた時には、返事もできない状況だった。
琴美に付き添われて地下の医務室へと運ばれる。
極度の緊張や不安に見舞われた時、私は抗いがたい発作に襲われることがよくある。医者からはパニック障害だと告げられた。ここ一年ほどは薬のおかげで発作に襲われることはなかったものの、やはりスニーカーを切り裂かれたことが影響しているのだろうか――。
三十分ほどベッドで横になっていると、徐々に呼吸が落ち着き、血流も平常時の状態に戻っていった。と同時に、心の底から悔しさが込み上げてきた。
「情けない」
大勢の前で精神的弱さを露呈した自分が許せなかった。運動靴を切り裂いた犯人は、思う壺だとあざ笑っていることだろう。
それにしても、一体誰があんな真似をしたというのか。普通に考えれば、私の存在が邪魔な者――すなわちミミ役を争う片桐あずさ――ということになる。先程バレエの稽古場にはピンクのレオタードに身を包んだあずさの姿もあった。私が過呼吸に陥った時、彼女はどんな様子でこちらを見ていただろうか。思い出そうと脳を働かせるが、記憶が蘇ってこない。
「情けなくなんかないですよ」
琴美が笑って口を開いた。彼女は先程からずっとベッド脇の椅子に座って付き添ってくれている。
「あんな目に遭ったら、誰だって動揺します。この劇団内に卑劣な人間がいることが、私はとても恥ずかしいです」
「やったのは片桐あずさかしら。どう思う?」
「さあ、どうでしょう。その可能性はあると思います。でも、真っ先に疑われることが分かっていて、わざわざあんな真似をするでしょうか」
「でも他に考えられる?」
「百合亜さんの過去については、みんなよく知っているんです。中には、あんな事件を起こした人に劇団内に足を踏み入れて欲しくないと考えている者も大勢います」
「……そう」
私は小さく頷き、弱々しい視線を宙に結んだ。「嫌われてるもんね……私」
六年前の事件以降、世間から様々な悪意に満ちたレッテルを貼られ続けてきた。
――常軌を逸したソプラノ歌手。
――怒ると何を仕出かすか分からない天才気取りの女。
――彼女を起用する演出家は命がけ。
今回の復帰に際しても、すでに一部メディアやネット上で話題にのぼり始めている。
「あんな女を起用して大丈夫か?」
「また、やらかすんじゃないか」
など嘲笑と批判が入り混じった文言がSNS上に踊っている。
「気にしないことです」
琴美が言った。「って言っても無理でしょうけど、それ以上のエネルギーで稽古に意識を集中させるんです」
「そのつもりよ。こんなことで負けたりしない。半端な気持ちでミュージカル界に来たわけじゃないわ。残りの人生を全てかける覚悟で、これが最後のチャンスだと思って挑んでいるの。何があっても逃げるつもりはないし、絶対に役を掴みとってみせる」
自分に言い聞かせるように、結んだ右拳を胸にあてがいながら言った。
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